2013年12月30日月曜日
Taj Mahal
年も押し迫る賑わいの中、先生にお出まし頂き、喫茶店で修論を指導
頂くこと3時間。口角泡を飛ばしながら、訳の分からない用語を
話し込んでいるのは、はた目に随分奇妙な2人だったことでしょう。
何とか三章のメソドロジーとケーススタディを形にして持っていったので、
お渡ししておいた二章と合わせて、中身のドラフトはできました。
全面書き直しを覚悟していた二章も、部分的な構成の変更で済み、
それはそれで大変なのですが、とりあえず白紙に戻さずにすんで
よかったです。
問題は、最後のディスカッションと結論の着地点がまったく見通しが
たっていないこと。イントロもまだなので、今日明日、
大晦日にはとにかくドラフトを全部仕上げてしまいたい。
たたき台にせよ、プリントアウトして紙が字で埋まるとほっとします。
できた56ページのうち、36ページは音声データの書き起こし
なので、実質上20ページしか書けていないのですが、紙の束に
すると何かやった気がする、と。これ意外と大事です。
表題は、喫茶店で今日頂いたケーキでした。ほんとうにタージマハール
の形をしたケーキでした。インドいつか行きたい。早く大吟醸飲みたい。
P.S.ところで、院生で実家のおせち料理おすそ分けいる人は別途連絡ください。
2013年12月28日土曜日
薄っすらと、でもまだまだ
手探りで進んでいた真っ暗闇のトンネルの先に、やっと微かに光が、
あそこが出口かな、というような光がわずかにさしてきました。
というか、さしてきたような錯覚がするだけかもしれませんが。
外国語教育質的研究会で指南頂いた質的分析ソフトATLASxi を、切羽詰まって
きたので、失敗覚悟で使ってみました。ほんとにステッィクメモの代わりに
ラベル付けがスイスイ進んで、コードの関係づけまででもとても便利です。
コードのネットワークを作ってみると、今まで見えなかったものが騙し絵の
ように浮かび上がってくるような気がします。
データの分析のみならず、論文や本の文章の概念もこれで整理できるのでは。
でも思考ツールとしてあまり便利なのも、何かこのソフトの中に脳が
閉じこめられるようで気持ちが悪い。
自分が行き詰まった時に、人と話すことでふと別の角度から見る
ことができるような、そんな使い方ができればいいですね。
もっと複雑なことが色々できるようですが、今回は試用版であることもあって、
扱えるデータの量も限られているので、ここまでに留めておきました。
いよいよ年末ですね。レッスンを始めてから毎年欠かさずやっていた
クリスマスパーティーも今年はなく、年賀状も書かず、ひたすら修論。
指導教官に、理論的背景部分を提出したままおたずねもしていなかったので、
連絡をしたところ、おそらく全面的に書き直しになりそうな雰囲気が
電話を通して伝わって来ました。先生、ごめんなさい!
2013年12月26日木曜日
クリスマスですが
修論の見通しが甘くて、ぜひとも聴講させて頂くつもりだった
ヨーロッパ文化の授業を断念。メールでその旨ご連絡したら
先生も31日締切の原稿が書き進まず、崖っ縁です。とお返事が
即返ってきました。
いつもニコニコと人格穏やかな伊勢先生が崖っ縁というのは
想像もできませんが、きっとそんな様子は微塵も見せず柔かに
優雅に、二日間の講義をなさるのだろうな、と思うと、
プロに教師の凄さにただただ頭をたれるばかりです。
しかも二月も三日間お世話になるので、修論完成祝いパーティーを
しましょう、とまで言ってくださり、どこまで優しいことを、
と感激します。
そこまで言ってもらえるなら頑張って恥ずかしくないものを
書かなくては。がんばる!
2013年12月24日火曜日
triangulation とjustification
なにをどうするのかの手順もわからないまま、知人の協力を得て二時間ほどやってみました。
triangulation なるもの。
とりあえず、これまで録音した膨大な記録を聞いて、面白いと思ったレッスンを一時間
まるまる書き起こし、発話の順番で番号をふります。
一時間で1500以上、2000を越える発話になることもあります。
そのなかから、事例としてつかえそうな書き起こしを、発話の番号とともに抽出して、
それを読んでもらいました。
あらかじめ、理論の部分は20分ほどで説明しておいたので、談話のなかから
何を焦点とするのか、その理論的背景は何か、ということも理解していただいて
います。
協力者は、中学校教師の経験が9年あるベテランなので、スクリプトを読んだだけで
大体の状況がつかめます。
そしてその部分の録音をきいてもらいました。子供の声、調子、ピッチ、速さ、を
聞くと、より鮮明に状況と子供の性格やタイプが掴んでもらえます。
そして、それについてディスカッションをしました。
こんなのでいいのか、かなり心もとないです。でも、「やってみないとわからない」
ウィトゲンシュタイン風にいうと、自分の論理空間だけで過ごしているのでは、
なく他者の論理空間を共有してはじめて、他者の理解ができる、ということ
なので、それを実践したということです。
理論、研究、実践の三角、のそれぞれのインターアクション、というのを
少しだけ体感しました。
でも、まだまだ、材料が足りません。
先日、質的研究会で、高木先生が繰り返し言われていたのは、とにかく一つの現象を、
深く深く、いろいろな資料を使いながら、多角的に、見ていかないと、説得力が
ない、解釈も主観的だといわれてしまう、そういわれないように丁寧に細かく
みていくのよ、と。 それが質の面白いところなのよ、と。
本当はもっともっと時間をかけて、沢山書き起こして、その中から珠玉の
ケースを取り出すという手順を踏まないといけないのに、時間がない。
一年位前から、そうなることを想定して準備してきたつもりだったのですが、
やはり腰がひけていました。こわい、こわい、と思いすぎていました。
談話のコード化もろくにできていないし。
でも、まだ時間はあるので、がんばります。
2013年12月23日月曜日
認識論から存在論へのヒント
修論の理論部分の中で、で一番乗り越えられなかった箇所を、なんとか
よじ登って、やっと小高い丘の上にきた感じです。巨人の肩どころか、
掌の上に、いや、指の上に登らせてもらって、よいとこしょ、ときたかんじ。
その途中で、書いた読書メモです。目次と、少し読んだ部分だけ。修論終わったら
全部読みたい、と思ってアマゾンで探すと結構高価。
Newman,F. And Holzman, L.,(1997). The End of Knowing- A new developmental way of learners, New York:Routledge
1. Introduction:when will all these ending stop? P1
Engaging reality
Stop making sense
Academics in an anti-institution
2. The epistemological bias p22
Ontology vs. epistemology
The paradigm of paradigmism
But can we really get beyond modernism (that is, knowing)?
It's all the sameness to us
The charge of relativism
3. Radically reforming modern epistemology p47
Discourse, text, conversation-and analysis
Moving beyond the rational(both the explanatory and the interpretive variety)
Developing development
What is the practice of method?
4. Deliberately unsystematic thoughts on a new way of running a country p83
A moment of truth?
A brief history of liberty
The collapse of contemporary liberalism(identity politics)
A word on Marxism - neo- and otherwise
The politics of activity
5. A community of conversations p105
The performance of conversation: a theoretical comment
How to make a performed conversation
Performed emotive conversations
The improvisational performance of developmental learning
The performance of philosophy
The learning-leading-development play
"Beyond the Pale"
The endings stop here
P19
Drawing connections between the crisis in science and in the economy, Newman implicated paradigmism as the no longer effective method of reconciling contradiction, charging that contemporary psychotherapy was a secular religion functioning as a mass institution designed to reconcile the population to a zero-growth economy.
精神療法は、"freedom as mental rather than historical and struggle as personal rather that collective and classwide."(Newman, 1977, p97)
Newmanは、"science without paradigms" の代わりに、"non-reconciliative therapy"
20年のあいだにcultural-performatory approach of social therapyとなるだろうもの、について議論している。
The practice of method:An introduction to the Foundations of Social Therapy (Holzman and Newman, 1979) タイトルはマルクス主義の特徴、"the method of practice (or "praxis"からとったもの。マルクスのnon-dualistic, historical conception of method - in which the "premises" are people "in their actual, empirically perceptible process of development under definite conditions"(Marx and Engels, 1974, pp47-8)の理解からきている。
the revolutionary activity of practicing method
The method of practice
p22
2. The epistemological bias
P24
Ontology VS Epistemology
・modernism( and its historical, institutional catalyst, modern science) evolved from a fundamentally ontological shift:
.300 years of thinking about thinking........Over this period of time (but most especially in this century) modern philosophy (epistemology) and its beneficiary and benefactor, modern science, came to "live by taking in each other's wash" (to use J.L. Austin's eloquent and all-purpose phrase, Austin, 1962)
p25
All other branches of philosophy (such as metaphysics, ontology, and ethics) were essentially orphaned by epistemology even as epistemology (modern philosophy) turned into metascience (philosophy of science and logic)or methodology.
・認識論は近代科学と過剰に同一化してしまったので、哲学としての認識論自身も、テストに通らなくなってしまった。
・哲学上のパラダイムは何百年ものあいだ、巧みに認識論化されてきた。
The philosophical paradigm itself had for hundreds of years been effectively epistemologized; ontology, in particular, had been virtually abandoned as metaphysical and meaning less. 存在論は特に形而上学的で無意味だとして、実質的には捨てられてきた。
Hence, the kind of ontological shift (from stillness to motion) which had triggered the modern age was, for the most part, unthinkable to many of the early postmodernists just coming to philosophy of science for guidance. そこで、modern ageの引き金をひいた(静から動への)存在論的シフトのようなものは、ちょっと軽くガイダンスでも、と科学哲学へやってきた多くの初期ポストモダニストにとっては考えられないことだったのである。
ウィトゲンシュタインWittgenstein (=a fierce critique of epistemologized philosophy)の登場ではじめて、心理学のポストモダニストたちは、近代哲学(認識論)のパラダイムに偏りすぎている、ということが発見されたのである。
ポストモダンにおけるウィトゲンシュタインの解釈は、彼の反認識的、反認知的、治療的なtherapeuticな努力の目的、ポイント、歴史的背景をおさえていない。
それはヴィゴツキーの、反心理学的、転回的、文化的な観点と、マルクスのanti-nterpretational, 弁証法的な観点が、誤解されているのと同じ。
この三人が、共有しているのは、以下の理解(もっと正確にいうと、revolutionary activity that gives rise to oneの傾向)=つまり、an ontological practical-critical transformation is demanded to challenge the methodological hegemony of modern epistemology.
Wittgenstein, Marx and Vygotsky share a fundamental commitment to a revolutionary ontic shift (not an epistemic alteration) from interpretive cognition to activity (most particularly, revolutionary activity) as the dominant unit of human intercourse.
p26
THE PARADIGM OF PARADIGMISM
Paradigmism(パラダイム主義?メタパラダイムのようなもの?)はThomas Kuhn(1962)がThe structure of Scientific Revolutionsで最初に表した。
Conceptual frameworks, paradigms, or ways of looking at things are a critical epistemological/cognitive component of observation itself, as modernist from Kant to Kuhn to cognitive scientists have argued, in our opinion, correctly.
Ways of looking (paradigms) have a complex history; they rise and fall.
P78
Vygotsky's method is dialectical rather than dualistic. It is activity-based rather than cognition-based. Method is practice, not applied. Whatever is to be discovered is not separate from the activity of practicing method; it is not "out there" awaiting the application of an already made tool, but it is dialectically inseparable (that is neither idealistically indistinguishable, nor mentally distinguishable) from the activity of discovery.Practice, for Vygotsky, does not derive from theory. Rather, it is practice that restructures science "from beginning to end", that "poses the task and is the supreme judge of theory" (1982, pp. 388-9). Practicing method simultaneously creates the object of knowledge and the tool by which that knowledge might be known. Tool and result come into existence together; their relationship is one of dialectical unit, not instrumental duality(Newman and Holzmna, 1993,1996)
2013年12月21日土曜日
第14回外国語教育質的研究会
日帰りで、いってきました。
などなど
若いと、皆さん育てようと熱心に言って下さるんですね。東大君頑張れ〜。
今年最後でしたが回を重ねるごとに人数が増えて、今日初めてという
方も数人いらっしゃいました。
1.ティーム・ティーチングによる英語教員の相互変容
ー言語教師認知に着目してー
東京大学大学院 山田雄司
修士の方の論文構想の発表でした。ALTと JTEによるティームティーチング
を観察、インタビューなどで分析して、両者の認知変容を明らかにしたい、
という構想でした。
山ほど意見が出ていました。
.着眼点と先行研究をよく調べていると、いうのは誉められていましたが、
私のような素人からみても実践の部分が非現実的だな〜、と〜いうのは
よくわかり、びっくりする程批判されていました。
.着眼点と先行研究をよく調べていると、いうのは誉められていましたが、
私のような素人からみても実践の部分が非現実的だな〜、と〜いうのは
よくわかり、びっくりする程批判されていました。
・初めてTTをする新任教員を対象とするのは、要因が大きすぎる。
・数組データを取りたいというのは、量的研究の発想。一組を多角的に、
深く厚く語るべき。時間的にも現実的でない。
・質的研究はボトムアップ的にやるしかない。見えてきたものが大きければ、
始めの思いは捨てなくちゃいけない。
・はじめからこれを見つけようと決めつけてはいけない、手ぶらで始めなくては。
. 頭でだけ考えてもうまくいかない、参加者との関係が重要。
・質的研究はボトムアップ的にやるしかない。見えてきたものが大きければ、
始めの思いは捨てなくちゃいけない。
・はじめからこれを見つけようと決めつけてはいけない、手ぶらで始めなくては。
. 頭でだけ考えてもうまくいかない、参加者との関係が重要。
などなど
若いと、皆さん育てようと熱心に言って下さるんですね。東大君頑張れ〜。
2.ワークショップ
千葉大学 非常勤講師 山口長紀
QDA(質的データ分析)ソフトの入り口を紹介してもらいました。
事前にソフトの試用版、ビデオ、写真、文書のファイルをダウンロードして
持ってきて下さい、ということで膨大な書きおこしのコード化と
その関連付けに非常に便利なものでしたが、
もっと早く教えてほしかった〜。
(昨日の投稿に追記:教えていただいたソフトの試用版はこちら
http://www.atlasti.com/demo.html
Atlas ti というものです。)
1.について、発表すればあれだけ言ってもらえて凄く勉強になるんですよ、
と隣席の方に他人事のように言っていたら、次回の発表者ですが、つと、
高木先生と目が合って、三月ならもう修論終わってるよね、と言われ。
居並ぶ先生方の前でまた叩き台になることに。ありがたいことです。
QDA(質的データ分析)ソフトの入り口を紹介してもらいました。
事前にソフトの試用版、ビデオ、写真、文書のファイルをダウンロードして
持ってきて下さい、ということで膨大な書きおこしのコード化と
その関連付けに非常に便利なものでしたが、
もっと早く教えてほしかった〜。
(昨日の投稿に追記:教えていただいたソフトの試用版はこちら
http://www.atlasti.com/demo.html
Atlas ti というものです。)
1.について、発表すればあれだけ言ってもらえて凄く勉強になるんですよ、
と隣席の方に他人事のように言っていたら、次回の発表者ですが、つと、
高木先生と目が合って、三月ならもう修論終わってるよね、と言われ。
居並ぶ先生方の前でまた叩き台になることに。ありがたいことです。
2013年12月20日金曜日
街場の文体論
修論あいかわらず亀の歩みでのろのろと進めています。
ちょっと一区切りしたので、ひさしぶりに内田樹先生の「街場の文体論」を
パラパラめくっています。
「言語は道具ではない」「君たちの世代は英語は壊滅的にできない。壊滅的にできない、
というのは学力の問題ではありません。『言葉とは何か』という根本の考え方が
間違っているからです。」
「本来、外国語というのは、自己表現のために学ぶものではないんです。自己を豊かに
するために学ぶものなんです。」
「理解できない言葉、自分の身体のなかに対応物がないような概念や感情に
さらされること、それが外国語を学ぶことの最良の意義だと僕は思います。」
「浴びるように『異語』にさらされているうちに、あるとき母語の語彙になく、その外国語
にしか存在しない語に自分の体が同期する瞬間が訪れる。」
「そういう生成的な経験なんです。外国語の習得というのは、その『一陣の涼風』を
経験するためのものだと僕は思います。」
これは外国語だけでなく、日本語にも言えること。修論のために難解なことば、
難解な文章をあっちから切り取り、こっちから切り取り、写したり、訳したり、戻したり、
並べなおしたり、しているうちに、少し「同期」するような気がしてきました。
この本もよく売れているようで、友人の一人はこれまで読んだ中でベスト10に
入る、と言っていました。沢山の日本人が、わかりやすく読めてよいことだと
思います。
自分も英語は道具だと思っていました。実際に子供たちにそういったことも
あります。話す中身が大事だから、大学ではもっとほかのことを勉強して
英語は手段として勉強するんだよ、と。間違ったことを言っていたものです。
大学院で勉強をはじめるまでは。
内田先生の専門はフランス思想で、語学が専門ではない先生がこのような深い
言語観をおもちで、英語教育学会でも、学校教育をつかさどる場所でも、
いっこうにこのような言語観が聞かれない、とはどういうことなんでしょうか。
道徳より、学校に哲学、とか、世界の思想、とかいう科目を入れてほしいですが、
今は倫理社会とかきっとないんでしょうか。
理科でも、科学の深い話など授業であまり聞いた覚えはないし、大学で心理学
を学んだ時も、あまり深い話は聞いたことがなかったのは、自分にそれを
聞ける構えがなかったからでしょうか。
2013年12月11日水曜日
Transcription
3日くらいかけて書き起こしていたのが、やっと一つできました。
1時間10分でなんと2149行!どんだけしゃべってんねんという話ですが、関西だから
これだけ饒舌なんでしょうか、子どもって。しゃべるしゃべる、中にはまだ考えも
してないことを舌の上に先にのせて、口に出してから思いは後づけ、みたいな。
子ども同士の間で、間主観性が生起する様子もよく見えたような気がします。
相手に合わせようとする性癖って、子どもの時ほど顕著に見られるのか、
日本人でない子どもたちで調べてみると、違いがわかって面白そうだなあ、と
思ったり。
前はもっと早くできたのに、これだけ時間がかかったのは修論に使うために後から
日本語をローマ字に直すよりは、いっそ始めからした方が速いと思ってそうしたのと、
かぶっている発話を全部行を分けて書き起こしたからです。
でも、まだまだ書き起こしがあるので、エンドレス。終わりがみえてこない。
解釈と理論の整理はその合間にやるしかないので、みんなのように、一章ずつ
きっちり詰めていくとか、凄いなあ、と思ってしまいます。
2013年12月9日月曜日
亀の歩み、ですが。
修論は亀の歩みでのろのろと進んでいます。
終わったら、あれしよう、これしよう、とばかり考えています。
先日久しぶりに行った梅田ガーデンシネマで観たいなとー思った映画がいくつも。
少女は自転車にのって サウジの女の子が禁止されている自転車に憧れる
http://www.shoujo-jitensha.com/
さよならアドルフ ナチスの高官の子供が、真実と向き合う
http://www.sayonara-adolf.com/
光にふれる ウォンカーヮイ監督、盲目のピアニスト
http://hikari-fureru.jp/intro.php
ブランカニエベス ゴシックバロック系?と思いきや闘牛士の話
http://hikari-fureru.jp/intro.php
外国語質的研究会も今月と来月あり、来月の輪読会は修論提出の二日後、
章一つのレジュメを引き受けることにしました。居並ぶ大学の先生方にご迷惑を
おかけするのは、ほんと重々承知で、教えて頂くばかりで余りにも心苦しく、
叩き台にして貰えればと恐る恐るメールするとあっさり、ではやってね、
とお返事。お正月の大徳寺の手伝いも手あげてしまったし、次の入試の
準備もあるし、余裕のないところに次から次へと予定が入ってしまう、
というか入れてしまいます。
映画みたり、気の合う人達と早く飲みに行ったり遊びに行ったりしたいなあ、
できるんだろうか。久しぶりに家族で温泉でも行きたい。でも、三月末には、
留学生達が来日するので、その前頃からまた会議やオリエンテーションで
忙しくなる。あくせくあくせく。
活動の対象性というのは、はっきりと意識されるものではない、それを
研究している自分であるのに、具体的数値的な目標を常に前において、
それを目指して進んでいくしか、やっぱりそういう生き方から抜けられない、
三つ子の魂百まで、とはよく言ったものです。
終わったら、あれしよう、これしよう、とばかり考えています。
先日久しぶりに行った梅田ガーデンシネマで観たいなとー思った映画がいくつも。
少女は自転車にのって サウジの女の子が禁止されている自転車に憧れる
http://www.shoujo-jitensha.com/
さよならアドルフ ナチスの高官の子供が、真実と向き合う
http://www.sayonara-adolf.com/
光にふれる ウォンカーヮイ監督、盲目のピアニスト
http://hikari-fureru.jp/intro.php
ブランカニエベス ゴシックバロック系?と思いきや闘牛士の話
http://hikari-fureru.jp/intro.php
外国語質的研究会も今月と来月あり、来月の輪読会は修論提出の二日後、
章一つのレジュメを引き受けることにしました。居並ぶ大学の先生方にご迷惑を
おかけするのは、ほんと重々承知で、教えて頂くばかりで余りにも心苦しく、
叩き台にして貰えればと恐る恐るメールするとあっさり、ではやってね、
とお返事。お正月の大徳寺の手伝いも手あげてしまったし、次の入試の
準備もあるし、余裕のないところに次から次へと予定が入ってしまう、
というか入れてしまいます。
映画みたり、気の合う人達と早く飲みに行ったり遊びに行ったりしたいなあ、
できるんだろうか。久しぶりに家族で温泉でも行きたい。でも、三月末には、
留学生達が来日するので、その前頃からまた会議やオリエンテーションで
忙しくなる。あくせくあくせく。
活動の対象性というのは、はっきりと意識されるものではない、それを
研究している自分であるのに、具体的数値的な目標を常に前において、
それを目指して進んでいくしか、やっぱりそういう生き方から抜けられない、
三つ子の魂百まで、とはよく言ったものです。
2013年12月7日土曜日
Zeitgeist Film
ハンナアーレント見てきました。
色んな見方があると思いますが、一つ面白いなあ、と思ったのが彼女が
あくまでも論理的に本質的に真実を捉えようとしたのに対し、ユダヤ人社会で
の感情を基にする世界観の中ではそれは真実ではなかった、ということ。
スケールは違いますが、日常生活でも起こりうることだと思いました。
また、ご一緒した人に、彼女は今評価されているのか?と聞かれて調べて
みると、wiki情報では、New York Jewish Film Festival でオフィシャルセレクションに
2010年に上がっているので、ユダヤ人社会でも今は認められているのも面白い
なあ、と思いました。
その調べものの副産物として、表題の映画会社を見つけました。Zeitgeistというのは、
時代精神、だそうです。そういえば指導教授がこの言葉言ってらした覚えがあります。
ジェジェクが作った映画やデリダというと題名の映画も過去の上映リストにあります。
ジェジェクのはこちら。日本でも上映してくれないかなあ。
http://m.youtube.com/watch?v=NUKbhKV7Ia8&desktop_uri=%2Fwatch%3Fv%3DNUKbhKV7Ia8
色んな見方があると思いますが、一つ面白いなあ、と思ったのが彼女が
あくまでも論理的に本質的に真実を捉えようとしたのに対し、ユダヤ人社会で
の感情を基にする世界観の中ではそれは真実ではなかった、ということ。
スケールは違いますが、日常生活でも起こりうることだと思いました。
また、ご一緒した人に、彼女は今評価されているのか?と聞かれて調べて
みると、wiki情報では、New York Jewish Film Festival でオフィシャルセレクションに
2010年に上がっているので、ユダヤ人社会でも今は認められているのも面白い
なあ、と思いました。
その調べものの副産物として、表題の映画会社を見つけました。Zeitgeistというのは、
時代精神、だそうです。そういえば指導教授がこの言葉言ってらした覚えがあります。
ジェジェクが作った映画やデリダというと題名の映画も過去の上映リストにあります。
ジェジェクのはこちら。日本でも上映してくれないかなあ。
http://m.youtube.com/watch?v=NUKbhKV7Ia8&desktop_uri=%2Fwatch%3Fv%3DNUKbhKV7Ia8
2013年12月2日月曜日
つまみ読み
認識論と存在論を子どもたちの発話からどうとらえていいのか、あちこち漁っていたら、
にわかにHolzmanが気になって、図書館で、The End of Knowing-A new developmental
way of learning, Newman. F & Holzman, L. を見つけて、つまみ食いならぬつまみ読み。
その中のポストモダニズム批判の記述の中に、三人のアンファン・テリブルとして
マルクス、ヴィゴツキーに列べてウィトゲンシュタインが挙げられていました。
ただでさえアップアップしているのに、これ以上難しいことに手を出すのは
控えようと思っているのですが、気になる気になる。
活動理論と直接関係ないんですが、彼方此方で名前が散見されるので、
ちらっとだけウィキペディアで読んでみました。
天才で人付き合いがへたで、ついに世を捨ててノルウェーの山小屋に
1人こもってしまったり、庭師をしたり、自殺願望に苛まれたり、
生きづらそうな人です。提出した論文が規定にのっとっていないと
拒否されて、何でそんな規定があるんだ、と激怒したり。
でも、そういう才能を認める人がちゃんといて、その思想が
埋もれてしまうことがなかったのは、社会にとって幸運なこと。
権威や権力に惑われされない、本物を見極めることができる人に
なれたらなあ、と思いました。が、またそういう人たちも、
世の中の潮流に逆らって生きなければいけないので、
それはそれで大変。お金も仲間も必要ですし。
もう一冊、修論とはこれも関係なく、「ハーバーマス
ーコミュニケーション行為」中岡成文著、もつまみ読みしています。
この人も、若い時に空気が読めなかったらしく、研究所の上司を
怒らせるような論文を書いて首になったりしています。
二十四才でハイデガー書評を書いたりしている。ハイデガーと
当時の知識人たちがナチスを支持して政治的に
偏ったことについて、モノローグ的な伝統を打破しようと
して、対話性に訴えるかわりに、実存主義的な別のモノローグに
陥ったと看過しているようです。
あ、そういえば、教えてもらったハンナ・アーレントの映画を
紹介したら、大人の女性達から私も気になっていたという人が出てきて、
見に行くことになりました。楽しみです。
2013年11月28日木曜日
conversational narrative
修論の〆切まで、二ヶ月イベントは最小限にしようと決めていたにも関わらず、
断れきれない予定や、必要な行事や、人手不足で見ていられないのでつい
手を出してしまったりで、落ち着いて時間が取れない上に
またPCがつかえなくなり、各章ごとのワードファイルをブランクで
先週作成したところで止まってしまいました。
ようやく、新しいナラティブの本からヒントを得て、研究方法を一頁だけ
書くことができましたが、こんなペースでは不安で心許ない限りです。
本は、Narrative Research in Applied Linguistics, edited by Gary Barkhuizen,
Cambridge University Press. 各章でちがう研究者の具体的なナラティブを
使った分析が書かれていて、読みやすい。まだ、行き当たりばったりに
二章しか読めていませんが、こんなふうにやったらいいのかなあ、と
暗闇の中で遠くに光がさした感じ。まだまだ手探り状態です。
criteriaを設定して、語りをジャンルで分ける、ということから
始めればいいのか。考えてみれば当たり前のことが自分では思いつかない
フレームワーク。
これに勢いを少し得て、昨年授業で読んだ本も改めてめくって見ると、
視点が少し変わって来たので助けになりそうです。
いよいよ覚悟を決めて、禁酒に突入。どうなることやら。あ、家飲みだけ
にしようかな。と全然覚悟はできていない。
2013年11月22日金曜日
修論指導と。。
久々にお忙しい指導教官にお時間を頂き、修論の章立てだけみて頂きました。
終わったので、ホッとして今朝一番に買ったボジョレーヌーボーを
空けています。やはり、紫色がフレッシュで果実味があってすごく美味しい。
一人で飲むのは勿体無い。
いやいや、ワインの話でなく、修論でした。
とにかく活動理論を調べれば調べるほど面白くなってきたので、その気持ちと
自分が探して来た、活動理論に詳しい百合草先生の論文三つ、そして
方法論について質的研究会で高木先生が次回テキストに指定された
昨日届いた本をお見せして、読んだばかりのconversation narrative という手法
でこれで行きます、と勢いで攻めて行きました。
文章をお見せすると自分の下手な英文でお疲れの先生を余計疲れさせては
いけないと思ったわけです。
とにかく、構成だけは、これで良い、とお墨付きを頂いたので、一歩前進です。
あと、活動理論には意識がない、というご意見には、レオンチェフの元本は
「活動と意識と人格」であって、意識に一章を割いていて、意識理論も
打ち立てているのですから、そんなことを書いたら分かっている先生方から
非難轟々です。意識をいれていないのはエンゲストロームであって、レオンチェフは
入れてます、と説明して納得して頂きました。
他、モスクワのお話も面白かったのでお聞きして、時間切れ。章だてはこれで
いいですよね、と最後に確認して終わりました。
フロー理論の章もお疲れなのか削らずに済みました。
ふううう。頑張りました。ボジョレー美味しい。
2013年11月20日水曜日
認識の違いが世界を変えることについて
今日、あと修論の締め切りまで二か月やね、と院生としゃべっていて
ひっくり返りそうになった。
かなり人見知りだと思っていたので、いろいろ心配で教師になったら、
ティーンエージャーというものは大変、特に女子が大変だからね、よく観察しないと
だれがだれを虐めているとかあなたはきっとわからないと思うよ。
先生の自分に近寄ってくる勢力の強い女子だけでなくて、片隅の弱い子に
目を向けたらなあかんよ、と散々説教したあとで、ごめんね、あなたが
人見知りなので、すごく心配。
すると、僕、人見知りじゃないですよ。
ええ?
そんなこと言われたことありません。逆にだれとでもしゃべって、人見知りしないと
言われたので、僕だけがそう思っているのではありませんし、と言われたので
仰天した。
いや、だれもがここでは、あなたはシャイだと思ってると思うけど。
え、そうなんですか?
逆に感心した。自分が認識している自分と、他人が認識している自分と、
その例を目の当たりに見て。すごいなあ、衝撃的だった。
これ以上、言うのはやめにした。彼が認識している世界をひっくり返す権利は
自分にはない。
でも、長い人生の中で、広い世界、色々な文化やいろんな人に出会っていく中で
いつか気づくだろうし。
人って面白いですね。
2013年11月16日土曜日
西田幾多郎遺墨展
今日は、関西文化の日で、美術館や博物館が無料の日です。
そのためか、京都市内は人があふれかえっていました。心なしか親子連れが
多かったような気がします。
京都大学で用事があったので、待ち時間の合間に表題の展示を見てきました。
京大の博物館はいつも横目で見て、行きたいなあ、と思いつつ、時間がなくて
行けなかったので今日は30分ほどでしたが楽しかったです。
京都や兵庫県の古代の石棺や、壺、古墳に並べられていたさまざまな埴輪の復元、
工学的なねじ回しの展示、海や地球の深い考察の展示、哺乳類の骨など、ありとあらゆる
分野の専門的な展示があって、幼い子供を連れた若いお父さんお母さんたちが、見て
楽しんでいるのをみて、ああ、いい幸せな風景だなあ、、とかつての自分の
娘を中心とした家族を思い出していました。
若い人たちには、一生結婚しない、などといわず、本当にいい人を見つけて、幸せな
家族をつくって、幸せな子供たちに満ち溢れた日本という国をつくってほしい、と
つくづく思います。自分勝手な理想かもしれませんけれども。
西田幾多郎は、自分が高校生の時にお名前を聞いていて、写真も拝見したことが
あります。 記憶にはないのですが、おそらく「善の研究」も手に取って読もうとしたことが
あり、哲学の道、も西田幾多郎が歩いた道だ、と若い時に歩いてみたことがあるので、
勝手に親しみを感じています。
今回も、えらい先生というよりは、親戚の賢いおじさんが残した書道の書き散らしを
見ているような感覚で見ていました。 やはり、文は人なり、字は人なり、というのか、
お書きになった字を鑑賞していると、豪放磊落なように見えて、いろいろ迷いがあった
方なんだろうな、それを解決しようとして、禅や哲学を極めようとされたのかな、
と思いました。とにかく、定まらないんです、字が。いろいろいろいろ試された
という気がしました。
書の意味を読んでいるだけで、深くて、煩悩にとらわれがちな自分を戒めてもらって
いるような安心感があります。日本の父ですね。
そのうちの一つ。
心外無別法
をネットで探してみました。
http://www.afs.co.jp/partner/vo22/vo22kaku.htm
2013年11月15日金曜日
「世界の英語を映画で学ぶ」
いつも読んでくださってありがとうございます。
さて、帰宅すると表題の本がアマゾンから届いていました。
マニラの学会でお知り合いになって最後の夜お食事を一緒にしていただいた
京都府立大の山口美知代先生の著書です。
映画のことをお聞きすると、よくぞ聞いてくれました!と目を輝かして
いろいろ語ってくださいました。京都教育大学付属高校を卒業されて、京大へ
行かれ、大学院在学中にケンブリッジ大学に留学されたというエリート中の
エリートです。でも、謙虚な方で、そんなそぶりはみじんもなく、発表もお話も
地に足のついたもの、こういう方にお会いすると本当にほっとします。
海外の学会にいくと、普段は知り合う機会もなく、近寄れないような先生方と
少し近しくなれるのが嬉しいですね。
山口先生のブログはこちら。
http://d.hatena.ne.jp/myama-kpu/
修論のあいまに(すみません、山口先生)、読ませていただこうと思います。なぜか、
映画館に行ったり、DVDを見たりして気晴らしをすると、書けない気がして(気が小さい)
気晴らしは、家飲みと修論関係以外の本を読む、facebookとこのブログ、院生としゃべる、
図書館にいく、ぐらいしかないものですから。
この本に書かれている映画は表紙を見る限り、「日の名残り」「クラッシュ」「ザ・コミットメンツ」
「オーストラリア」「第9地区」「モンスーン・ウェディング」「フォーエバー・フィーバー」
来年書き終えたら、絶対全部見てやる!
ちなみに、毎日40~50アクセスもこのブログにあるので、気をよくしてどんどん書いて
いたら、結局スパムへの誘導だったようです。
いつもちゃんと読んで下さる少数の方に改めて感謝。ありがとうございます。
さて、帰宅すると表題の本がアマゾンから届いていました。
マニラの学会でお知り合いになって最後の夜お食事を一緒にしていただいた
京都府立大の山口美知代先生の著書です。
映画のことをお聞きすると、よくぞ聞いてくれました!と目を輝かして
いろいろ語ってくださいました。京都教育大学付属高校を卒業されて、京大へ
行かれ、大学院在学中にケンブリッジ大学に留学されたというエリート中の
エリートです。でも、謙虚な方で、そんなそぶりはみじんもなく、発表もお話も
地に足のついたもの、こういう方にお会いすると本当にほっとします。
海外の学会にいくと、普段は知り合う機会もなく、近寄れないような先生方と
少し近しくなれるのが嬉しいですね。
山口先生のブログはこちら。
http://d.hatena.ne.jp/myama-kpu/
修論のあいまに(すみません、山口先生)、読ませていただこうと思います。なぜか、
映画館に行ったり、DVDを見たりして気晴らしをすると、書けない気がして(気が小さい)
気晴らしは、家飲みと修論関係以外の本を読む、facebookとこのブログ、院生としゃべる、
図書館にいく、ぐらいしかないものですから。
この本に書かれている映画は表紙を見る限り、「日の名残り」「クラッシュ」「ザ・コミットメンツ」
「オーストラリア」「第9地区」「モンスーン・ウェディング」「フォーエバー・フィーバー」
来年書き終えたら、絶対全部見てやる!
ちなみに、毎日40~50アクセスもこのブログにあるので、気をよくしてどんどん書いて
いたら、結局スパムへの誘導だったようです。
いつもちゃんと読んで下さる少数の方に改めて感謝。ありがとうございます。
英語教育の定義
人に、どんどん英語教育から離れていくようだ、と言われてびっくりした。
離れていくどころか、このところどんどん深まっていると感じていたからです。
そういう方に、一度正面切って聞かなくては。あなたにとって英語教育とはなにか?
おそらく、それは公教育で今実践されている授業のことであり、いわゆる「英語教育」関
連の学会や専門雑誌に掲載されるような研究のことであり、言語哲学や人間の営みと
しての学習や、言語や活動がつくりだす意識や人格というものは、その方の定義する
「英語教育」ではないんでしょう。
この夏、全国英語教育学会に行って感じたことでもあるのですが、院生フォーラムに
来てみたら、と言われて行ってびっくり。学生たちが交流を広げるためにせっかく
企画してくれているのに、同じテーブルの院生が、私は話すのが苦手なんです、
話しかけられたら話すので、質問してください、と構えていました。しかも、その方は
某国立大の博士課程で専門はスピーキングなんだそうです。
話してみると普通に感じのいいかたでしたが、こんな人に「スピーキング」とか「英語」
「教育」を委ねている現状では子供たちがかわいそうだと思いました。
なんかちがうなあ。飲み会とかしても思いますが、苦手な人を避けて話さないとか、
気の合う人だけ自分の周りに集めて居心地のいい空間をつくって、それでよし、
としているひとに、さまざまな子供たちをよくみてまとめる、という難しい仕事が
本当にできるんだろうか?
人を見て、その一面だけで判断してレッテルを貼り、それ以上知ろうともしない、
いいところを探そうともしない、教師というのはそういうものなのか?
公教育で教える資格もない自分がいうのもなんですが、学校という場で、
個性の強い教師が自分の好き嫌いをにの次にして、教師集団として、
チームワークをつくって知恵を出し合い、役割分担をしあって
タッグを組んで、繊細で難しい子供たちに対処していくことがこの人たちに
本当にできるんだろうか、これまでできてきたんだろうか、
と大きなクエスチョンマークがつく、今日この頃でした。
2013年11月14日木曜日
大阪大学シンポジウム「言語教育の現状と展望」
少し遅れて参加するぐらいだろうと思っていましたが、
京都から豊中はモノレール使ってもやっぱり遠く、第二部
の最後の講演と第三部のみを拝聴するに留まりました。
第一部 教材作成システム
第二部 到達度・評価、・外部試験
第三部 カリキュラム改革
拝聴できたのは以下。
二部は西口光一先生
「留学生を対象にした総合日本語における教育内容と評価の課題」
様々なバックグラウンド、様々な習熟度、様々なニーズの
留学生相手にカリキュラムを設定することの難しさ、
でも大学教育としての日本語教育をどう考えるか、基幹日本語
という概念を決めていらっしゃるようです。
どちらかといえば、公教育でなく、私塾で教えていて
どう教えるか、ということに全くしばりのない自分の
立場に似ているなあ、と思いながら聞いていました。
三部はカリキュラム改革
「平成26年度の外国語教育改革ー英語と初修外国語」
阪大は、欧米に偏らないグローバル化を目指すということで、グローカル25
を目指しているそうです。英語プラス24か国語なんですって。わが母校も
なかなかやる。私がいるときには、ダサい大学だったんですが、最近はキャンパスも
お洒落になっていて、ちょっとうれしかったです。
終わってから、覚えていらっしゃらないだろうな、と思いながら、西口先生にご挨拶
して、ヴィゴツキー学会で活動理論の発表をしたんです、と報告をしたら思い出して
下さって、うれしかったです。 博士課程の佐藤美紀先生も、付き添って下さって
心強く思いました。
西口先生の授業の聴講したいんです、とお願いしたら、来年できますよ、と言って下さったので
幸せいっぱいでした。
2013年11月13日水曜日
続「見たことない」
10月9日のブログ「見たことない」から、ほぼ二週間後に書いていた下書き。
「前々回、中一女子が、見たことない、というので、「小学生の英語」という
単調な文法の本をめくらせて、習ってない、もしくは、覚えづらい、と
感じたページにスティックメモを貼らせてみました。
それをもとに、人称代名詞の演習をしたら、入る入る。theirs, ours, his, hers, とか
入りにくいものも。
ポイントは、自分で分かってない文法項目を選ばせることと、説明は最小限に
とどめて、パターンプラクティス的なライティングに徹底する、ということか。
帰り際に、風邪で休んだ子のことを、損したな、と言っていたのがすごく印象に
残った。つまり、単調な文法の演習を、得した、と捉えたわけだ。」
今日はそれから三週間後。
女子というものは、老いも若きも利用できるものは徹底的に利用しよう、という
精神があるのか、開口一番、
「先生、明日からテスト一週間前やからテスト勉強していい?」
いいよ、範囲わかってるん?
「うん、学習プリントのファイル持ってきた」
なんと三人とも、教科書、授業のファイル、ノート、示し合わせたわけでもないのに
取り揃えてきた。しかも、
「英語は、水曜日やから、来週もテスト勉強につかっていい?」
いいよ。
この三人は、小学低学年のときから、いきなりレッスンの30分以上前に我が家に
あらわれて、せんせい、ここで宿題していい?と、座り込んで、お母さんたちが
申し訳ありません、女子力すごすぎて、と謝ってこられた前科あり。
でもテスト勉強といっても、何を私に頼んでいいかまでは突き詰めておらず、
結局、範囲の本文のディクテーションをして、間違ったところを復習してくる、と指示
すると素直に従うはめに。
テスト勉強の隙間に、早口で、だれがだれにこくったとか、恋話もちゃっかり情報交換する。
レッスン終わった後、我が家のマンションの前で30分とって話すことにしてるらしい。
昔から生徒たちには、お母さんに言わんといてな、と口止めされる。
知らぬは親ばかりなり。
やれやれ。まあ、生意気さと未熟さがアンバランスなところがまあかわいいっちゃ可愛いです。
「前々回、中一女子が、見たことない、というので、「小学生の英語」という
単調な文法の本をめくらせて、習ってない、もしくは、覚えづらい、と
感じたページにスティックメモを貼らせてみました。
それをもとに、人称代名詞の演習をしたら、入る入る。theirs, ours, his, hers, とか
入りにくいものも。
ポイントは、自分で分かってない文法項目を選ばせることと、説明は最小限に
とどめて、パターンプラクティス的なライティングに徹底する、ということか。
帰り際に、風邪で休んだ子のことを、損したな、と言っていたのがすごく印象に
残った。つまり、単調な文法の演習を、得した、と捉えたわけだ。」
今日はそれから三週間後。
女子というものは、老いも若きも利用できるものは徹底的に利用しよう、という
精神があるのか、開口一番、
「先生、明日からテスト一週間前やからテスト勉強していい?」
いいよ、範囲わかってるん?
「うん、学習プリントのファイル持ってきた」
なんと三人とも、教科書、授業のファイル、ノート、示し合わせたわけでもないのに
取り揃えてきた。しかも、
「英語は、水曜日やから、来週もテスト勉強につかっていい?」
いいよ。
この三人は、小学低学年のときから、いきなりレッスンの30分以上前に我が家に
あらわれて、せんせい、ここで宿題していい?と、座り込んで、お母さんたちが
申し訳ありません、女子力すごすぎて、と謝ってこられた前科あり。
でもテスト勉強といっても、何を私に頼んでいいかまでは突き詰めておらず、
結局、範囲の本文のディクテーションをして、間違ったところを復習してくる、と指示
すると素直に従うはめに。
テスト勉強の隙間に、早口で、だれがだれにこくったとか、恋話もちゃっかり情報交換する。
レッスン終わった後、我が家のマンションの前で30分とって話すことにしてるらしい。
昔から生徒たちには、お母さんに言わんといてな、と口止めされる。
知らぬは親ばかりなり。
やれやれ。まあ、生意気さと未熟さがアンバランスなところがまあかわいいっちゃ可愛いです。
2013年11月12日火曜日
I, you の概念
今日、小5と小3に、代名詞のレッスンをしました。
レッスンを始めて以来、昔からやっていることなのですが、改めて
自分のやっていることの重大さにドキドキします。
日本の小学校では、わたしとあなた、自己とそれに相対する他者、というふうな
教え方はしないか、またまったく別のアプローチの仕方になるのでしょう。
英語では、まず二人が向き合い、相対する空間をつくり、自分を指さしてI、
そして、相手を指さしてyou、というところからでなければ、何も始まりません。
二人の空間があって、その外側に三人称がある、ぬいぐるみなり、
私なりを置いて、he, sheと教えます。
つまり、英語の文化ではその二人の空間が世界の前提となる、
ということです。日本の文化では、そんなことはない、自己も他者も
溶け合った空間で曖昧模糊としています。それを、無理矢理に、英語の、
西欧の論理で分節するのです。外国語を教えることの怖さに
おののく瞬間です。
複数もそうです。 さらにすすんで、they, we と教えます。すでにもので
二つ以上だとsがつく、と知っていますので、代名詞の場合も
子供たちはすんなりとこの二つの概念を受け入れます。でも、
母語である日本語の世界には、単数と複数の境はありません。これも、
英語の論理で、子供たちが既に持っている世界を切り分ける
のです。
逆に言えば、西欧の論理で育った人たちに、自己と他者の
溶け合った空間を教えることのほうが至難の業だなあ、と留学生たち
の葛藤を思い起こしていました。たとえば、留学生は、年上の人に
「あなたは」とか「あなたの家は」と言ってしまうのです。それは失礼
な言い方だよ、と何度言っても身につかない子がいます。勘が
よくてすっと身につくケースも多々あるんですけど。
先天的に、日本的な世界観と西欧的な世界観のどちらが好み
とか、向いているとか、そういうこともあるのかもしれませんね。
2013年11月10日日曜日
豚の死なない日
表題の原作は、A Day No Pis Would Die、by Robert Newton Peck です。
この週末は休め休め、とだれもが言ってくださるのに、焦って、修論の本を読んで
も、データを書き起こしてもすぐばてるので、軽いものを読もうと娘の本棚から薄い
白水Uブックス、というのを一冊抜いて読み始めると止まらなくなりました。
分野は、アメリカのヤングアダルトというらしいですが、衝撃的でした。アメリカのシ
ェーカー教徒の貧しい農家の父と息子の静かな物語です。厳しい現実の中で、誠実に豊か
に生きる、ということがどのようなことなのか、心に迫ってきます。道徳的、というのか
もしれませんが、残酷な場面も多々あって、ぜひ生徒たちにも読んでもらいたいものの、
どれぐらいの年齢の子供たちなら薦めるか、というのも考えてしまいます。
「父さんは金持ちではなかった、しかし決して貧しくはなかったのだ。父さんはいつも
そういっていたがぼくには冗談にしか思えなかった。だけど父さんは本気でそういってい
たのだ。」
なんでこの本を見つけたのだろうと、思いましたが、帰国後、留学中のことをあれこれ
語っていた時に、豚や牛、鶏をたくさん見て可愛い可愛いと思っていたら、デンマーク人
にとっては食糧だったんだ、と肌で感じたと真剣に言っていたので、彼女の体験と
通じるものがあったのかもしれません。
P.S. これ読み返してみると、ヤングアダルトなので、とうぜん高校生以下に
薦めるには不適切でした。失礼しました。
2013年11月6日水曜日
PC回復
相棒が戻ってきました。
一か月このティラミス(昔飼っていたウサギの名前なんですが)、いなくて不便でした。
でも中身はすっかり抜かれていて、ネット接続の設定から、何から何まで一日かけて
インストールし直し。大事なファイルはdropboxに入れていたものの、4月~9月の
月謝のデータのバックアップを取っていなかったので、帳簿を見て手作業で入れ直しかなあ。
あと、どのファイルをなくして、どれが無事だったのかも定かではないし。
これからクラウドを三つくらい使い分けて、それとUSBでデータ管理をしっかりしなくては、
膨大な談話分析のためのデータを管理できないので大変です。録音だけでもすごい
要領になりそうなのに、録画もするとなると、本当にITを使いこなせないと質的研究なんて
とても無理ですね。
毎日自分のレッスンを二、三時間分ずつ聞いていてやっと9月半ばまでおいついて
きました。でも、なかなかこれ、と思うエピソードがない。あったら、それを含む一時間の
レッスンを番号を割り振ってtranscribeするのに、たぶん三時間くらいかかる。膨大な時間
がかかりそうで、気が遠くなります。ほかの研究者の方々はどうされているんでしょうか。
あと、修士論文の締め切りまで、三か月を切ってしまいました。
今日一日は、フィリピンとヴィゴツキー学会の疲れに加えて、パソコン回復ですっかり
疲れてしまいました、珍しく。でも子供たちが来ると、疲れはその間は吹き飛んでしまいます。
そんなにレッスンが手放しに好き、というタイプではないのですが、不思議です。
2013年11月5日火曜日
公ということ
大学院に来た理由の一つに、一生に一度でも論文というものを書きたい、公に出せるもの
書く自分に、自分自身を作り変えたい、というのがあります。色んな思いや義憤(のような
もの)に突き上げられて、考える間もなく動いてしまう。それでは、結果的に人の役に立た
ない。行動力がある、と賞められることの裏には、この人はマッチの様に、擦ったらすぐ
燃え上がる、頼りにもできるけど利用もしやすい、危なっかしいなあ、という嘆きも
込められているのです。
何とかして、尊敬する人たちのように、パブリックに発言するときは、広い視野をもっ
て、情熱はそのままに、でもある程度客観的な物言いができるようになりたい。
でも、先日、専門雑誌に、自分の名前が載ってますよ、と見せられたときには
焦りました。片隅でひっそり目立たなく発表するつもりだったのに、公に出る、
ということの怖さと責任感に固まってしまいました。
心配も不安も焦りも終わって思うに、それは結局自分がそういう見方で世に中を
認識していたからだと。公になる事を怖れている間はどれだけ年を重ねようと、
どれだけ経験と実績があろうと、ちゃんとした大人には慣れないんだな、と
遅まきながら気づきました。
2013年11月4日月曜日
ヴィゴツキー学会発表
どうなることかと思いましたが、50分という持ち時間を発表40分、質疑応答10分で
無事終えることができました。
前日の3時まで、パワーポイントのスライドを足したり引いたり入れ替えたり、
レッスンの録音を必死で聞いたり、書き起こしたり、本を読み返したり、
プレッシャーで吐くかと思いました。
結局、データや方法論は、不完全なものは出せない、と開始15分前に決めて臨みました。
結果、活動理論の自分なりの理解と焦点をおく点だけのプレゼンとなりました。
伊藤美和子先生と、名古屋外大の佐藤先生と尊敬するお二人からコメントと
質問を頂き、感激しました。お二人とも、このような視点で活動理論を
取り上げているのは他にないので、頑張ってと励まして下さり、
今後どのように実証していくのか、ということと、フロー理論の言及が
多いがそれは私にとってどのように位置づけられるのか、とおたずねになりました。
前者は、談話分析と質的研究会で勉強中であることをお話しし、二番目の
ご質問はその場で考えると自分にとっては、レオンチェフの難解さ
をチクセントミハイが助けてくれているような気がするので、そのように
お答えしました。
貴重な経験でした。家族含め、応援して下さった方々のおかげで
頑張れました!感謝、感謝です。ありがとうございます!
2013年10月29日火曜日
11th Asia TEFL 2
ブログ用
10月29日 10:23
再び機上の人となっています。
今回、雰囲気だけ掴もうとあまり何も考えずに参加したのですが、
思いがけなく貴重な出会いが色々ありました。
それで、三月に大学院を修了してからどうしたらいいんだろう、と
途方にくれていたのが、光が見えて来ました。国際学会というのは出会いの
場なんですね。ふだんなら、手の届かない、縁のないような研究者の
先生方とほんの短い瞬間に自分にとっては密度の濃い会話が交わせる、
貴重な時間です。
自分の勉強量によってその会話の意味も出会いの意味も濃度が変わってくる。
このまま、来年もどこかの大学で勉強出来るかどうかにかかわらず、
一年に一回は海外の学会に参加しようと思いました。せっかく、英語で
お話もでき、専門知識も少しは積み上がって来たんだし、飛行機も乗れるし。
泉先生が仰っておられたように、日本から来た院生の女の子たちも頑張って
発表していて偉いな〜、と思いました。ハードルは日本の学会ほど高くなく、
レジュメも配布する必要もないので、英語教師や、院の卒業生、現役生も
気楽に申し込んでパワーポイントでぜひ発表なさることをお勧めします。
一週間お休みを取って海外旅行するのであれば、発表せずともそのうち2日くらいを
学会に当てるのは、かけがえのない経験となること間違いなしです。
2013年10月28日月曜日
11th Asia TEFL
三日間の学会が終わり、明日早朝に発つので、最後の夜にやっと少し振り返ることにしま
した。いや〜、目まぐるしい時間でした。
航空会社勤務の時代は、出張は主にイギリスだし、プライベートは家族連れのリゾ
ート地が主だったのでアジアに行ったのは、数えるほどでした。返還前の香港と、仕事が
らみで、ソウル、バンコク、バリ島ぐらい。それも人に案内されていくので、現地は
チラ見、アジアの事は不勉強で何も知りません。感じたこと、書きたい事は沢山あります
が、とにかくほんの近い場所によって貧富の差の大きさは知識としては知っているつもり
でも、目の当たりにするのは衝撃でした。ホテル、大学、ショッピングモール、スーパー
マーケット、全て入り口にはガードマンがいて、スーパーでは、ボディチェックと
バッグの中を見せるよう言われ、ホテルによっては犬がタクシーのトランクや荷物の
チェックをしているという緊張感に驚きました。何のためか。お金持ちや旅行者を
守るためです。その一方で、子供達は平気で危ない道路を車椅子をすりぬけて渡り、
車の窓に顔を押しつけてボロ切れを売りに来たり、学校へ行かず、家も持たず、
母親と通りに寝て暮らし、施しを求めて歩行者にまとわりついたり、盗みをして
生きています。すぐ数キロ先では、日本でも滅多にないような超高級ショッピングモール
のレストランで家族連れが贅沢な食事をしているというのに。同じ国の同じ言葉を
話す人たちなのに。
道路沿いには長い長い塀が続き、緑豊かな木々や椰子の木が塀の上に高く育っているのが
見え、それは個人の、政治家の邸宅だそうです。京都でいえば、皇居や東本願寺くらい
の塀の長さ。学会のあった大学もそれは美しい芝の広がる上品な校舎の建物。その
中で学生はジョギングをしたり、テニスをしたり、併設の小学校から出てくる子供達も
日本と何ら変わりなく楽しそうに通っています。でも、そこからタクシーで数分走ると
直視できないほど汚れたスラム街に入り込むのです。日本人であれば、いくら冒険心
のある若者であっても、もうああいう所は歩けないと思います。単なる賑やかで
ちょっと危なげな、色とりどりの看板やネオンがひしめき合う繁華街とはちがう、
何というか、全部が灰色でした。道も、建物らしきものも、乗り物も、人も。
学会についてはまた書きます。
とりあえず、昨日書いた感想はこれでした。
2日目の朝です。
アジアの文脈におけるEnglishesというテーマなのですが、この疲労感はなんなのだろう、
と考えてみると、
まず、日本人としての自分を、この会場にいるとアジアにおける日本人としての
自分に認識し直す作業がつねに必要で、そんな事はあまりしたことがない、と
いうのがあると思います。
キーノートのスピーチで、青山学院大学の本名先生のスピーチは非常に分かり易かった
のですが、日本人は日本語の発想通りの英語でいい、それぞれの国の文脈、認識から
出てくる英語でいいんだ、というと、では美しい英語というのは棄ててしまっていいのか
逆に、世界の多くの人が日本語を勉強するようになったからといって、美しい本来の
日本語の味わいは、native fallacyだと切ってしまえるとは思えないのです。
2013年10月24日木曜日
内田樹x石川康宏 「若者よマルクスを読もう」
今、成田空港近くでホテルに前泊中。
台風が接近しているので、さあ、明朝飛行機が定刻通り飛ぶか、また搭乗できるのか、
いつもスタンバイなのでこのスリルがたまらない。
工事中で窓に足場がかかっている、という「難あり」の部屋なので、いいホテルなのに
格安、というホテル業界出身者の関西人としては、大いにくつろげる前泊です。
さて、内田樹の著書の中でも、表題の本は一番食指が動かないものでした。まず、マルク
ス=共産主義ガチガチというイメージがある。共産主義=資本主義すなわち今自分が生き
ている世界を否定するもの、という先入観がある。それに、いつも難解な思想を分かりや
すくわくわくと説明してくれる内田樹の文体がこの本に限っては何か歯切れが悪い。とい
うことで、読みかけてはみたものの、途中で放り出していたのでした。
でも、レオンチェフの本にも、随所に、しかも要のところに、どころか、根っこに
マルクスがどっかと腰を据えている。読みたくないけれども、せっかくだから、
この本を読み返してみようか、と昨日から今日にかけて移動中に覚悟して
読み出すと、打って変わって面白い、どころか、感動して羽田にランディングする頃に
は泣けてきた。
二十代のマルクスが、その頃ドイツで重鎮だった哲学者たちにひとりで挑んだその
果敢さに対して。そして、それに揺さぶられたであろうロシアや、世界中のマルクスの
読者のことを思って。ドイツ語で原著を特に「ドイツ・イデオロギー」を読みたくなって
しまいました。スケールが大きい、とはなんとなく聞いてはいましたが、本って、
出会うタイミングがあるものなんですね。
2013年10月23日水曜日
書き起こし
理論と方法論の勉強にかまけていて、データ整理にやっと手をつけ始めたところです。transcription面白くなってきました。
まだフェーズ2を頑張っているだけですが、とりあえずこんな見通しです。
フェーズ 1 現場。状況に浸りすぎていて、行き当たりばったりなので、何が起こってい
るか、分かっているつもりで分かっていない。
フェーズ 2, 録音を聞いて書き起こす。自分の記憶を呼び覚まし追体験する。恥ずかしく
こんなレッスンでよかったのかと思い、臨機応変にその時どきに精一杯の
判断をしていたことをわすれている。と同時に、現場で気づいていなかった
発話や、自分の期待が高くなりがちなこと、子どもたちがかなり頑張って
いる場面が、前面に出てくる。
今は主にこの段階です。
フェーズ3, 書き起こしを読み、大事なところを、研究の枠組みに合わせて抽出し、
解釈する。再追体験するとともに、生のデータよりも物語になっている。
再構成する過程で、気づかなかったことが浮かび上がっていく。
これはあくまでも予定で、ここをもっと深めなければとても提出にまで
いたらないため、焦るばかりです。
2013年10月16日水曜日
読書ノート
たぶん中学生から高校生くらいの数年間、小さいノートにつけ続けていた読書ノートがあ
りました。気に入った本の気になる文章をただひたすら抜き書きしていただけなにですが
が、自分にとっては宝箱のようなもので、大人になってもずっと大切に本棚に入れて
いました。
今更ながら、大学院で勉強し始めるとその時読んでいた本や作家の名前に出会うことが
多く、自分がどれだけ可愛げのない理屈っぽいませた子供だったかと、このノートを
見返すと思います。でも、こういう本たちに夢中になっていた過去の自分がなんか
うらやましい。
復活 トルストイ
セルギイ神父 トルストイ
ハジ ・ムラート トルストイ
アンナ ・カレーニナ トルストイ
シャム双子の謎 エラリー・クイーン
日本沈没 小松左京
チャイナ橙の謎 エラリー・クイーン
月を売った男 R.A. ハインライン
霧の旗 松本清張
ベンスン殺人事件 ヴァン・ダイン
青年時代 トルストイ
戦争と平和 トルストイ
ドラゴン殺人事件
マリー・アントワネット ツワイク
青列車の謎 アガサクリスティ
地下室の手記 ドストエフスキー
カナリヤ殺人事件 ヴァン・ダイン
アンの夢の家 モンゴメリ
徒然草
恋愛論 スタンダール
アルマンス スタンダール
未成年 ドストエフスキー
悪霊 ドストエフスキー
白痴 ドストエフスキー
ソクラテスの弁明 プラトン
山月記 中島敦
論語 下村湖人訳
青春論 亀井勝一郎
人生論 トルストイ
シーシュポスの神話 カミュ
わが未完成宣言 久保継成
人生論ノート 三木清
パスカル 伊藤勝彦
パンセ パスカル
1921年の日記 宮本百合子
1923年の日記 宮本百合子
風知草 宮本百合子
播州平野 宮本百合子
読書と人生 三木清
第二の性 ボーヴォワール
白鳥の歌なんか聞こえない 庄司薫
ぼくの大好きな青髭 庄司薫
日本文化私観 坂口安吾
青春論 坂口安吾
堕落論 坂口安吾
続堕落論 坂口安吾
デカダン文学論 坂口安吾
悪妻論 坂口安吾
恋愛論 坂口安吾
エゴイズム小論 坂口安吾
教祖の文学 坂口安吾
日本人とユダヤ人 イザヤ・ベンダサン
美術の鑑賞について 志賀直哉
一番、抜き書きの多かったのは、よっぽど好きだったと見えて、パンセ、でした。
りました。気に入った本の気になる文章をただひたすら抜き書きしていただけなにですが
が、自分にとっては宝箱のようなもので、大人になってもずっと大切に本棚に入れて
いました。
今更ながら、大学院で勉強し始めるとその時読んでいた本や作家の名前に出会うことが
多く、自分がどれだけ可愛げのない理屈っぽいませた子供だったかと、このノートを
見返すと思います。でも、こういう本たちに夢中になっていた過去の自分がなんか
うらやましい。
復活 トルストイ
セルギイ神父 トルストイ
ハジ ・ムラート トルストイ
アンナ ・カレーニナ トルストイ
シャム双子の謎 エラリー・クイーン
日本沈没 小松左京
チャイナ橙の謎 エラリー・クイーン
月を売った男 R.A. ハインライン
霧の旗 松本清張
ベンスン殺人事件 ヴァン・ダイン
青年時代 トルストイ
戦争と平和 トルストイ
ドラゴン殺人事件
マリー・アントワネット ツワイク
青列車の謎 アガサクリスティ
地下室の手記 ドストエフスキー
カナリヤ殺人事件 ヴァン・ダイン
アンの夢の家 モンゴメリ
徒然草
恋愛論 スタンダール
アルマンス スタンダール
未成年 ドストエフスキー
悪霊 ドストエフスキー
白痴 ドストエフスキー
ソクラテスの弁明 プラトン
山月記 中島敦
論語 下村湖人訳
青春論 亀井勝一郎
人生論 トルストイ
シーシュポスの神話 カミュ
わが未完成宣言 久保継成
人生論ノート 三木清
パスカル 伊藤勝彦
パンセ パスカル
1921年の日記 宮本百合子
1923年の日記 宮本百合子
風知草 宮本百合子
播州平野 宮本百合子
読書と人生 三木清
第二の性 ボーヴォワール
白鳥の歌なんか聞こえない 庄司薫
ぼくの大好きな青髭 庄司薫
日本文化私観 坂口安吾
青春論 坂口安吾
堕落論 坂口安吾
続堕落論 坂口安吾
デカダン文学論 坂口安吾
悪妻論 坂口安吾
恋愛論 坂口安吾
エゴイズム小論 坂口安吾
教祖の文学 坂口安吾
日本人とユダヤ人 イザヤ・ベンダサン
美術の鑑賞について 志賀直哉
一番、抜き書きの多かったのは、よっぽど好きだったと見えて、パンセ、でした。
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