2013年11月15日金曜日
英語教育の定義
人に、どんどん英語教育から離れていくようだ、と言われてびっくりした。
離れていくどころか、このところどんどん深まっていると感じていたからです。
そういう方に、一度正面切って聞かなくては。あなたにとって英語教育とはなにか?
おそらく、それは公教育で今実践されている授業のことであり、いわゆる「英語教育」関
連の学会や専門雑誌に掲載されるような研究のことであり、言語哲学や人間の営みと
しての学習や、言語や活動がつくりだす意識や人格というものは、その方の定義する
「英語教育」ではないんでしょう。
この夏、全国英語教育学会に行って感じたことでもあるのですが、院生フォーラムに
来てみたら、と言われて行ってびっくり。学生たちが交流を広げるためにせっかく
企画してくれているのに、同じテーブルの院生が、私は話すのが苦手なんです、
話しかけられたら話すので、質問してください、と構えていました。しかも、その方は
某国立大の博士課程で専門はスピーキングなんだそうです。
話してみると普通に感じのいいかたでしたが、こんな人に「スピーキング」とか「英語」
「教育」を委ねている現状では子供たちがかわいそうだと思いました。
なんかちがうなあ。飲み会とかしても思いますが、苦手な人を避けて話さないとか、
気の合う人だけ自分の周りに集めて居心地のいい空間をつくって、それでよし、
としているひとに、さまざまな子供たちをよくみてまとめる、という難しい仕事が
本当にできるんだろうか?
人を見て、その一面だけで判断してレッテルを貼り、それ以上知ろうともしない、
いいところを探そうともしない、教師というのはそういうものなのか?
公教育で教える資格もない自分がいうのもなんですが、学校という場で、
個性の強い教師が自分の好き嫌いをにの次にして、教師集団として、
チームワークをつくって知恵を出し合い、役割分担をしあって
タッグを組んで、繊細で難しい子供たちに対処していくことがこの人たちに
本当にできるんだろうか、これまでできてきたんだろうか、
と大きなクエスチョンマークがつく、今日この頃でした。
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