2013年12月20日金曜日

街場の文体論


修論あいかわらず亀の歩みでのろのろと進めています。

ちょっと一区切りしたので、ひさしぶりに内田樹先生の「街場の文体論」を

パラパラめくっています。



「言語は道具ではない」「君たちの世代は英語は壊滅的にできない。壊滅的にできない、

というのは学力の問題ではありません。『言葉とは何か』という根本の考え方が

間違っているからです。」



「本来、外国語というのは、自己表現のために学ぶものではないんです。自己を豊かに

するために学ぶものなんです。」



「理解できない言葉、自分の身体のなかに対応物がないような概念や感情に

さらされること、それが外国語を学ぶことの最良の意義だと僕は思います。」



「浴びるように『異語』にさらされているうちに、あるとき母語の語彙になく、その外国語

にしか存在しない語に自分の体が同期する瞬間が訪れる。」



「そういう生成的な経験なんです。外国語の習得というのは、その『一陣の涼風』を

経験するためのものだと僕は思います。」





これは外国語だけでなく、日本語にも言えること。修論のために難解なことば、

難解な文章をあっちから切り取り、こっちから切り取り、写したり、訳したり、戻したり、

並べなおしたり、しているうちに、少し「同期」するような気がしてきました。



この本もよく売れているようで、友人の一人はこれまで読んだ中でベスト10に

入る、と言っていました。沢山の日本人が、わかりやすく読めてよいことだと

思います。



自分も英語は道具だと思っていました。実際に子供たちにそういったことも

あります。話す中身が大事だから、大学ではもっとほかのことを勉強して

英語は手段として勉強するんだよ、と。間違ったことを言っていたものです。

大学院で勉強をはじめるまでは。



内田先生の専門はフランス思想で、語学が専門ではない先生がこのような深い

言語観をおもちで、英語教育学会でも、学校教育をつかさどる場所でも、

いっこうにこのような言語観が聞かれない、とはどういうことなんでしょうか。




道徳より、学校に哲学、とか、世界の思想、とかいう科目を入れてほしいですが、

今は倫理社会とかきっとないんでしょうか。




理科でも、科学の深い話など授業であまり聞いた覚えはないし、大学で心理学

を学んだ時も、あまり深い話は聞いたことがなかったのは、自分にそれを

聞ける構えがなかったからでしょうか。




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