2017年12月23日土曜日

『学術書を書く』

審査会の前後で先生方と話し合ったりする間に、

章立てがどうのこうのとか、先生によって言われることが

違うし、パラダイムによっても違うし、だんだんわけがわからなくなって

きたので、図書館のアカデミックスキルコーナーで見つけたこの本を

読んでみました。


鈴木哲也・高瀬桃子(2015) 『学術書を書く』京都大学学術出版会
 
 
著者のお1人鈴木先生は、京都大学学術出版会の編集長なので、
 
学術書の編集者から見た、博士論文や投稿論文と、学術書の
 
違いを具体的に指摘されておられて、狭い学問分野で書く論文
 
というものの癖は分野を超えてあるんだ、ととてもすっきりしました。
 
 
博士論文は、審査をする数名の先生のために書くもの、学術書は
 

その専門分野の「二回り、ないし三回り外」の読者に向けて書くもの、
 
だそうです。自分はこの区別が明確でなかったために、博士論文で
 
紆余曲折しているんだ、ということがわかりました。
 
 
 
最近、博士論文を書き終えた人が論文を本にするために大学出版会と
 
やりとりをされていて、貴女も書き終えたら本にするんですよ、と言われた
 
ことがありました。その時は審査会に出すメドもつかなかったので、
 
なんか雲の上の話だなあ、と思っていたのですが、案外そういう先輩の一言が
 
あったので、この本が目についたのかもしれません
 
 
 
これから人生のステージに立ち研究者としてのキャリアを追求していく
 
若い人とは違って、自分には今まで博士論文を書いて提出する、
 
ということが究極の目標でありました。それがとっても難しく、
 
でも一段上の目標を見据えることでまたがんばれる気がします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2017年12月22日金曜日

諸々

色々と思うのですが、博士課程を目指して読んでくださっている方がいるようなので、

あまり過激なことは控えるようにします。


まだ、書けていない自分が言うのもなんですが、反省をこめて博士論文を書くために

必要なことは、

1.博士課程に進む大学院と指導してもらいたい先生について徹底的にリサーチする

  自分の研究と表面的にマッチしそうに見えても、

  中に入ってみるとずれていることがあると後が大変。

  特にその大学院のメインのパラダイムと自分の研究のパラダイムについてよく考える。

  スタイルはあとから変更もできるが、その大学院の大勢をしめている先生たちとの

  パラダイムがちがっていると、自分の指導教官と自分のパラダイムが一致していても

  自分の主張と大学院との対話が成り立たない。


2.主査と副査の関係

  仲が悪そうな気配が見えたら、すかさずどちらかを変える。

  仲が良さそうでもわからないので用心して周りから情報収集をする。

  一番いいのは主査が温厚、寛大で、副査が主張があって博論に厳密、というパターン。

  2番目は、主査の主張が強くて、副査は最終的に従うというパターン。

  大変なのは、双方ともに主張があって博論に厳密、熱心というパターン。

  そういうパターンであれば則どっちかを変えた方がよいが、はじめはどちらも

  いい感じに見せているので、わかりにくい。 どっちも譲れなければ、

  院生が板挟みになって博論が成立しなくなり泣きをみることになるので、

  紀要に投稿してみて両方の先生の意見を聞いてみるなどして双方の

  力関係や性格のバランスをよく見て判断する。


3.理想は追わない。妥協する。

  私はそこまで割り切れないし、、博論から研究者としてのキャリアを

  ステップアップしていくような年齢でもないので、ある程度理想を追いたい、

  妥協はあまりしたくない。でもこれからの若い人は、キャリアの中で

  理想を追求していくには博論で妥協するしないと何も始まらないのだろう

  と思います。

  ので、他の大学院は違うかもしれないのですが、審査会の後、D生で

  色々話し合うと、結局はここはまずページ数、序論、そして何よりも

  結論がわかりやすいかどうか、箇条書きでもいいからわかりやすい

  結論をかいているかどうかが、明暗を分ける、というのが皆の見解でした。

  先行研究や理論的枠組みをちゃんとやろうとして徹底的にやっても

  そこはあまり見てくれない。他分野の先生に判断されるので、

  問いと答えだけ、そこだけを見る。後の理屈は、そんなに問題とされない。

 
  色々と言いたいことはいっぱいありますが、とりあえず。


  何かのご参考に。

  

  

  


    

2017年12月13日水曜日

副産物 

もうあと、今週の博士論文審査会を控えて既に終わったな~。

という感じ。


せいいっぱいやってはいますが、これまでの自分を

ふり返って何が悪かったんだろう、と思い返すと。

まず、博士課程に入るときにもっと突き詰めて調べたり考えれば

こんなふうにならなかったかもしれない、ということもあります。


が、その時点で自分に手に入る情報や聞ける人には研究の

ことは聞いたつもりだし、談話分析や会話分析のことも何も

知らなかったし、ましてはまわりまわって現象学関係で

博士論文を書くことになろうとは昨年末まで思いもよらなかった。


英語教育や第二言語習得研究で、英語も含めてすべて手に入るオリジナルの

文献を全部読んだかと言われれば、それはしていない。まずもって、

なんでことばや人間や教育のことに、そんなに統計や数式や数字で

すべてを説明しているのか、ということが納得できなかったし。

それでいて批判をしているのでそれは突っ込まれどころが満載。


もっと意味のある深い研究を探しても英語教育分野では見つけられなかったので、

自分でやろうとしていろんな分野をさまよい歩き、紆余曲折して

今週を迎えることになりました。


傲慢と言われればそうかもしれないですが、英語で自分を表現できない人が

なんで英語の先生をしているのか、ということが今でも納得できない。

ことばを教えている人が、ことばを使うのが苦手、ということがまったく

納得できないし、そんな授業を受けさせられている生徒が損せざるを

得ないのにも納得できない。


英語であろうと、何語であろうと教える立場の先生はもっと現実のことばを

大切にすべきだ、という気持ちをこの博論で表現したかったのですが、

それが学術的に表現できないのであれば、ひたすら、まだまだ

勉強を続けるしかないなあ。


救いは、今大学の授業で学生たちが少し英語に対していきいきして

きたような気がすることです。リーディングライティングの授業で

まとめで簡単なプレゼンをグループで前でしてもらって、

その感想を書いてもらったら、私の質問は聞いてわかったけど、

口から答えがでなかった、くやしい、という感想がちらほらあって、

なぜかすごく手応えを感じました。くやしい、という気持ちが

エネルギーの源泉になるような気もするし、そういう気持ちを

忘れてしまった自分を鼓舞してくれる気もします。


そういう副産物もあるし、現象学に同じく興味があるしつけんの

メンバーが教えてくれた「目の見えない人は世界をどう見ているのか」

の著書の伊藤亜紗さんの発表を見つけたので動画で見ていたりすると

文章と実際のその人の話している感じはずいぶんちがうなあ、と

思い、文章のパワーというのも改めて感じます。


もっと丁寧に文章を演出しないといけないんだなあ、と思ったり。

例え結果はだめでも、色々と副産物があった博士後期課程も

もうあと3ヶ月あまりで終わります。
















2017年12月6日水曜日

まじめな人

今自分がいわゆる 「せんせい」になってみると、かつての自分のことが

よくわかる。


一生懸命にせんせいの目を見て話を聞く、面白い、面白いから

一生懸命勉強する、せんせいのことばがびんびんくる、

なのに、自分ほどせんせいの話をわかっていない子の方が

せんせいは可愛がっている。放課後にその子を特別扱いしている。

あの子なんにもわかってないやん。鈍いやん。


なんで?


私のほうがせんせいの言っていることはわかっているのに。

私の方がせんせいの話についていっているのに。せんせいに認められるように

がんばっているのに、なんで何もがんばっていない子の方を

せんせいはかまうんだろう。私の方がせんせいをずっと好きなのに。

あの子なんにもしてないやん。あの子せんせいの言うことなにも

わかってないし、わかろうともしてないやん。


せんせいも、その子よりも私と気が合うはずなのに。

せんせいは、私と話している時、すごく楽しそうに色々教えてくれるやん。

友達のように。



私もあの子のようにせんせいにかまってほしい。だから

これだけがんばっているのに。なんで?なんで?


それは「せんせい」になってみるとわかる。




2017年11月2日木曜日

academia edu

登録していたら、メールにこのサイトからあなたの論文をが

引用されていますよ、誰に引用されているか見ますか?

という通知が来て、まんまと引っかかってyes!と反応すると

じゃあ、お金払ってアップグレードしてね、という。


友人からこういう記事を紹介してもらいました。

https://www.forbes.com/sites/drsarahbond/2017/01/23/dear-scholars-delete-your-account-at-academia-edu/#36e20a22d628

言われたからすぐに登録を削除しようとは思わないけど、かなり幻滅。

このサイトに登録したのは、会話分析関連の先生や院生に影響されたからです。

なんか会話分析の先生が紹介してくださった研究者がすごくフォーカスされていたり、

偏ったコミュニティの論文が頻繁に紹介されたり、なんとなくおかしいなあと

思っていたのは事実です。この世界に何年かいると、学会って結局互助会だろう、という

悪口も聞こえてきたりするんですが、こういう大きなサイトも大きな互助会なんだ、

と思ったりもします。


学問とか研究とかっていったいなんなんだろう、とますますわからなくなってきました。


信じられるのは、教育で言えば教室の現場での実践しかない。



2017年10月28日土曜日

博士後期課程 最後の年

いよいよ、タイムリミットが迫ってきました。

そろそろこの日記のようなブログも終えて、きてくださる方に甘えていないで、

ちゃんとしたブログを作らないといけないのかなあ、と思っています。


先日、博士論文審査会の題目届けを提出しました。審査会は12月半ばです。

そこまで行くのもすったもんだで、一時は題目届けも出せないのか、という

感じでした。とりあえず出すことができました。


一応阪大の規定では審査会の時点で博論が7割できている、ということが条件

ですが、実態は7割ではほぼ落ちるらしい。9割はできていないと

だめだそうです。


博士論文という制度や大学院という制度、今の自分の状況に関して

思うところは色々とあるのです。でもすべては自分のせい。何もわかって

いないまま入ってきた自分がすべてです。もっと死にもの狂いになって

いれば、博士論文を書けない自分を客観的に見て役に立つ情報を

必死になって集めて学んで昨年の今頃には余裕をもって審査会に

臨んでいたと思うのですが、すべては仮定の話。


9割できるとは。。量はともかく質が。。。まあ、やるしかないです。


1つ救いは、先日たまたま参加した教育哲学会(この学会もこれまで参加していなかった)

の発表からたどっていって、2010年に書かれた博士論文、福田学著「フランス語

初期学習者の経験解明―メルロ=ポンティの言語論に基づく事例研究」を発見した

ことです。500枚の大著で「教育哲学研究」に取り上げられていたので、

しらべてみたら、なんと阪大の図書館にあったので則手元に。


この論文ではまず、現象学に関係するサルトル、ハイデッガー、ソシュール、

フッサール、リクール、デリダの言語論を外国語教育と関連させて論じ、

そのあとにメルロ=ポンティの言語論に基づく河野、エディの言語論、

そしてメルロ=ポンティの言語論と順に論理的に論じてくださってから

事例研究に入っている、外国語教育研究でこういう流れの論文は初めてです。


現象学と授業の事例をどうつなげているのかを一番知りたかったので、

取り寄せてまず事例を読んでみると、やはり東大の中田基昭先生の

学派らしい感じの事例で、社会科学的なデータの提示や研究方法に

ついての言及は一切なく、東大のここはこれでも通用するんだなあ、

と思いました。ただ、やっぱり解釈は哲学的で深く、頭のいい論理的な

人たちの集まりにいる人らしく、それに加えて指導教官が現象学の専門家なので、

博論として通用するんだろう、ほぼ自分にはこんな解釈はできなさそうだし、

まず学問的環境が、と絶望。


とりあえず、今、リクールなので、理論をあと一日で消化してしまいたい。でも

難解で理解はできてもあとで論文に反映する時の自分の論理力が怪しい。



この論文にエネルギーをもらって後はひたすら書き続ければ

できそうな気がします。


今日、どこかで読みましたが、プレッシャーを克服するには、1.できた時の

自分をイメージする 2.今できることにひたすら集中する、ことだそうです。


福田先生は今新潟大学にいらっしゃるようですが、博論にはまにあわなくても、

いつかできればお会いしてお話をお聞きしてみたいです。












2017年9月11日月曜日

細馬宏通、谷川俊太郎 対談 日本質的心理学会第14回大会

この週末、首都大学東京で開催された、日本質的心理学会第14回大会に

参加してきました。大学名からして、都庁みたいなビルをなんとなく

イメージしていたのですが、東京の下町で、路面電車が走っている

ほっこりした緑の多い荒川区に位置している大学でした。

一日目の終りには、しつけんの勉強仲間とたまたま降りた日暮里で

これまた下町情緒あふれる谷中というところで、ほっこり地ビールと

美味しいご飯も食べられました。


この学会は修士時代はもちろん博士2年目までは、敷居が高く

縁遠いと思っていましたが、昨年の名古屋、今年と2年続けていくと

意外とのびのびとしていて、発表も玉石混交で、良くも悪くも

ゆるいんだなあ、ということがわかってきました。


質的研究の大御所ばかりでしかも心理学だし、授業談話みたいな

細々とした研究はそぐわない、とずっと思い込んでいましたが、

それはどうやら杞憂らしいというのが、発表経験者の話しから

見えてきたりして。


今日は2日目で、大会のメインイベントの細馬宏通さんと

いう研究者と詩人の谷川俊太郎さんの対談が午前中9時半から12時まで、

長時間でした。遅れに遅れて10時半に会場に入ったのですが、

それでもとても充実した時空間でした。これを企画してくださったことに

感謝。 司会の西村ユミさんと谷川さんの対談をネットで読んで

いたので、現象学的看護学の研究者と詩人という組み合わせにも

ある程度気構えがありました。細馬さんは前日のシンポジウムで会話分析系の

人だな、とわかっていたのですが、ものすごく谷川さんのファンらしく

谷川さんの詩もよく読み込んでおられたようで、質問も鋭く、

話の流れでこれ朗読お願いします、というタイミングも抜群で、

素晴らしい企画でした。


最近は、論文や学術書が読書のメインで、そのあいまに気晴らしに

テレビや軽い小説とか雑学という程度だったので、谷川さんの詩と朗読で

ことばの豊かさを味わう、という体験を久しぶりにゆったりとさせてもらい、

心がリラックスした感じでした。また、詩人がが自分の詩を読む、という

ことばとからだの一体感、というか臨場感というか、素晴らしかったです。


対談を聴きながら、夢中でびっしりとメモしていたのに、関西に帰って

荷物をばらすとそのメモをどこかで失くしてしまった、というのも

私らしい。。。。


2017年9月7日木曜日

書き起こし

このところ、前期と後期のあいまなので、非常勤の授業が

ないあいだに色々なことをしてしまおうと思っています。


去年の沖縄でのJALTPanSIGのf最終の校正が来たので、これで

英語で査読付きの論文が一本できそう、ということでほっと

しています。お金のことを考えるのはいやなんだけど、この短い

論文のために使った旅費と宿泊費、学会参加費、

エディテージに払った英文校正費、が全部私費でけっこう15万円ではくだらない。


そしてたぶんボランティアでされている査読者とエディターの尽力

を考えると申し訳ない。し、自分としては信念も哲学もあって、

でも論文に仕上げる実力がこれで精いっぱい。

英語でなんとか日本の中学校の英語授業の実践を書いたことが

どう何か英語教育全般の役に立つのか。


で、このところ今まで書いたちっちゃい論文とか、発表とか

読んだ哲学書のレジュメやメモを整理してなんとか博論に

しようともがいているうちに、「事象に立ち返る」という現象学の

原則を思い出して、ある文法授業のデータの書き起こしをここ数日

ずっとしています。


そうすると、初心にもどるというか、先生の授業の語りに生徒は

わずかしか音声では答えていないんだけど、なにかしら表情や

サインを読み取って先生はそれに答えながら授業を進めていく、

というインタラクションが、書き起こしていると、わずかな間や先生の

声の調子や強弱から見えてきます。


先生一人でいるようでいて、そうではない、すごくリズムと

なんともいえない生徒との親密な信頼感のある時空間。

書き起こしながら、それに研究者として暴力的に介入して

いることのうしろめたさもあり、でもこういう授業を教師をこころざす

人と共有することは大事なのではないか、と改めて思った次第

でした。

がんばります。




2017年8月8日火曜日

台風の中 

早朝に起きてテレビやインターネットを見ていたら、夜に

近畿を直撃という予測だったので、自宅塾の生徒と保護者に連絡を

回して、午前か昼間に変更するか、日程を変更するか

してね、と頼んでいたのですが、結局、中一だけが午前中に

して、後の生徒はほぼ予定通り夜に来ました。



これが近所の自宅塾の強みといえば強み。

リスクをとってこっちもレッスンをするというし、生徒も

近所だから多少のことは気にしないできます。


でも、彼女たちにとって一番気になるのは、台風よりも

夏休みの宿題の多さ。私も話を聞くとなんだかなあ、という気に

なります。子どもの主体性、とか自主性をまったく信用していない

宿題の出し方だなあ、とつくづく思う。



12~18歳の子どもたちにとって、こんなに習ってもいない教材を

自分で調べて市販の多量の問題を夏休みに解いてこい、と

ほぼ命令のように押しつけるのは、どういう信念に基づいて

そんな教育をしているのだろう。

その教材は、なんの教育的配慮もない、中一だったら英検5級の問題集だったり、

NHKの基礎英語だったり、高2であれば、センター試験の

10年分の問題集だったりする。


結局は英語の勉強は、大学受験のための勉強だ、というイデオロギーに屈して

いるだけではないのか?


子どもたちは呪いながら、愚痴を言いながら権力にあらがうことが

できないままに、半ばやけくそに、半ば自嘲気味に夏休みの

宿題を自分にとって意味もなく、やり続けている。そして

どんどん英語を忌み嫌っている。


これは、教育なのか????

2017年7月22日土曜日

『教育の力』 苫野一徳 (2014)


最近、哲学者および教育学者の苫野一徳先生にはまっています。

表題の本を読み、Blogを読み、私よりもずっと若いのに、どれだけたくさんの

哲学や教育、人生についての重要な本を読んでいるのかその読書量に

圧倒されます。

現象学的教育学についても先生の本を読めばよくわかる。


ただ、表題の本を読んだ直後の私の感想は、わりと否定的なものでした。

ここに書こうと思って書き留めておいたのが以下。


母として、保護者とつき合ってきたものとして、現場の教室ではないけれど、

近所の英語塾のおばさん兼せんせいとして子どもたちと長くつきあってきた

ものとしての感想だったのかなあ、と思います。


「いうてはることは、よくわかるんだけど、保護者のお母さんたちは

きっと納得できないだろうなあ、と道に林立する学習塾の

看板をみながら思いました。


もちろん、学び合い、協同学習、で全員の学び合う力が

伸びる、という理想はわかる。私もそれをめざしたい。

多様な人と交わる方がその子の学びも豊かになる。

それも実感としてよくわかる。


でも、親としては、自分の子どもに安定した仕事に

ついてほしい、そのためには生活が苦しくても

塾にお金をつぎこんだり、私学を信頼して莫大な

授業料を払ってでも、自分の子どもを落ちこぼれさせたくない。

この強い願いにこたえてくれるのは、塾だと思っているし、

塾や勉強産業もそのニーズに応えるべく、あらゆる企業努力

を払っている。

苫野先生のお話はこの現状を変えることはできないのではないか、

と思うのです。

公教育の話しだけではなく、学習塾産業と、親の切実な願い、

それを巡るお金の話を抜きにしては、今は教育を語ることは

非現実的ではないのか、と思うのです。」

2017年7月21日金曜日

ハエ取り壺

今日の西口ゼミで、D生の発表の最中に西口先生がおもむろに

ハエ取り壺って知っているか?と問われました。

その場にいたのは、韓国、台湾、中国からの20歳代の留学生と

発表していたのは日本人の20代のD生。

留学生は?????、日本人も天井からつりさげるやつですか?

と聞いて、それとは違う、と言われて、おもむろにホワイトボードに

こういうものや、と図を書き始められました。こういうガラスの透明なもので、

中に水がある、と。

ハエって?あの飛ぶ虫のことですか?とみんな軽くパニック。


手元のipadで調べるとハエ取り壺とともにウィトゲンシュタインが浮上。

あ、ウィトゲンシュタイン、とつぶやくと、西口先生、そう!!

それ!と大きくうなづかれて、意味を説明してくださいました。


ウィトゲンシュタインが当時の哲学を批判して言った比喩が、

哲学者(ハエ)が探求しようとして次々とハエ取り壺の中に

入っていき、ハエ取り壺の出口は狭く曲がりくねっているので、

ガラスの天井に次々とぶつかっては、ハエ取り壺の水の中に落下していき、

挫折すると。


哲学を追求するとそうなる、だが自分は日本語教育学という

出口があったので、バフチンやヴィゴツキーにからめとられることは

なく、出口から出てこれた、と仰っていました。


言われた院生は、先生それはひどい!私は大丈夫です、

ちゃんと出口はわかっています!と果敢に抵抗していました。


その比喩からすると、私も一匹のハエなりに壺の中で

天井にぶつかり、ぶつかり、水の中に落ちてはまた浮上し、

なんとかかんとか、霞んだ視力であそこが出口だと見定めては

いる感じです。


最近、西口光一ゼミはかなりいい感じです。

2017年7月10日月曜日

最近の研究的動き

なかなか前に進めないのですが、

とりあえず阪大の言語文化学会の学会誌に投稿を申し込んでいて、

許可されればD2の中間報告会で発表した内容を、

現象学的アプローチで改めて書き直し、来月中に頑張って書き終える

ことが目標です。


あと、昨年発表したJALT Pan Sigに投稿していて、

査読者のコメントに従って書き直したのがなかなか返事が

来なかったのが先月第一校が来ました。直して送ったものの

なかなか受け取った旨の返信が来なくてこわい。。。


12月には博論審査会に提出するとあちこちで宣言していますので、

するつもりです。


もう何もかも余計なものは捨てて、現象学と教育学、その延長で

現象学的アプローチによる英語授業談話分析で突き進んでいこうと思っています。


博士論文を先日完了した同期の中国人の院生からは、きっと書けますよ、

て、いうかもう書けるし!と力強く背中を押してもらっているので、

もうこの夏が正念場です。


あ~~~~~。もう無理~~~!!でもがんばらないと!!!!

2017年7月9日日曜日

臨床実践の現象学会

表題の学会は、一ヶ月に一度、首都大学東京と大阪大学で

交互に開催されています。


東京はまあ、行けないことはないのですが、週末に一日仕事に

なるのもきついので、阪大で行けるときだけ。それも毎回は

行けないし。ということで先週やっと行って来ました。

当初は現象学に基づいた記述の仕方や分析の仕方を

学ぶためにいっていたのですが、収穫はそれ以上です。

看護や医療、障がいの当事者研究についての

ディスコースの真っただ中に身をおくことで、自分の研究がどうあるべきか

という根本のところにおいての示唆が沢山ありました。


あとはどんどん縛りがきつくなっていて、非常勤先の大学の一校から

授業のことはSNSに書かないように言われています。、

他なかなか刺激的な最近の新しい仕事についても、SNSはおろか、

履歴書にも書かないように誓約をさせられています。


なんだかなあ。

とりあえず、当事者研究の熊谷晋一郎(2009)『リハビリの夜』医学書院

を二回読みました。

脳性まひの人のボランティアを学生から社会人になってからも8年間

やっていたことがあることもあって、内容はよくわかりました。

教育についても通じるところがあり、考えさせられる一冊でした。

2017年6月25日日曜日

第47回celes長野大会 二日目

参加したのは、

自由研究発表⑤外国語教育質的研究における調査対象の抽出方法:サンプルサイズが

1の場合に着目して ⑥タスク性の高いコミュニケーション活動の導入による

発話の流暢さの発達 ⑦学び直しとユニバーサルデザインを意識した英語指導

英語教育研究法セミナー2「実証研究および実践研究の科学性」

課題別研究プロジェクト発表③「英語教育における『エビデンス』


不満はまず、2日目に個人的に聞きたいセミナーと討論会などがかぶりすぎる。

聞きたかったのに、聞けなかった発表が色々ありました。


そして、昨日ブログを書いてから気がついたのですが、プログラムにSNSの欄が

あってXとついているものがあったので、ブログに書いてはいけないのか!

とびっくり。幸い私がとりあげたものはXがついていませんでした。あぶないあぶない。


でもSNS Xの意味がよくわからない。今日もセミナーで写真はとってもいいですよ、

と呼びかけられていたのですが、写真を撮ってアップしてはいけないのか、

SNSで感想を書いてはいけないのか、ツイッターしてはいけないのか、

なんかよくわからない。


自由研究発表⑤は質的研究をするものとして必見でした。

サンプリング方法と論文の書き方の良い事例の参考文献はありがたい、

ただ発表者お2人が絶賛されているDe Costaは私も素晴らしいと

聞いて論文を一本読んで社会言語学ゼミでレジュメを作ったのですが、

そんなにしっかりしているかな、と疑問。

私が読んだのはこれです。

De Costa, P. (2016). Constructing the global citizen: An ELF perspective

参考文献ではDe Costa(2010)があがっているので、改めて読んでみます。

これに関連して課題研究プロジェクト発表①「英語教育の質的向上を

目指した実践研究法のデザイン」を聞きたかったのですが、③とかぶって

いて行けませんでした。残念。


英語教育研究法セミナー2では、2人の発表者のうち1人目の草薙さんが

数理的アプローチと構造主義的科学論、構造構成主義、2人目の藤田さんが

学術研究と実践研究について話されていましたが、お2人のそれぞれの

考えの関係性と、量的研究と質的研究との関わりが良く分からなかったので

事後質問してみました。藤田先生によれば、量的研究も質的研究も学術研究

であり、実践研究は質的研究と言うよりも、質的データを利用しているだけ、

と言われていたと理解しました。もう少し認識論的な話になるのかと

期待していましたが、というと僕らのこのセミナーがきっかけになればいいと

思う、ということでした。


課題別研究プロジェクト③「英語教育における『エビデンス』:評価と活用」は内容が

難しく、亘理さんと寺沢さんの話はなんとかがんばってついていったのですが、

草薙さんの話が自称統計マニアとおっしゃっているだけ、統計が苦手な自分には

難解でした。あとの討論もすごく刺激的で、t検定や分散分析はエビデンス階層の

レベル1だからそういう研究は切り捨てるかどうか議論するべきだ、という

寺沢さんの主張もわかりますし、そ、そ、それではt検定を二年間がんばって

教えている先生と学生がかわいそうだ、というフロアの意見もわからなくはない。

そこで、エビデンスの弱い量的研究を捨てられないのは、それに代わるしっかりした

質的研究に依拠できないということもあるのではないか、と思いました。














2017年6月24日土曜日

第47回celes長野大会 一日目

初めて参加しています。

関西とはずいぶん違うなあ、という印象。というのは、理論的でしっかりとした

若手の研究者が実践にもとづいて、遠慮せずのびのびと活躍している感じが

します。もっと早くくればよかった。



参加したのは、英語教育実践セミナー「スピーキングの指導と評価」、

シンポジウム「外国語科における思考力・判断力・表現力をどのように指導するか」

自由研究発表 ①「小学校英語教科化に向けた教授材・学習材の開発」

②「幼少教材・授業づくり支援プロジェクトの実践:教員養成課程における

集団での指導計画・教材づくり」

③「小学校英語学習経の中期的効果:エビデンスベーストアプローチに基づいて」

④「Eye-Closureは音声単語認知及び聴解に好影響を与えるのか」



一日目で一番印象に残ったのは、自由研究発表の②です。静岡大学の

亘理先生が指導された院生と学部生12名とのプロジェクトで、静岡県の僻地の

小学校のために、学生たちがどういうことを学ばせるか、と主体的に

考えて教材を作り、そのままプリントしたり電子黒板でつかえるように

その教材をデータで自治体に送り、また、英語に触れる機会のない子供たちのために、

45冊の英語絵本を選定して各小学校に納入したり、というものでした。

現場に足を運んだのは遠方なので二回だけ、英語専修の学生たちは

小グループで話し合い、全体でフィードバック、それを小グループに持ち帰って

修正、また全体で話し合い、というプロセスを経て教材化したそうです。

しっかりした先生の指導のもとで、現場と連携しながら自由に手ごたえのある

プロジェクトをすることができた学生たちは幸運だったと思います。

また、教育とは本来こういうものだといい意味で緊張させられました。


自由研究発表の③は、いわずとしれた寺沢拓敬さんで、人気があって

部屋はいっぱいでしたし、期待にたがわず理路整然としたお話で

ものすごく勉強になりました。なんとなく英語教育の量的研究のうさんくささ、

を感じてはいるものの、統計はさっぱりわからないので、エビデンスベースト

という考えを学んで、ちゃんとした量的研究とそうでないのとを区別する

ガイドラインを教えてもらった気がします。


2017年6月13日火曜日

シカゴ・スタイル


最近は、非常勤先で学生の英語力はともかく、プレゼンの構成や

文章の構成をまずわかりやすく教えないと話にならないなあ、と

痛感しています。みんな言いたいこと、興味があることをとりあえず

提示してみることはできますが、3分間しゃべるとか、ポスターを

つくる段階になると、それを構造化しなければ何を言いたいか

自分も聞き手もわからなくなってしまう。



それは、私の博士論文も同じ問題を抱えていて、自分ができないのに、

人に指導することもままならないので、最近、阪大の図書館で

見つけたこの本を読んでいます。

吉岡友治 (2015) 『シカゴ・スタイルに学ぶ論理的に考え、書く技術』 草思社

これは学部生向けなので、すごくわかりやすいですが、なぜか

アマゾンでは見つけられませんでした。


論文の組み立てに悩んでいる方はぜひ見つけて読んでみて下さい。

2017年6月11日日曜日

KELES研究大会

久々に二日間どっぷり浸かってきました。

 
たくさん収穫がありました。一日目は、史上初めて外国語教育メディア学会との

共催ということで、阪大の言語教育関連の先生も数人いらっしゃってました。

大学でお会いするのとは、また違う感覚でワークショップで学ぶことが

できて新鮮でした。


ドイツ語の岩居先生は、阪大ではipadカフェでTAの身分でお世話になって

いるのですが、どうしても教授や准教授の先生方のあいだで院生

としてはいつも気後れがしていました。今回は、受講生としてちゃんと

学ぶことができたのでよかったです。



一日目も二日目も修士時代の京都教育大の先生方や先輩、同輩と

再会できてなつかしかったし、その時代の自分と今の自分との

距離や立場の違いを確認できました。


修論発表会から長い期間を経て久々にここで発表したくなりました。

関西で発表するのは全国よりも勇気がいります。。。でも、

そういう試練が自分には必要かもしれないです。



師匠とゆっくりお話ができて、初心に戻れたし、スピノザのエチカは絶対

読もうと思いました。


LETはあまり知らなかったのですが、一日目のシンポジウムの先生方が

若々しくて、海外の大学で博士論文を取られ、国際ジャーナルにも

多数寄稿されているということで、とても論理的ですっきりした

説得力のある展開で面白かったです。でも若いなあ、まだまだ

もっともっと深く教育や言語、哲学を追求していってほしいなあ、と

年寄りぽく思ってしまいました。


圧巻は、高木先生のブランチセッションでした。あんなに高木先生が

熱く実践研究について語っておられたのはすごかったです。

100回ぐらい先生の目を見てうなずいてしまいました。

つられて中部地区の英語教育学会にぜひぜひ参加したくなりました。



修士時代の先輩と電車で帰り一緒でした。中学校の実態を

お聞きすると、快く沢山教えていただきました。アクティブ

ラーニングはどうなんですか、と尋ねると、アクティブ

ラーニングをしているということを文科省にアピールするため、

全教科で机をコの字型にすることに職員会議で

強行に決められたそうです。その先生は反対したんだけど、

と仰っていました。アクティブラーニングを深く理解していなければ、

形だけで入ってもだめだろうと。ほんとうにそう思います。


教育に関してなんでもかんでも上から押しつけて、どうして

現場の話を聞こうとしないんでしょうか?現場の先生が

生徒のこと、教室のこと、何が必要か、教育とは何か、

一番よく知っているはずなのに。


例えば、大工さんに家の建て方を政府がこうしろと

押しつけることができますか?あるいは看護師に

亡くなっていく方の看取りをどうしろと政府が指示することが

できますか?教育もそういうことだと思うのに。


なんでもかんでも政治で決められると思っている。

でもそういう政府を支持せざるを得ない世の中をつくっている

私たちに責任がある。なんとかしないといけないです。

そうでないと、真摯にがんばっておられる現場の先生たちが気の毒です。

2017年6月2日金曜日

本というもの

色々思うところがあるのですが、自分の悪い癖で思ったとおりのことを

いうと沢山の人を傷つけてしまうと思い、またひいてはそれが

自分の不利益になり、自分がしたいことを妨げてしまうので、

ここに書こうと思います。


本について他のメディアに書いたのは

「若い哲学者千葉雅也のお勧めの本を読んでいますが、ビンビンきます。

例えばp227、『本の内容は、本の価値より安定しているわけではなく、

それについて交わされる言葉のやりとりに応じて大きく変化しうるのだ。』

論文も然り。それについて交わされる言葉のやりとりが貧しければ

どれだけ読者の数が多くても価値はないと思いました。」

これに関してはもっともっと言いたいことがあります。


修士、博士課程を経て5年目を過ぎ、研究者や大学の先生の実態が

ほのみえてきました。



先生方それぞれの信念に応じてがんばっていらっしゃいます。


若い先生方は若い先生方なりに、大学の仕事をこなし、

学会発表も数多く、研究会の主催もされて、院生の指導、

大学の授業、心配になるほどです。年配の先生方は年配の先生方で、

ご自分の信念に基づいて、勢力範囲を拡大しようと色々されていらっしゃいます。



でも、私が納得できないのは、私がいろいろな哲学や認識論、存在論に

遡ってそれを議論しようとしても、自分の専門分野の認識論や存在論を

所与とされておられる先生はそういうことを深く考えたことも

ないので、そもそもそういう議論ができない、ということです。

それはめちゃくちゃ不満です。大学院に入ってきたときはそういうこを

議論したくて入ってきたのでした。その時の修士課程の院生の

方が深く考えていました。ところが今の先生方の方がそういうことを

何も語る言葉がない。ただ、ご自分の分野で所与とされている認識や存在論

を語りもせず押し付けるだけです。


そういうソフトな権力に基づいて私のテーマや研究設問にコメントされても、

私が前提としている認識や存在論とは違うので当然納得できません。


その認識論や存在論を所与として出版された本は何もディスカッションもできないし、

対話も深まらない。ただ、印刷され、出版されただけ。いくら

沢山の著書を出版されて、数多くの論文を発表されても

それに対して誰も何も言うことはない。有名な先生になられて、

権力を持ち、浅い興味を数多く引き付けても、何も深まらない。

それはその先生が自分と自分の主張にしか興味がないからです。




そういう先生の主張を権力的に押し通されると、若い院生ならその後の人生が

かかっているので屈服してしまうかもしれませんが、

そもそも自分は博士論文を書いた後の人生でどう自分の権力を

打ち立てるとか稼ぐとかはあまり問題にはなりません。

食べていけるだけのわずかなお金を得れば十分です。

従って、もっと本質的な議論をしたいので、ご自分の研究の

世界観や言語観、研究観、教育観をこれまで深く考えられた

ことのない先生とは話にならないです。それは年齢だけでは

ないありません、わたしより年上でも浅い学問分野に長く浸っておられた

人とは話が合いません。


おそらく、そういう先生方を軽蔑した態度を醸し出してしまうので、

先生方から敬遠されることもあるかもしれません。でもそれでも

かまわないと思っています。



2017年5月16日火曜日

それぞれ

今年は縁あって複数の大学で非常勤をしています。

大体、一回生と二回生、その中にそれ以上が混ざっているのですが、

特に新生活をはじめたばかりの一回生が気になります。



まじめそうなのに、二回続けて休んだ女子に聞いてみると、

大体5月に体調が悪くなるんです、と言う、しかも下宿。

大学の授業ははじめてで緊張するだろうし、一人暮らしとなると

特に色々たいへんだろうなあ、と思います。

社会人もちらほら、留学生だったり、ハーフなんです、英語は

しゃべれるけど書くのはできない、という子もいる。


私はお母さんぐらいの年齢なので、どの学生もかわいいとしか

感じないけれど、お互いは色々思うところがある、という気配がする。


アクティブラーニングは、色々と欠点を指摘されますが、

この春休み猛烈に関連書を読んで、細かく手順を踏んで

グループワークを指示すると、シャトルカードに安心しました、

というコメントが多いのです。


思った以上に、みんなさびしく不安な気持ちで教室に

座っているんだろうな、という気持ちが文章からうかがえます。


前年度までは、協同学習もきちんと専門書を読んで臨んで

いなかったので、グループワークは嫌いです、とか、

お互いにそっぽを向いてやっているふりだけして、やりました、

という感じだったのが、ちゃんと一回生からわかりやすく

やり方を説明すると、できるんだな、と思いました。


何よりも、お互いに話すことでほっとしてくれて学び合う楽しさ

を知ってくれれば、上回生になっても社会人になっても、

人と話し合う、相談する、助言をするということが

ハードルが高すぎるようなことはないかな~と。


それも、片言ででもいいから、英語でできるようになれば、もっと

世界が広がるはず。


非常勤3年目、この仕事にとても手ごたえを感じています。


こういう仕事を与えられ、任せられ、生かされていることに、

もっと感謝しなくちゃいけない。 


博論書けないことにうつうつとして八つ当たりしている場合じゃない。

学生たちが自分の言うことを聞き取ろうとして、理解しようとして、

まっすぐに自分の目を見ている。その対話の場はこの上なく

貴重で、自分には過ぎたことだなあ、と思います。

もったいないことです。







2017年4月7日金曜日

真理と方法 I II III  ガダマー

次回のしつけんまで一週間あまり。


やっと大学の図書館のペナルティ期間(延滞した日数だけ借りられない)


が終わったので、ハンス=ゲオルグ・ガダマーの「真理と方法」3巻を


借りてきて、超特急で読んでいます。




前回、せっかくディルタイがお題だったのに忙しさにかまけて、


紀伊国屋で売ってるし、薄いしすぐ読めるだろう、という理由で


安易に岩波文庫の「世界観の研究」を買ったのを反省。




メンバーが濃いのでディスカッションはもちろんすごく充実して


ディルタイのこともある程度わかったような気にはなりましたが、


今思い返すとあまり残っていない。






やはり、一人の哲学者を一ヶ月で勉強するには、主著を


読まなくちゃだめだ、と猛省し、数日間ブルドーザーのように


飛ばし飛ばし読んで、抜き書きは今のところ12ページくらいです。


一応これも博士論文に入れるつもりで。。。。






ガダマーは、ウィキペディアによると1900年から2002年とごく最近まで


生きていた人のようで、えっ!そんな長生きした人なんか!


と思って確認するとやはりそうでした。




ハイデガーに師事し、解釈学を独自の考えで推し進めた人の


ようです。しつけんのメンバーは日本語教育の人たちで、私と同じく


現象学的方法論を使って研究しようとしている人もいるので、


現象学的看護研究の参考書にあげられている解釈学のディルタイや


ガダマーを勉強したい、ということになり、今回選ばれています。




この本も難解なのですが、西口光一先生がご自分のバフチン研究を


どちらかといえば解釈学なのだ、と3年前におっしゃっていらい、


解釈学、解釈学って何???とずっとクエスチョンマークが


頭の中に残っていたので、なるほどなるほど、と読み進められて


少し快感です。それに、文献学や、歴史、聖書、芸術とあらゆるものの


理解と解釈の研究と学問についてのいきさつが説明されていて、


始めは関係ないから読み飛ばそうと思ったのですが、


だんだん英語授業の談話という他者のことばを解釈する自分の研究を


さらに深く裏付けるものでもあるということがわかってきて、


読み飛ばせなくなってきました。






先月、バチカン美術館でイタリア語も宗教的なことも絵画のことも何も


わからないまま、何時間も芸術作品の中を歩き回っていて


それでもなにかしら身内に入ったような気分がしたのも関係があるかも


しれません。




来週から、非常勤先の大学の授業が始まります。




前年度の反省は直後にしたっきり、スキルのブラッシュアップもろくに


できていないけれど、新しい職場、新しい学生たちに向き合うために、


この冬から春にかけて、考えたこと、勉強したこと、経験したことが


どれだけどういうふうに授業実践に反映するのか、怖いことこの上ない。




さあ、またがんばろう。




あ、博士論文も。。。

















2017年4月2日日曜日

質的コンソーシアム その他

この3か月はほんとうにバタバタでした。




ブログを読み返してつらつら思い出してみると、


それでもやらないといけないことは全部なんとかやりとげたなあ、


と自分をほめてあげたいです(内容はともかくも)。




子どもが大学院を修了していよいよ独立するので、


最後の家族旅行の目的地で彼女の希望が二転三転。


結局、二人とも行ったことがない土地ということでイタリアに


決まって、いい思い出作りになりました。




ところが、出発ぎりぎりになって(ありがたく)非常勤の仕事が二校も入ってきて


そのための研究業績書、履歴書、シラバス、文科省に出す書類など


を数日で提出するようにと言われ、のばしのばしにしていた


査読付きのproceedingsの論文とか、確定申告とか、もう何が何だか


わからないまま、出国の東京と乗り継ぎのロンドンの空港でも狂ったようにやっていました


(先生方がよくそういうことを言われていますが、まさか自分もそういうはめに


なるとは)。




色々学会や研究会の予定を入れていたのですが、なかなか参加できず、


帰国してからやっと「英語教育における質的研究コンソーシアム」


に行けました。こちらです。
http://eltqualitativeresearchjapan.blogspot.jp/


なんかもう、阪大に入ってから色々と振り回されていましたが、


これが自分の本来のフィールドで研究分野なんだとほっとしました。


日本語教育ではないし。


会話分析でもないし。


社会言語学でもないし。




自分が研究したいのは、


日本の公教育での中学校や高校での授業における


英語教育(私学ではなく)であって、


英語を一生懸命に中学校と高校で勉強した子が


高校を卒業した時に、外国語を使えると実感するような


公教育はどういうものなのか、ということです。




自分はたまたま、NHKの基礎英語をまじめに3年間ラジオで聞いて、


たまたまAFSと出会って一年間アメリカへ留学できたので、


英語が使えるようになったけれど、本来は公教育で


ある程度使えるようにしなければいけないのではないか。


そう思っています。




そういう志を体現するような博士論文を書かなければ


貯金と時間をたくさん使って大学院に来ている意味がない。




もうふりまわされずに、自分の志を貫いて納得できる博士論文を


書きましょう。がんばろう。









2017年3月24日金曜日

4年目の春 他

復学することにして、


結局この4月博士課程4年目の春を迎えることに


なりました。




色々思うことはありますが、昨日所属研究科の修了パーティに


参加して、博士後期課程に進学するM2はほんとにとても優秀


で、あとはただいろんな経験と出会いに恵まれるかどうか、


だな、と思ったり。




博士論文を完了できる能力について色々と思いました。




ただ、自分が思っていたのとはなんかずいぶん違うなあ、と


思います。まだ漠然としていてよくわからないです。






一番重要なのは、ある読者にとって、ある程度「わかりやすい」


ということなのだと思いました。




なんというか、「形式的な」わかりやすさ、とか「学術的な」


わかりやすさ、近い学問分野の研究者にとってあるていどの


「専門的」な「妥当性」がある、ということです。そういうものが


あれば、その研究の「深さ」などはあまり問題にならない


のかなあ、と思いました。




話は変わって、今日は娘の大学院の修了式に行って来ました。




そこで、総長のスピーチでいくつか博士論文の内容が紹介されていました。




その一つで、他者理解について、従来、間主観性と言われてきたものが、


自己と他者を別々に捉えてきたが、自己と他者は分けられないものとして


捉えるという論文を紹介されたのがびっくりしました。




さすが京都、そしてKyoto Eliteとスピーチでも言われていましたが


まだ少しは反骨精神が残っているんだなあ、と。




反骨精神のなくなった大学なんて存在価値があるんだろうか。







2017年3月13日月曜日

しつけん 他

以前書いたかもしれませんが、昨年末からバフチンカフェで知り合った


文学研究科の人に誘ってもらって、月一回、質的研究会通称しつけん、


という哲学書の読書会に参加しています。




今月は忙しすぎてあきらめようと思っていたのですが、ディルタイと


いうことでがんばって参加しました。




ルールは、一ヶ月に一回、一人の哲学者を決めてその著書を読み、


気になった箇所をA4一枚のレジュメにして持参するというものです。




これはなかなかハードです。




今回は書店でディルタイの著書が一冊しかなかったので、岩波文庫の


『世界観の研究』という薄い本を一ヶ月ぼちぼち読み、参加の


準備をしていたのです。が、やはり難解すぎて、あまり理解できず


どこを抜き出していいかわからないまま、当日の早朝にレジュメを


作成して参加しました。




朝10時から夕方まで、各参加者が作ったレジュメをもとに


ディルタイについて語り合うだけの時間。






貴重な時間でした。それぞれが、だいぶディルタイについて


わかったなあ、と満足して帰りました。私も朝ばたばたと


つくった間違いだらけのレジュメが役にたったなあ、と


嬉しかったです。






来月は、ガダマーです。難しそうだけどがんばろう。






こんな時間と空間があるというのが、研究者としての


醍醐味かもしれません。






先日ありがたいことに急に増えた非常勤の仕事の書類で、


しつけんあと、今晩まで集中していましたが、ようやくだいたい終了。




でも、後まるまる2日しかないのに、3つも仕事が残っています。


英語論文の結論部分の追加。


確定申告の書類作成と提出。


現象学会の発表申し込み。




できるんだろうか、半信半疑です。プレッシャーがかかれば


かかるほど、逃げてしまう。。。でもぜんぶやらないと。





















2017年3月10日金曜日

諸々

なかなかなかなかなかなか忙しくしています。


大学受験を終わった自宅塾の生徒君が昨日志望大学に合格しました、


とメールをくれて、今日友人と一緒に立ち寄ってくれました。




小学校あがる前から来ていた、と彼が言うのでそうだったっけ、


じゃあ12年も来ていたんだ、と私の方がびっくり。


地震や気象の研究をしたい、というのが夢で特に高校生になってからは


毎週英語のレッスンのたびにいつもその話をしていました。


自分のしたいことを追求した結果、名古屋大学理学部を


志望していて見事に合格した彼でした。きっとこれから


日本の地学を引っ張っていく研究者になるんだろうなあ、と


思います。沢山英語の論文を読まないとね、と言うと


そうなんや、と憂鬱そうでしたが、がんばれ!!留学もね。






連れてきてくれた友人の一人は小三で引っ越してそれ以来


会っていなかったのですが、18歳になった今も顔もシャイな性格も


昔と全然変わらず。ほんとにシャイでいつも生徒君の後ろに


隠れていやだいやだ、と言っていたのに、今日はかばんから


おもむろに今はECCに通っているんだ、とECCのテキストを


見せてくれました。大学に進学して秋からアメリカに一年間


留学するんだそうです。




英語おもしろいの、と訊くと、そんなに、と言っていましたが


国際関係学部だそうなのできらいではないんだろうなあ。




もう一人の友人も小学校の友達で美容師の専門学校に行くんだ、


と言っていました。ひとなつこく、紅茶に砂糖を入れて飲んで、


帰るときにまたきま~す、と言っていたのはその子だったような。


美容師もロンドンで修行する人もいるよ、と話すと、へえ~と


いう反応でしたが。まだまだ若者はいろんな可能性があるので


面白い。




まだ、ここでレッスンしているんですか、と聞かれたので、してるけど


生徒も数人になって夜の仕事はしんどいし、今は大学でやんちゃな学生を


教える方がいいなあ、とか、そんなやりとり。




今週になって、求人に応募していたら面接で決まったり、人づてに


紹介があって、急にばたばたと複数の大学の非常勤の仕事が増えてきました。


ありがたいことです。しかも、「英語科教育法」という授業の依頼が


あって、まさに英語の先生を目指す学生に少しでもj自分の


ことばで話す経験をしてもらいたい、という希望がかなえられることに


なりました。




あと、昨年沖縄で発表したJALT Pan SIGのProceedingsの論文を


仕上げないといけないし。査読者のコメントがとても親切で的確で


感激しました。こんなできそこないの自分の原稿でもこことここを


こう直してもう一回出したら、具体的にアドバイスをしてくれて


励ましてくれる。自分の実力は全然足りないですが、忙しい中


誠実にコメントをくれた匿名の査読者のためにがんばろうと思います。




それと、8月に発表しようと思っている学会の申し込みもあと


少しで〆切。税金関係ももう〆切。全部、あと3,4日で終わらないと。




この4月から子どもが就職、独立するので、来週母娘でおそらく


最後の海外旅行をする予定なんだけど。




行けるんだろうか。





































2017年2月15日水曜日

Pring, R. (2000/2015).Philosophy of Educational Research

外国語教育質的研究会で、毎月されている読書会。

やっと前回参加できてまた今週末も行くつもりです。

表題の本を前回、今回、やっつけで第6章、7章と読んでいるのですが
最初から読まないと全体の議論について行けなーい、と
ようやく冒頭から読み始めると以下の文。

"much of the research which gains the funding and which wins the approval of university administrations is not, strictly speaking, educational research. " . (p9)


では厳密な意味でのeducational、とはどういうことなのか、

やっぱり、本はなぜ著者がこれを書いたのか、という熱を丸ごと
受け止めないと読む意味がないなあ、と反省。



2017年2月3日金曜日

プレゼンテーション大会

非常勤先の大学が短期大学を併設していて、


そこの英語プレゼンテーション大会があるというので、


見に行って来ました。




短大の学生たちがんばっているなあ、という印象でした。


不勉強で短大の規模はよくわからないのですが、それぞれの


コースの選抜チームということで、チームもあり、2人もあり、


単独のプレゼンもあり、スキットや漫才みたいな会話形式も


あり、自由な感じ。


英語は私の担当のクラスと似たようなレベルでしたが、


さすが選抜されたグループだけあって、楽しんでやっている雰囲気が


伝わってきて面白かったです。メニューを紹介するのに、最後に


シャンパングラスを持ってきて審査員とCheers!とやってみたり、


プレゼンターがシェフの衣装とエプロンで登場したり、


お勧めの旅行プランをプレゼンするのに、ポディアムから


離れてスクリーンの前を歩いてスクリーンを指したりしていました。


なかなかやる。




帰りに学長にお会いしたので、大学ではこんな大会は


やらないんですか、とちょびっとプレッシャーをかけてしまいました。


こういうのを大学で行事としてしてくださると、みんなきっと


テンション上がると思います!と。でも色々組織的に難しいことも


あるんでしょう。











2017年2月2日木曜日

教科書

自宅塾の生徒が、これ何言いたいのか全然わかれへんねん、


と生徒同士高校の授業で使っている教科書を見せあってぶつぶつ


言っていたので、何がわからないんだろうと、一緒にやる?と言って


今日のレッスンをその文章を一緒に読むことでつぶしました。






一冊しかないので、とりあえず交互にパラグラフごとに生徒に音読してもらい、


とその音読につっこみつつ、ちょろちょろタイプアウトしながら内容について


感想や解釈をはさんでいると、どういうこと?こうやと思うねん、あ、


そこわかるで、こういうことや、どういうこと?とみんなで


話し合いながら読み進めててすごく面白く、まるで研究者同士の読書会


高校生版のようになりました。




この会社の一年生用教科書perspectiveのStonehengeという章です。




http://www.daiichi-g.co.jp/shuppan/syllubus_n/10/list.html#19707




内容が深く面白かったし、その前はレッスンで映画で見たマンデラさんが


あまりにもよくてわかりやすかったから、それとのギャップがあって


わからへんねん、と言っていた彼女たちでしたが、最後には理解が


深まった~、ありがとうありがとうと生徒同士(私にではなく、ここが重要)


満足そうにお互いに言い合いながら帰っていきました。






私は、彼女たちが学校でどういう勉強をしているのか、テスト勉強のときだけ、


わからないことを目いっぱい質問させて終わってからの振り返り、それしか


知らないのです。epistemological statusというか、彼女たちは高校の授業の


こと、どういう勉強をしているかということの当事者知識のレベルが私より上なので


必然的にその知識を私に教えるような形になるし、教科書をもっていない私に音読で


その内容を知らせることになる。それに対して私が解釈したり、スペルや発音を


聞いたりして意味の交渉がものすごく活発になる。


考えて話し合っているのは生徒たちが主体で、


私は完全にファシリテーターでした。こういうレッスンはめったになくて


いつもは私が教材を用意して、私と生徒の関係はこっちが知識を与えるもの、


生徒は用意された教材で知識を受け取るもの、となっていることに


きづきました。






それも教科書の内容がよかったりとか、色々な条件が整ってこそ、


こういう学びになったのだと思いますが、


この一時間を録画しておいて分析したらよかったなあ、と


ちょっともったいなく感じたのでした。









2017年1月30日月曜日

シラバス入力終了

〆切ぎりぎりに非常勤先の授業のシラバスのweb入力を完了しました。




今年度、グループワークがあまりうまくいかなかったので、


シラバス作成のために協同学習、アクティブラーニングの専門書を何冊も


何冊も読んで勉強していたのですが、知識は知識にすぎません。




結局、シラバスを更新する上で一番頼りになったのは、この一年授業をしながら、


毎週反省とともに来年はこうしようとずっとデジタルで書き溜めていた自分のメモ。




そして、非常勤先で公開されている何百ページというシラバスを


閲覧しながら、自分で参考になりそうなところをとったメモ。




コマ数は昨年と変わらないですが、学年も違うし、前期後期と変化を


つけたので、一クラスずつの違いがちょっと自分しかわからないような複雑な感じになって


しんどかったです。




でもシラバス完成は単にガイドラインに過ぎないので、来年度はまた


苦しみつつ、学生たちとともにチャレンジ、チャレンジの授業になるんだろうなあ。


はじめてe-learningを提案してみたら、大学の上の方々に承認されたので、


授業の課題に入れてみました。




来月初旬に、大学のe-learning担当部署との打ち合わせです。


どきどきです。






ほんと、みんなこんな新米の先生でごめんね。































2017年1月18日水曜日

最終発表終了

今日から成績つけ地獄です。




学生はあの手この手で楽して単位をもらおうとしてくる。


最初に決めた厳しい基準で成績をつけると大体8割の学生に


単位を出せなくなる。




まず、3日間の最終発表に来なかった学生は単位は出せない。


それをわかっているはずなのに来ず、先週は体調不良で、


今日はインフルエンザだったとメールがくる。




毎週の宿題を出していなかったので、まとめて


出します、とメールで10個ぐらいのファイルが来る。




最後の授業で、先生大好きです、来年もお願いします、


と笑顔と愛想をふりまく。




しんどくてもこつこつ毎週宿題を出して、授業でミニプレゼンもし、


毎回授業で私語もせず、みんなのプレゼンに


まじめにコメントを書いて、がんばった学生が不利になるのは


忍びない。




でも、ことばとコミュニケーションなので、やっぱりへたでも


恥ずかしくてもブロークンでも勇気をもってチャレンジして、


自分を英語で表現する力をつけた学生も評価したい。




色々と悩ましいです。でも自分の学びとクラスメイトの学びに


誠実でない学生は評価できないな。

2017年1月10日火曜日

最終発表2回目

昨年末、非常勤先の英語プレゼン授業の最終発表一回目をやって、


今日は二回目。




そろそろ成績を付け始めていますが、つけながらハラハラしっぱなし。


一年間彼ら彼女らを見てきて、すごく成長したと思って嬉しい反面。








宿題を一回もちゃんと出せない学生、


欠席遅刻が多くてたまに出てくるたびに髪の毛の色が


代わっている学生、


人前でしゃべるのが苦手な学生、


できないのにやたら自信過剰な学生、


まじめで実力があるのに自信がない学生、


クラブ活動で疲れ果てている学生、


クラブで全国的な実績をあげていてそれでも授業もすごくがんばる学生、


がんばろうと思っているのにどうしても原稿を見てしまいアイコンタクトは


ちらっとしか出せない学生。




自分のプレゼンはちゃんとするのに他の人の時には


私語ばっかりで聞く姿勢がない学生。




英文もパワーポイントもちゃんとできているのにマイクを使わないので


声が小さくてみんなに届かない学生。




スポーツで骨折したり、体調が悪くてプレゼンを来週に回さなくていけない学生。


大幅に遅刻してやっときたと思ったらずっと寝ている学生。




最終発表に来ない学生。どうしたんだろうか。




がんばってきてくれた全員に単位あげたいけど、このままでは


全員に出せないよ~~。




もうちょっとがんばるところを見せてくれ~~。









2017年1月5日木曜日

今年の抱負

あけましておめでとうございます。



今年の抱負は、とにかく、博士論文を書き終える。6月に指導教官に提出して、

7月には博士論文審査会に出す。審査落ちるかもしれないですが。



それも、ぎりぎり自分が納得いくような内容で。

妥協はしたくないです。先生方にはいろいろご助言はいただく

とは思うのですが、先生方を超えるぐらいの勢いでやらなくては。


すべては勢い。ここまで5年かかっていますが、初心はぶれていないです。

なんでこうなるんだろう、と疑問に思った現象はいまでも解決していない。


この年末年始、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』に取り組んで

いますが、読めば読むほどこの人は私と気が合う、という気がしています。


彼は私を裏切らない。


と思います。



12月24日の外国語教育質的研究会での研究発表は実り多いものでした。

修士の時からの自分とつながりがあって、ヴィゴツキー学協会にも

縁がある研究者の方々だし、英語教育に質的研究を入れようという

気持ちでつながっている。


そして忌憚なく、たくさん意見を言ってくださいました。ありがたいです。


現象学的アプローチ、エスノメソドロジー、会話分析という

パラダイムを統合しようとするのは無理ではないか、とあとから

いつもお世話になっている方が電話でも一時間近く熱心に言ってくださいました。



引用していた社会学者の方には、いくつか質問していただき、忙しい方なのに

お時間を無駄にしたのではないでしょうか、と声をかけると面白かった、

と言っていただいてほっとしました。まとめる時間がなくて、最後の解釈で

時間性と空間性というのを入れてぎりぎりなんとかレジュメを作ったのですが、

この概念をいれると何かいいことがあるんですか?と質問されて

この方らしい質問だな、と思いつつ、答えとしてはそれがもっと広がると思ったからです、

というのが精一杯でした。今でもこたえなければ行けない問いだと思っています。



そのあと、文学研究科の方が前からお話しておられた哲学の友人同士の

研究会に誘ってくださり、そこでも今回のレジュメをお見せすると

熱心に批判してくださいました。



焦点は、パラダイムの違うものをどういうふうに博士論文にするか、

ということでした。


4人の方のご意見は、

1.(教師の学びというテーマで博士論文を昨年完了された方)

  一つのパラダイムで博士論文を書くのも大変なのに、

  二つ以上のパラダイムで書くのは不可能、とりあえず博士論文を

  書くことに注力するべき。何を見たいのかをもっとつきつめるべき。
  
  今のままでは何が見たいのかがはっきりとわからない。
  
  エスノグラフィーではだめなのか。


2.(ほぼ私と研究の関心が近い方)
 
  研究動機を読むと現象学かと思うが、データの分析を読むと会話分析だと

  思う。現象学なら教師のあるいは生徒の経験だし。会話分析は、
 
  研究者の視点から授業を比較している。二つのパラダイムは統合できない。


3.(建築の視点で文学を研究している方)

  自分の研究でも二つのパラダイムで一つの対象を見ようとすることは

  ある。ただ、二つのパラダイムを止揚するのは難しいので、

  二つのパラダイムを出して、その差異を考察するということを
  
  すればどうだろう。それは面白いと思う。

4.(会話分析専門の研究者)

  自分は今現象学的に別のことを見たいが、現象学のアプローチに

  会話分析を入れることは意外とできると思う。


いやもうほんとうにありがたいです。


がんばります。