2017年12月13日水曜日

副産物 

もうあと、今週の博士論文審査会を控えて既に終わったな~。

という感じ。


せいいっぱいやってはいますが、これまでの自分を

ふり返って何が悪かったんだろう、と思い返すと。

まず、博士課程に入るときにもっと突き詰めて調べたり考えれば

こんなふうにならなかったかもしれない、ということもあります。


が、その時点で自分に手に入る情報や聞ける人には研究の

ことは聞いたつもりだし、談話分析や会話分析のことも何も

知らなかったし、ましてはまわりまわって現象学関係で

博士論文を書くことになろうとは昨年末まで思いもよらなかった。


英語教育や第二言語習得研究で、英語も含めてすべて手に入るオリジナルの

文献を全部読んだかと言われれば、それはしていない。まずもって、

なんでことばや人間や教育のことに、そんなに統計や数式や数字で

すべてを説明しているのか、ということが納得できなかったし。

それでいて批判をしているのでそれは突っ込まれどころが満載。


もっと意味のある深い研究を探しても英語教育分野では見つけられなかったので、

自分でやろうとしていろんな分野をさまよい歩き、紆余曲折して

今週を迎えることになりました。


傲慢と言われればそうかもしれないですが、英語で自分を表現できない人が

なんで英語の先生をしているのか、ということが今でも納得できない。

ことばを教えている人が、ことばを使うのが苦手、ということがまったく

納得できないし、そんな授業を受けさせられている生徒が損せざるを

得ないのにも納得できない。


英語であろうと、何語であろうと教える立場の先生はもっと現実のことばを

大切にすべきだ、という気持ちをこの博論で表現したかったのですが、

それが学術的に表現できないのであれば、ひたすら、まだまだ

勉強を続けるしかないなあ。


救いは、今大学の授業で学生たちが少し英語に対していきいきして

きたような気がすることです。リーディングライティングの授業で

まとめで簡単なプレゼンをグループで前でしてもらって、

その感想を書いてもらったら、私の質問は聞いてわかったけど、

口から答えがでなかった、くやしい、という感想がちらほらあって、

なぜかすごく手応えを感じました。くやしい、という気持ちが

エネルギーの源泉になるような気もするし、そういう気持ちを

忘れてしまった自分を鼓舞してくれる気もします。


そういう副産物もあるし、現象学に同じく興味があるしつけんの

メンバーが教えてくれた「目の見えない人は世界をどう見ているのか」

の著書の伊藤亜紗さんの発表を見つけたので動画で見ていたりすると

文章と実際のその人の話している感じはずいぶんちがうなあ、と

思い、文章のパワーというのも改めて感じます。


もっと丁寧に文章を演出しないといけないんだなあ、と思ったり。

例え結果はだめでも、色々と副産物があった博士後期課程も

もうあと3ヶ月あまりで終わります。
















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