2017年6月2日金曜日

本というもの

色々思うところがあるのですが、自分の悪い癖で思ったとおりのことを

いうと沢山の人を傷つけてしまうと思い、またひいてはそれが

自分の不利益になり、自分がしたいことを妨げてしまうので、

ここに書こうと思います。


本について他のメディアに書いたのは

「若い哲学者千葉雅也のお勧めの本を読んでいますが、ビンビンきます。

例えばp227、『本の内容は、本の価値より安定しているわけではなく、

それについて交わされる言葉のやりとりに応じて大きく変化しうるのだ。』

論文も然り。それについて交わされる言葉のやりとりが貧しければ

どれだけ読者の数が多くても価値はないと思いました。」

これに関してはもっともっと言いたいことがあります。


修士、博士課程を経て5年目を過ぎ、研究者や大学の先生の実態が

ほのみえてきました。



先生方それぞれの信念に応じてがんばっていらっしゃいます。


若い先生方は若い先生方なりに、大学の仕事をこなし、

学会発表も数多く、研究会の主催もされて、院生の指導、

大学の授業、心配になるほどです。年配の先生方は年配の先生方で、

ご自分の信念に基づいて、勢力範囲を拡大しようと色々されていらっしゃいます。



でも、私が納得できないのは、私がいろいろな哲学や認識論、存在論に

遡ってそれを議論しようとしても、自分の専門分野の認識論や存在論を

所与とされておられる先生はそういうことを深く考えたことも

ないので、そもそもそういう議論ができない、ということです。

それはめちゃくちゃ不満です。大学院に入ってきたときはそういうこを

議論したくて入ってきたのでした。その時の修士課程の院生の

方が深く考えていました。ところが今の先生方の方がそういうことを

何も語る言葉がない。ただ、ご自分の分野で所与とされている認識や存在論

を語りもせず押し付けるだけです。


そういうソフトな権力に基づいて私のテーマや研究設問にコメントされても、

私が前提としている認識や存在論とは違うので当然納得できません。


その認識論や存在論を所与として出版された本は何もディスカッションもできないし、

対話も深まらない。ただ、印刷され、出版されただけ。いくら

沢山の著書を出版されて、数多くの論文を発表されても

それに対して誰も何も言うことはない。有名な先生になられて、

権力を持ち、浅い興味を数多く引き付けても、何も深まらない。

それはその先生が自分と自分の主張にしか興味がないからです。




そういう先生の主張を権力的に押し通されると、若い院生ならその後の人生が

かかっているので屈服してしまうかもしれませんが、

そもそも自分は博士論文を書いた後の人生でどう自分の権力を

打ち立てるとか稼ぐとかはあまり問題にはなりません。

食べていけるだけのわずかなお金を得れば十分です。

従って、もっと本質的な議論をしたいので、ご自分の研究の

世界観や言語観、研究観、教育観をこれまで深く考えられた

ことのない先生とは話にならないです。それは年齢だけでは

ないありません、わたしより年上でも浅い学問分野に長く浸っておられた

人とは話が合いません。


おそらく、そういう先生方を軽蔑した態度を醸し出してしまうので、

先生方から敬遠されることもあるかもしれません。でもそれでも

かまわないと思っています。



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