いよいよ、タイムリミットが迫ってきました。
そろそろこの日記のようなブログも終えて、きてくださる方に甘えていないで、
ちゃんとしたブログを作らないといけないのかなあ、と思っています。
先日、博士論文審査会の題目届けを提出しました。審査会は12月半ばです。
そこまで行くのもすったもんだで、一時は題目届けも出せないのか、という
感じでした。とりあえず出すことができました。
一応阪大の規定では審査会の時点で博論が7割できている、ということが条件
ですが、実態は7割ではほぼ落ちるらしい。9割はできていないと
だめだそうです。
博士論文という制度や大学院という制度、今の自分の状況に関して
思うところは色々とあるのです。でもすべては自分のせい。何もわかって
いないまま入ってきた自分がすべてです。もっと死にもの狂いになって
いれば、博士論文を書けない自分を客観的に見て役に立つ情報を
必死になって集めて学んで昨年の今頃には余裕をもって審査会に
臨んでいたと思うのですが、すべては仮定の話。
9割できるとは。。量はともかく質が。。。まあ、やるしかないです。
1つ救いは、先日たまたま参加した教育哲学会(この学会もこれまで参加していなかった)
の発表からたどっていって、2010年に書かれた博士論文、福田学著「フランス語
初期学習者の経験解明―メルロ=ポンティの言語論に基づく事例研究」を発見した
ことです。500枚の大著で「教育哲学研究」に取り上げられていたので、
しらべてみたら、なんと阪大の図書館にあったので則手元に。
この論文ではまず、現象学に関係するサルトル、ハイデッガー、ソシュール、
フッサール、リクール、デリダの言語論を外国語教育と関連させて論じ、
そのあとにメルロ=ポンティの言語論に基づく河野、エディの言語論、
そしてメルロ=ポンティの言語論と順に論理的に論じてくださってから
事例研究に入っている、外国語教育研究でこういう流れの論文は初めてです。
現象学と授業の事例をどうつなげているのかを一番知りたかったので、
取り寄せてまず事例を読んでみると、やはり東大の中田基昭先生の
学派らしい感じの事例で、社会科学的なデータの提示や研究方法に
ついての言及は一切なく、東大のここはこれでも通用するんだなあ、
と思いました。ただ、やっぱり解釈は哲学的で深く、頭のいい論理的な
人たちの集まりにいる人らしく、それに加えて指導教官が現象学の専門家なので、
博論として通用するんだろう、ほぼ自分にはこんな解釈はできなさそうだし、
まず学問的環境が、と絶望。
とりあえず、今、リクールなので、理論をあと一日で消化してしまいたい。でも
難解で理解はできてもあとで論文に反映する時の自分の論理力が怪しい。
この論文にエネルギーをもらって後はひたすら書き続ければ
できそうな気がします。
今日、どこかで読みましたが、プレッシャーを克服するには、1.できた時の
自分をイメージする 2.今できることにひたすら集中する、ことだそうです。
福田先生は今新潟大学にいらっしゃるようですが、博論にはまにあわなくても、
いつかできればお会いしてお話をお聞きしてみたいです。
、
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