2015年7月9日木曜日

「みんなの学校」続き と

書ききれなかったので、また映画「みんなの学校」の話です。


朝礼で、校長先生が、「大空小学校はだれの小学校ですか」と子どもたちに

問いかける。

子どもが、「みんなの学校です」「自分の学校です」

先生は、「みんなってだれですか」「自分ってだれですか」

そんなやりとりがあったと思います。正確に覚えていないけれど、

そうして、「自分」というのは言葉だけではない、いまここにいる自分なのだ、

という体感。自分の学校、という責任感のようなもの。


それが、この学校の人格のようなものの根っことなって、文化、と

いうよりはもっと違う、それこそ難しいことばでいうと間主観性となる。


先生たちが人格者である、というよりは、子どもたちが安心して

いられる場所をつくることが、文部省がなんといおうが、学力テストを

押し付けられようが、小学校の先生としての仕事なのだ、

という国や制度を超えたプロ意識、責任感が迫ってきました。

それは、大人として、子どもにかかわる大人としてあたりまえの

ことであるはずなのに、ここまで迫ってくる、というのは、

あたりまえがあたりまえでなくなっている日常があるからだと

戦慄します。



教育とは何なのか、学問とは何なのか、研究とは何なのか、世界とは、

言語とは、現実とは、この世界におそるおそる足を踏み入れてから

考えたこともないことを、色々な先生方につきつけられました。



ところが、この学問の世界にすら、そんなことは考えもしないし、

そもそも問題にならないという前提に基づいているのか、びっくりするような

根なし草のような世界観が目につくことがあります。自分が浅く生きてきたので

今更驚くことでもないですが、でもそれでも、なんなんだろう、と、

また考えることが増えました。






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