書ききれなかったので、また映画「みんなの学校」の話です。
朝礼で、校長先生が、「大空小学校はだれの小学校ですか」と子どもたちに
問いかける。
子どもが、「みんなの学校です」「自分の学校です」
先生は、「みんなってだれですか」「自分ってだれですか」
そんなやりとりがあったと思います。正確に覚えていないけれど、
そうして、「自分」というのは言葉だけではない、いまここにいる自分なのだ、
という体感。自分の学校、という責任感のようなもの。
それが、この学校の人格のようなものの根っことなって、文化、と
いうよりはもっと違う、それこそ難しいことばでいうと間主観性となる。
先生たちが人格者である、というよりは、子どもたちが安心して
いられる場所をつくることが、文部省がなんといおうが、学力テストを
押し付けられようが、小学校の先生としての仕事なのだ、
という国や制度を超えたプロ意識、責任感が迫ってきました。
それは、大人として、子どもにかかわる大人としてあたりまえの
ことであるはずなのに、ここまで迫ってくる、というのは、
あたりまえがあたりまえでなくなっている日常があるからだと
戦慄します。
教育とは何なのか、学問とは何なのか、研究とは何なのか、世界とは、
言語とは、現実とは、この世界におそるおそる足を踏み入れてから
考えたこともないことを、色々な先生方につきつけられました。
ところが、この学問の世界にすら、そんなことは考えもしないし、
そもそも問題にならないという前提に基づいているのか、びっくりするような
根なし草のような世界観が目につくことがあります。自分が浅く生きてきたので
今更驚くことでもないですが、でもそれでも、なんなんだろう、と、
また考えることが増えました。
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