唐突に始めたブログですが、お立ち寄りいただき、ありがとうございます。
鈴木大拙の「東洋的な見方」を半分ぐらい読みました。
面白い。
父が金沢出身なのと、禅を英語で世界に広めた人、というので気になっていたのと、
お茶のお稽古を始めてその根本には禅があるというのと、諸々いつか勉強したい、と
思っていました。
解説を読むと、奥様がアメリカ人で、ご自身も27歳から10年以上
アメリカとヨーロッパで暮らして、英語は日常生活・生活世界の言葉のみならず、
「我と汝」の深い交流の心の言葉になった、ということです。
この本は、あちこちに書かれた随想を編纂したものです。「東洋性」というものは
日本人に生まれたからといって、必ずしも体現しているものではない、けれども
日本人の「心」には、妙というのものが宿っている、それを取り戻して世界の他の
人びとに広く知らせたい、という主張が随所にあります。
その東洋民族性の心理の奥底にある幽玄なもの、これは世界の至宝であり、世界の
人びとは、その霊性の上に新しいものを見ることになる、と同時に、著者は、安っぽい
感傷性の東洋的なるものは排斥し、欧米式の合理的なるものに置き換えるべきである、とも
言っています。
here and now, 「ただいま」「即今」アッというこの一瞬が実は無限なのだ、ということを悟るべきだ、
と、「空」ということがどういうことなのか、 「色即是空、空即是色」、0=∞、色々説明されていると、
なんとなく少しかすってくるようにも思えます。
また、時間と空間は分けてはならない、それは「一念」として一体なのだ、とも言います。
そして、西洋人の頭は二分性に根ざしている、五官に対する客観体がなくてはならない。神が
光あれと行ったときに、陰ができ、世界を二つに分けている。が、東洋はそれが分かれる前の
「渾然として」ある状態から踏み出す、というところで、少し驚きました。
というのは、このところ、デカルトの二元論から抜け出さなくては、というの、私に与えられた
英語教育の一つの課題であるからです。holisticに考える、活動を一つの単位として考える、
というのがなかなか自分にも人にもわかるように会得できない。
先日の立命館の日下部吉信先生の講義では、ずっと2000年も西洋を支配してきた
アリストテレスの哲学は17世紀のデカルト哲学の出現で解放された、とおっしゃっていました。
ところが、アリストテレスは普遍を個物から切り離して、それだけで存在すると想定するのは不合理
と考えているそうです。それで、12世紀にアリストテレス哲学がパリに出現した折に、神による
世界の無からの創造というキリスト教の信仰箇条に矛盾するので、大騒ぎになったということなの
です。
単純に考えてはいけないのかもしれませんが、時空を超えて、似たような世界観があったのだ、
というふうに考えてしまいます。
しかも、これにロシア語の概念もからめるとなると、話はどんどん広がっていくばかりで、収拾が
つかなくなってしまう。けれども、子どもをその真ん中に置いてみると、子どもたちを中心に考えると
そこにすべてが収斂していくような気もします。
どうなることやら。
ri
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