2013年9月13日金曜日

中間発表会に向かって


19日の修論中間発表の準備で、仲間たちが続々レジュメをシェアしてきています。

内容への思い入れ、読み込んでいる文献の量、論の立てかた、洗練された文章、

形式の美しさ、何もかも秀逸のように自分には見えます。



20代半ばの時、いや、今までの人生でこんなものを産み出したことは、正直いって

皆無。資質のある学生をここまでにしたのは、やはり先生方であり、大学教育

なのでしょう。いやー、凄い!とばかり、言ってはいられない。



自分のレッスンのテープ起こしに膨大な時間がかかるので、疲れて院生室を出て、

久しぶりに一時間ほど図書館でゆっくり過ごしました。もう、あと、半年くらいしか

この図書館にもいられない。幸せすぎていつまでもいたかったです。



認識、認識、認識、と思っていたら、一冊の雑誌と目が合って、私を読みなさい、と言われたよう

な。。世界思想、という雑誌です。特集が認識のギャップをどう克服するか、というようなこと、

だったと思います。



その中の記事。


生田美智子(2013).「ギャップを超えた同期現象的認識」高田屋嘉兵衛の知恵

「エトロフ島請負人であった彼は配下のアイヌとの交流の中で認識のギャップを補うものが、いつも

一緒にいること、つまり絶え間ない対話作用の積み重ねであることを知っていた。」


漂流した日本船の高田屋嘉兵衛が交渉の条件としたのは、ロシアの関係者といつも一緒にいるこ

と、それだけだったという、その流れを受けての彼の考えが上記の引用です。

人間って、友人であれ、仲間であれ、家族であれ、夫婦であれ、恋人であれ、いつも一緒にいて、

いつも話をして、一緒に何かをする、一緒にご飯を食べる、苦労する、というのが大事だという、

自分の経験則を裏付けてくれたような気がします。



さらに、同じ雑誌の中から。

村上靖彦 「看護における『見える』『シグナル』『わかんない』

「子どもの死という理解を超えたものに対して、母親が問いを立てうるということは、母親が子ども

の死に直面しているということである。そしてこの直面のためには、Gさんがその問いを引き受ける

必要があるのである。つまり、「わかんない」という〈認識の不在〉に立ち会うことが、看護行為の本

体をなす。「わかんない」ことを介することによってのみ、Gさんは(子どもの死を待つ)母親と関わる

ことができる。」

研究上、この人について行きたいなあ、と思っている人が、同じ「わかんない」という言葉に

重きをおいて発表されているのを何度もお聞きしたのです。まったく別のフィールドで、

事の軽重はちがうにせよ、同じ方向をむいているのが、なんか、このまま進んでいって

いいんだよ、と言われたような気がしました。


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