2013年9月30日月曜日
ベイトソン「精神の生態学」
少し前に、表題の本を読んだことがありました。
ダブルバインドという状況が、分裂病の原因だという主張で有名な本らしいです。
ダブルバインドというのは二つの矛盾したメッセージを、たとえば、母親が子供に発して
いてそれによって子供はその状況から抜け出せなくなってしまう、という類のよく
ある状態です。
人間の活動における矛盾をどのように見つけ出すのか、それをどのように変容の契機
として実践のなかから取り出して分析するのか、このところ、ずっと悩んでいて、
それで前に読んだ本の引用を読み返しています。
そのダブルバインドの状況をわざとつくり出して、それを解決することで治療する、
治療的ダブルバインド、というのがあるそうで、これを学習に応用することはできないか、と
考えたりもしています。
それとともに、自分も日常的にダブルバインド的な発言を繰り返しているのではないか、
と読んだ時不安に思ってメモした感想を読み返しつつ、論文を検索していたら、やっぱり
同じことを考えている日本人の論文があったので、ちょっと嬉しい。自分だけじゃなかったんだ。
この方は、ダブルバインドという現象をもっとポジティブに広い範囲で応用できるのでは
ないか、と考えておられるようです。
興味のある方は、ベイトソンの表題の本とともに読んでみてください。
岡野一郎という先生の「ダブルバインドの可能性」と言う論文で、ciniで探すとすぐ出てきます。
2013年9月29日日曜日
第13回外国語教育質的研究会
はじめて参加してきました。青山学院大学の高木亜希子先生が主催されていて、
小さな講義室に、ディスカッションしやすいように円に机を並べて、発表の最中でも
質問してよい、と言う形式で20人あまりの参加がありました。
はじめての参加者は4,5名、他の方も常連からそれほど常連でなさそうな方まで、
とてもバランスがとれた構成だと感じました。殆どが大学の先生のようです。
通常の学会とはちがって、外国語教育の質的研究という興味のレベルが高いので、
質疑応答の内容が濃く、皆さんが共有されているよい質的研究への理解とはこういうものだと
本や文献で読んでいるのを三次元的に裏付けできたというのでしょうか。
非常に勉強になりました。次回12月と10月半ばの輪読会もぜひ参加したいです。
研究発表1
発表者:津田ひろみ(明治大学)
題目:Effects of Group Discussions on Developing Autonomous Learning Attitudes
研究発表2
発表者:上條武(立命館大学)
題目:Evaluatin Two Students' Reading Strategies : Application of Learning Longs and Interviews
発表1
目的は、自律的な学習態度を育てるための協働学習の効果を見る
25人の大学一回生のリスニング授業
Pre-task activity: Discussion for introduction, In-task activigy: Dscussion for comprehension,
Post-task activity: Discussion for expansion を実施、
研究方法は、協働学習についての五段階の質問紙、質問紙上のコメント、インタビュー
被験者のコメント、インタビューなどデータの紹介が沢山ありましたが、途中で聴くのがしんどい
なあ、と思っていたら、そのうち参加者からばんばんつっこみがあって、急に集中力が回復。
高木先生からの指摘が特にわかりやすかったです。以下メモより。
リサーチデザインで気になるのは、何を研究の一番目的にしたいのか、フォーカスがわかりにくい。
色々つめこみすぎ。研究の立ち位置、枠組みが提示されていない、熟達度、自律性、ストラテジーとごちゃごちゃしている
どういうふうなautonomyがproficiencyに役立つのか
questionaire, interview どういう目的でとって、どういう関係性があるのかが説明されていない。
appendixをつけて実際にどういうやりとりがあったのか知らせる。
視点がシフトして一年間のことになってしまっている
教師としてのクラスを良くしたいと思いとリサーチャーとして取り出したいところがごちゃまぜになってい
る。
教師としての目的をスライド一枚入れた方がいいのでは?
リスニングを支えるものとして自律性が大事だというところを入れた方がいいのでは?
データ自体は面白い、整理の仕方見せ方をもっと工夫
分析のコーディングの仕方を提示すべき
発表2は、
発表者の先行研究が、読解ストラテジーにおける学習ログの効果であったが、そこで
でた課題を解決するために、Recollection と Retrospective think-aloudというメソッドを
加えるというものでした。
こちらは慣れていらっしゃってわかりやすかったですが、全国英語教育学会の学会誌に
投稿される予定ということで結果は回収されてしまいました。掲載されるのが楽しみです。
発表の中にjustificationという項目があってなんだろうと思っていたら、高木先生からはじめての
方もいるので、皆さんに説明してください、と高木先生から発表者に指示がありました。
justificationというのは、その研究を公に出すにあたって、単に興味があるからだけでなく、
大衆にどのような意味があるのか、実践にどう貢献するのか、教育の質を高めたい、という
ことでもいいが、そのようなことを入れるべき、ということでした。
先日の北海道大会でも、教師が公に研究を雑誌に出すことについて、と柳瀬先生のワークショップ
を引き合いに出されていました。
舌足らずの報告ですみません。とりあえずここまで。
2013年9月25日水曜日
修論題目と子どもたち
今日は久々に師匠と面談。
今月中に大学に修士論文の題目の届を出さなければいけないのに、うっかりしていて
お忙しいところを時間を頂き、すったもんだの二時間半。タイトルだけやん、と軽くこっちは
思っていたものの、いやこれではダメ、もっといい言葉はないか、こっちを先にもって
きたらいい、いやこれでは意図が伝わらない、すごくこだわってくださいました。
最終的に、これで出すことにしました。
Learner's Transformation in EFL Tutorial Sessions:
From Activity Theory Perspective
学習者の変容を英訳してLearner's Transformation となったのですが、この変容、という
のが一番こだわったのが、どうしてもいい言葉がなく、最後にやはり一番最初に
出たこれだろう、ということになったのでした。
小学二年生から大学生まで、一人の子どもと付き合うと、こだわります。
もともと、どんな人に知り合っても、この人は子どものときどんな小学生だったんだろう、
どんな家族で育ったんだろう、お母さんやお父さんはどんな人で、どんな地域文化に
育ち、なんでこの人はこのように育ったんだろう、とついつい考えてしまう癖があります。
逆に、うちに来たばっかりの子どもたち、小学生にしても中学生にしても、この子たちは
どんな大人になるんだろう、人の役に立ったり頼られたりする人になるんだろうか、
今賢そうに見えても先々はたいしたことないのか、今反抗的で暴れているけれど
そのうちもっと要領よくなるのか、未知の世界。
自然に成長していくことはありえない、かならずその子を取り巻く環境が子どもを
つくっていく。それにまわりの大人たち、学校教育とか、地域の英語塾のおばさんである自分が
かかわることによって、子どもたちは確実に影響をうけます。望むと望まないにかかわらず。
びっくりするほど、ドラスティックに変わる。そして、それによって周りの大人たちも変わります。
そういうところを捉えたかったので、変容、という言葉に拘りました。
でも師匠も自分もとりあえずはすっきり納得してよかったです。
今日のレッスンも仕掛けはシンプルだったのに、なかなか、うまくいったような感じで
よかった。 既存の研究者のアイデアをお借りしたのですが、やはり先人が苦労して、
まとめ伝えて下さった知恵は借りるにこしたことはないですね。これからもどんどん
お借りしたいと思います。
2013年9月23日月曜日
徴兵制
他でも何度か書いているのですが、
表題の件についてどうしても納得できないのは、憲法改正、というならば、はっきり
徴兵制復活、戦争をするといえばいいじゃないですか、ということ。
そのうえで、日本の国民全体でそうしたいのか、したくないのか、自分が戦争に行くのか、自分の
身内を戦争に行かせるのか議論を尽くすべきだと思う。
目標は9条改正、ということならば。それをはっきり打ち出して、そのうえでそのために
数を確保しなくてはいけないから97条を改正することを検討しましょう、とそれが筋ではない
ですか???こんなごまかしのようなやり方ではなく。
選挙の前に、母親にも姑にも、自民党が徴兵制復活といっているけど、どうなん?と
たずねたら、どちらも賛成と言っていた。じゃあ、可愛い孫娘の将来夫となる人が
戦争に行ってもいいん??と聞くと、どうせ二年くらい訓練に行くだけでしょ、という
答えだった。その程度の認識、を抱かせる、政治的な戦略がうまくいっているということ
だろう。
先の戦争で苦労した人たちにしてこのあいまいさ。ふわふわとした議論の中に実は
すごい地雷が埋まっているのではないか、という懸念を少しも抱かないでいる。
ちなみに、今日のレッスンでたまたま、worst job という質問の答えが、医者だった。
へえ、なんで?と聞くと、人の血をみるのがこわい、という答えでそれからいろいろ
話すと、はだしのゲン、とか、火垂るの墓、とかを見たら、本当に気分が悪くなって
吐きそうで、耐えられない、と言っていた。
こんな繊細な子どもたちを、孫たちを、育てたのは自分たちなのに、段階的に適切にたくましく
育てることもなく、彼らを自分たちや国の楯として戦争に送るということを、本気で現実に考えて
いる老人や大人たちは想像力も何もないモンスターとしか思えない。
2013年9月22日日曜日
ヴィゴツキー「思考と言語」
「思考と言語」 新訳版 ヴィゴツキー著 柴田義松訳 新読書社
やっぱり基本に戻らなくては、と思ってこれを読んでいます。
先日の中間発表会で、みんなに質問を受けたのは、「矛盾」「人格」「発達段階」「語義」「意味」『表
象」などの重要なキーワードです。自分なりに理解している範囲で答えてその場はしのいだ
形はなんとかできたのですが、やっぱり自分の理解が浅すぎる。
活動が対象に向かっているということはどういうことなのか。
矛盾とはなにか。
表象とはなにか。
認識とはなにか。
存在とはなにか。
それぞれのことばには、ソクラテスやプラトンの時代からずっと偉い人たちが突き詰めて
考えてこられた哲学の歴史がこめられています。本当なら、全部把握して、そのうえで自分の
選ぶ言葉の定義を自分なりに決めなくてはいけない。
それと同時に、子どものちょっとした一言や瞬間の気づきに、その長い歴史が凝縮して
こめられているのです。それは、子どもたちと長年付き合っているうちに、鈍感な自分でも
わかっている。
すべてそれを、きちんと初めて読んだ人にもわかるように表現しなくてはいけない。
問題はそれだけではなく、
データ、データ、データ。録音をずっと聞いた結果、録音の書き起こしだけでは足りない、
ということがわかりました。ipadで自分の中間発表を録画して、家族に説明しているうちに、
やっぱり録画は避けられない、とやっと覚悟が付いたのがついさっき。
一応、保護者と本人には、文面で説明してあるものの、レッスンの録画なんてしてもいいんだろう
と思って腰がひける。でもやるしかない。録音は予備的観察だ、と自分に言い聞かせたので、
ビデオも予備的観察。
一か月ほど、録画に自分が慣れたら、リサーチクエスチョンにそった仕掛けをいよいよ考えないと
間に合わない。その仕掛けを考えたりするのって、もっとも苦手。
大学院以外の人付き合いや雑念は、二月まで必要最小限にとどめないと、誘惑に弱く、快楽主義
的で、気が散りがちな自分は集中できっこない。
とりあえず、この本の関連部分をじっくり読み解くこと、そしてレッスン部屋のごちゃごちゃしたのを
すっきりと片づける。まずできることから始めよう。
高台寺観月茶会
今日の講義はカントでした。立命館大学の北尾宏之先生。
わかりやすい平易な言葉で噛んで含めるような説明。多分いつも学生のレベルに
合わせて、難解なことを消化しやすいように心がけておられるんだろう、とお察しします。
その後、おつきあいで、高台寺で観月茶会。夜のお茶会は初めてです。
お月見の情緒がふんだんに盛り込まれたしつらえでした。
掛物 掬水月在手 掌にすくった水に月が映っている、と言う意味だそうです。
香合 赤とんぼ
茶器 秋草蒔絵棗 精密で豪華な蒔絵でした。
茶杓 古竹裏銀地スズ虫蒔絵 これが珍しく、自然にできた節の穴の下によく見ないとみれない
螺鈿の鈴虫の細工。
縁側にススキ、御団子、兎、そして特別あつらえの団扇。
観光客相手にしては、本格的に頑張っておられたと思います。そのあと、月がなかなか
出ないね、といいながら夜のお庭を案内されながら散策。お庭は素晴らしかったし、
風情のあるライトアップでも、満月のはずの月はどこへいったんだろうなあ、といいつつ
そぞろ歩いていると、闇夜の中で、山の端いと明るし、という白い光がぼうっと強いところが
あります。きっとあの下に月が、と言い合っていると、少しずつ少しずつ白い光が強くなって、
月がその姿を見せてきてくれたのでした。
カントの話はまた、ゆっくりと。
2013年9月20日金曜日
中間発表会を終えて
今、三冊並行して読んでいるのは、
「学びの心理学」 秋田喜代美 著
「授業研究と談話分析」 秋田喜代美 著
「授業における児童の聴くという行為に関する研究」 一柳智紀 著
三冊目の著書は、一、二冊目の秋田先生が指導された博士論文です。談話分析の参考書を探し
ていて、偶然に借りることができた二冊が師匠と弟子のものだった、というわけです。
師匠の本には、一柳先生のこの論文が何度か引用されていたりして、学問的なきずなと深い
信頼関係が伺われ、凡人にはうかがい知ることのできないうらやましいあらまほしい師弟の世界に
少し感動します。
秋田先生は、今回著作を読むのははじめてですが、なんで今まで読もうとしなかったんだろうと、
悔やまれます。「学びの心理学」は、その中核となるのは「ことば」です。
また、わかりやすく、質の高い授業と言うのはどういうものなのか、教室の談話について、生徒の
理解について、教師の成長について、色々な理論をひいて説明されています。教師という仕事を
されている方はきっと安心したり、実践についての示唆をたくさん読み取れることでしょう。ぜひ
時間をとってお読みになることをお勧めします。
さて、修論の中間発表会があっけなく終わりました。
構えて構えて、無理無理むりむり~、仲間の堂々とした発表を見て、だめだ、
自分は20分もしゃべれない、5分で終わる、その後の沈黙はどうしよう、と焦っていたら、PPT
が動かなく、皆がよってたかって助けてくれて20分近く修復にかかり、ほっとして話し始めたら、
緊張なんてありませんでした。
でもよくよく思い返してみたら、これまでの人生で人前で話す機会って沢山あったんです。
高校生の時の京都外大でのスピーチコンテスト、留学中、アメリカの小学校や自分の高校の講堂
で話したり、会社でも研修で発表したり、転職先で短い間だったけど上司として訓示をしたり、
司会や通訳したり、今のボランティア団体で司会したり、トーストマスターズで毎月英語の
即興スピーチしたり、なんか色々してました。
でもそんなことはすべて吹っ飛んでしまうほど、学問の世界は刺激的です。
こっそりいうと、こんなんでは物足りない、もっとやってみたい、という奇妙な気持ちがなんか、
昨日芽生えてきたのです。
奇妙なのは、同時にとても怯えているからです。先日、近しい院生ともその恐怖感を
分かちあったのですが、誰もやっていないことをやる怖さ、それは当たり前だろう、普通にやってい
ると言われそうな怖さ、でも、ちがうんです、実はこれは今までだれもやっていない、という
確信と不安。
なんだろう、今まで、こんな気持ちは感じたことがないんです。誰もやっていないことを
やることの不安、というのは。ものすごく新鮮です。
いや、とりあえず、次の目標は全国英語教育学会の投稿、10月末の〆切。叩かれてもいいし、
むしろ叩かれるために絶対に提出しないといけない。指導教官に恥だけはかかせないよう、
がんばります。
2013年9月16日月曜日
一歩前に出る
連休中にお立ち寄りいただき、ありがとうございます。台風の雨風も小休止しています。
とにかく、中間発表会のレジュメは作って、仲間に送りました。それだけでも緊張しました。
内容が充実していなくても、とにかく一歩前にでる。うじうじしている間に、行動する、
というのが、近年の自分のスタンスです。恥は大いにかくべし。ギャラリーのM1と学部生に少しで
もコメントをもらえたらありがたいのです。でもコメントを言うのもきっと勇気がいるだろうなあ。
これが終われば次は、英語教育学会の雑誌に寄稿するようにとはっぱをかけられているので、
それも頑張らないといけない。査読という制度があるらしく、査読者とのコミュニケーションが
すごく勉強になると聞いているし、先日のTESOL Quarterlyという専門雑誌の方もそうおっしゃって
おられました。
これもハードルが高く、英語はなんとか話せたり、メールは書けるものの、まともに英語で文章を
書いた機会がこれまでほぼなかったのです。大学院に入ってから、英語のレポートもいくつか
書きましたが、、まず、日本語ですら活字にできるような文章なども書いたことがない。学校の
校庭で鉄棒がかろうじてできるだけなのに、体操競技会に鉄棒で出場するようなものです。
でもとりあえず、一歩前に出る、少しでも行動する、恥はおおいにかくべし、ということで
やってみようと思います。
2013年9月14日土曜日
デカルト
今日は、待ちに待ったデカルトの「方法序説」についてでした。
今の高校の授業にはないと思うんですが、高三の時に一番大好きな授業は「倫理社会」
でした。それこそ、ソクラテス、プラトン、デカルト、カント、パスカル、とか
教科書も薄く、先生もあまり熱心でなく、同級生たちもあまり興味がなかったような。。
その中で、一人目をらんらんと輝かして授業を受けていました。パンセとか三木清とか
直ぐ本屋で手に入る安価な文庫本を夢中になって読んでいました。「方法序説」も
読んでみたと思います。たぶんほとんどわからなかったし、カントも読もうと頑張ったけど、
やっぱり高校生には無理でした。
それで憧れて京都の大学の文学部で哲学の勉強をしたいなあ、と思ったけど、学力が足りなくて
断念しました。
でも、若い時に勉強したいと思っていると、何かしら残るもんなんですね。
もう一つは、現代の諸悪の根源みたいに最近言われている二元論のデカルト君が
学問に誠実でいい人だったんだ、と思えてよかった。講義をされている先生がデカルトに愛情を
もっているのが伝わってきました。
研究対象に愛情があってこそ、信念も持てるし、地道な長い研究も可能になる。
そう教えてもらった一日でした。
2013年9月13日金曜日
中間発表会に向かって
19日の修論中間発表の準備で、仲間たちが続々レジュメをシェアしてきています。
内容への思い入れ、読み込んでいる文献の量、論の立てかた、洗練された文章、
形式の美しさ、何もかも秀逸のように自分には見えます。
20代半ばの時、いや、今までの人生でこんなものを産み出したことは、正直いって
皆無。資質のある学生をここまでにしたのは、やはり先生方であり、大学教育
なのでしょう。いやー、凄い!とばかり、言ってはいられない。
自分のレッスンのテープ起こしに膨大な時間がかかるので、疲れて院生室を出て、
久しぶりに一時間ほど図書館でゆっくり過ごしました。もう、あと、半年くらいしか
この図書館にもいられない。幸せすぎていつまでもいたかったです。
認識、認識、認識、と思っていたら、一冊の雑誌と目が合って、私を読みなさい、と言われたよう
な。。世界思想、という雑誌です。特集が認識のギャップをどう克服するか、というようなこと、
だったと思います。
その中の記事。
生田美智子(2013).「ギャップを超えた同期現象的認識」
「エトロフ島請負人であった彼は配下のアイヌとの交流の中で認識の
一緒にいること、
漂流した日本船の高田屋嘉兵衛が交渉の条件としたのは、ロシアの関係者といつも一緒にいるこ
と、それだけだったという、その流れを受けての彼の考えが上記の引用です。
人間って、友人であれ、仲間であれ、家族であれ、夫婦であれ、恋人であれ、いつも一緒にいて、
いつも話をして、一緒に何かをする、一緒にご飯を食べる、苦労する、というのが大事だという、
自分の経験則を裏付けてくれたような気がします。
さらに、同じ雑誌の中から。
村上靖彦 「看護における『見える』『シグナル』『わかんない』
「子どもの死という理解を超えたものに対して、
の死に直面しているということである。
必要があるのである。つまり、「
体をなす。「わかんない」
ことができる。」
研究上、この人について行きたいなあ、と思っている人が、同じ「わかんない」という言葉に
重きをおいて発表されているのを何度もお聞きしたのです。まったく別のフィールドで、
事の軽重はちがうにせよ、同じ方向をむいているのが、なんか、このまま進んでいって
いいんだよ、と言われたような気がしました。
2013年9月10日火曜日
ipad mini購入
今日もお立ち寄りいただきありがとうございます。
さてさて、ipad mini を入手しました。
まだ、使い方は全然わかりません。縦にしたら、縦になり、横にしたらくるっと横になるので
楽しいです。
先週、学会で前に座っている人が、これでしゃっしゃとスケジュールを見ながら効率よさそうに
動いてらっしゃったので、お聞きすると、電話できない携帯みたいなもんですよ、と
ポイントも使えますよ、と教えてもらったので決めました。
今日は、ひさびさに院生室の密度が濃かったので楽しかったです。修論の中間発表に
向けてM2の皆が緊張している、その動きを体感するだけで自分も頑張らなくては!と
思います。アフォーダンスであり、正統的周辺参加であり、社会的関係の中で発達する意識で
あり、まさに拡張する学習でもあり...。
若者たちの中で頑張っている、というと、同じじゃないですか、何も変わらないのに
予防線をはるのはやめてください、と言われそうなので、やめときます。
今日、読んでいるのは状況的アプローチ3「実践のエスノグラフィ」茂呂雄二編著 金子書房
読み始めるとやめられない。
10年以上も子どもたちと付き合ってきて、失敗も成功も含めて彼たち彼女たちと自分との
関係のなかに感じた手ごたえと直観を必ず一つの論文にして、一人でも読む人がいれば
英語教育に役に立つように少しでもなるはず。大海の一滴かもしれないけど、きっとできるはず。
そう信じて頑張ります。
2013年9月9日月曜日
「東洋的な見方」鈴木大拙
唐突に始めたブログですが、お立ち寄りいただき、ありがとうございます。
鈴木大拙の「東洋的な見方」を半分ぐらい読みました。
面白い。
父が金沢出身なのと、禅を英語で世界に広めた人、というので気になっていたのと、
お茶のお稽古を始めてその根本には禅があるというのと、諸々いつか勉強したい、と
思っていました。
解説を読むと、奥様がアメリカ人で、ご自身も27歳から10年以上
アメリカとヨーロッパで暮らして、英語は日常生活・生活世界の言葉のみならず、
「我と汝」の深い交流の心の言葉になった、ということです。
この本は、あちこちに書かれた随想を編纂したものです。「東洋性」というものは
日本人に生まれたからといって、必ずしも体現しているものではない、けれども
日本人の「心」には、妙というのものが宿っている、それを取り戻して世界の他の
人びとに広く知らせたい、という主張が随所にあります。
その東洋民族性の心理の奥底にある幽玄なもの、これは世界の至宝であり、世界の
人びとは、その霊性の上に新しいものを見ることになる、と同時に、著者は、安っぽい
感傷性の東洋的なるものは排斥し、欧米式の合理的なるものに置き換えるべきである、とも
言っています。
here and now, 「ただいま」「即今」アッというこの一瞬が実は無限なのだ、ということを悟るべきだ、
と、「空」ということがどういうことなのか、 「色即是空、空即是色」、0=∞、色々説明されていると、
なんとなく少しかすってくるようにも思えます。
また、時間と空間は分けてはならない、それは「一念」として一体なのだ、とも言います。
そして、西洋人の頭は二分性に根ざしている、五官に対する客観体がなくてはならない。神が
光あれと行ったときに、陰ができ、世界を二つに分けている。が、東洋はそれが分かれる前の
「渾然として」ある状態から踏み出す、というところで、少し驚きました。
というのは、このところ、デカルトの二元論から抜け出さなくては、というの、私に与えられた
英語教育の一つの課題であるからです。holisticに考える、活動を一つの単位として考える、
というのがなかなか自分にも人にもわかるように会得できない。
先日の立命館の日下部吉信先生の講義では、ずっと2000年も西洋を支配してきた
アリストテレスの哲学は17世紀のデカルト哲学の出現で解放された、とおっしゃっていました。
ところが、アリストテレスは普遍を個物から切り離して、それだけで存在すると想定するのは不合理
と考えているそうです。それで、12世紀にアリストテレス哲学がパリに出現した折に、神による
世界の無からの創造というキリスト教の信仰箇条に矛盾するので、大騒ぎになったということなの
です。
単純に考えてはいけないのかもしれませんが、時空を超えて、似たような世界観があったのだ、
というふうに考えてしまいます。
しかも、これにロシア語の概念もからめるとなると、話はどんどん広がっていくばかりで、収拾が
つかなくなってしまう。けれども、子どもをその真ん中に置いてみると、子どもたちを中心に考えると
そこにすべてが収斂していくような気もします。
どうなることやら。
ri
2013年9月8日日曜日
JACET国際大会
JACET国際大会の感想文がなかなか書けなくて一週間たってしまいました。充実した三日間でし
た。大学英語教育学会なので、門外漢(いつも)ながら、参加の先生方を横目にみつつ、
圧倒されつつ、楽しんでいました。招待講演ではとくに英文学については、学部レベルの知識しか
ないしイギリス英語苦手なので、先生方が反応されるたびに凄いなあ、みんなこれわかってるんだ
(当たり前です!)と独り言ちておりました。
もうあちこちの先生方のブログで報告されているので、新鮮味もなくなっているのですが、
個人的には、
シンポジウムで「国内関連学会代表者からの英語教育への提言」と
それをうけて翌日の「国内英語教育学会長によるこれからの英語教育のあり方
―Session 1 の提言を受けて」 に一番興味がありました。
内容はこちら↓
http://www.jacet.org/2013convention/index.html
なぜ興味があるのかというと、1.小学校英語の教科化について、専門家の間で意見が
真っ二つに分かれているということが不思議であり、かつ心配。この「業界」でなんとか統一見解が
出ないものだろうか、と思ったのと、2.なぜここまで政治家にやりたい放題されているのか、
これだけたくさん学会があって発表があり、知見が積み重ねられて、現場では頑張っているのに、
学者の先生方は本気で行動を起こす気があるのか、ということを見極めたかった(すみません、素
人が)ということです。
1.については、明海大の大津先生が、今問題になっている三論点「小学校英語の教科化」「英語
の授業は英語で」「大学入試にTOEFL」のすべてについて提言するのか、と明快に質問して
くださり、それについては、とりあえずはじめてのことでもあり、急務であるTOEFLの問題だけに
絞る、ということでした。
2.については、大会のぎりぎり終わりに、4学会合同でされる提言をPPTで説明されましたが、
タイトルに提言の「可能性」というのがついてましたし、それについて質問も一切されないように
PPTを出して、はい、これで終わります、という運びだったので、これからなのか、という印象。
あまり力強い感じではありませんでした。でもぜひぜひ頑張っていただきたいと思います。
TESOL Quarterlyの副編集長が
いらしてたので、そのセッションのメモのみ、貼りつけます。興味ある方はどうぞ。
http://www.evernote.com/shard/s312/sh/03aa3399-928f-44a2-9bec-ca1572c37e96/02716991aa05c178e263b4706b9e56fd
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アリストテレスの形而上学
立命館大学で、土曜講座「アリストテレスの形而上学」を拝聴しました。
こんな硬いテーマなのに、100名ほどの講義室に人がぎっしり。立ち見も出るくらい。
殆どが60~70代の年配の男性、なかにちらほら学生らしい若い子や女性がいた。
レジュメも字がびっしりで、一般向けの講座とは思えない難解で濃い内容でした。それなのに、
うつらうつらしている人はまずなく、皆さん、眉根にしわを寄せつつもレジュメを見ながら、
熱心に聞いていらっしゃいます。あとから飛び出した質問も、専門的な内容もあり、
なんかちょっとびっくりしました。こんな時代で哲学書が売れているとは聞いていましたが。
講義のちらしに書いてあったのか、経済ではなく、世界をつくっているのは哲学だ、
というのは、どういう意味でしょうか、と戸惑い気味の質問が最後でした。それに対する答えは、
教育に携わっている人たちが先日のJACET国際大会で問題にしていたこと、と
同じ、でした。いわずとしれた、グローバリゼーションへの警鐘です。
修論のための読書をしていると、どうしても西洋哲学の一般常識が、それもアリストテレスは
はずせないので、参加させていただいたのですが、哲学の先生もたたかっておられるのだなあ、
と思わぬ拾いものをしたような気がしました。
なんか、余韻で、前から読もうとおもっていた福沢諭吉の「学問のすすめ」と鈴木大拙の「東洋的な
見方」を京都駅で買ってしまいました。あ~、根底ではつながっていると思うものの、また修論の
テーマからはずれていく!
それと、あまりにも集中力がないので、色々と好きなものをあきらめることにしました。特に日本
酒。9月の中間発表までではなく、修論書き終えるまでです。誰からも信用されてませんが。
ri
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