いつもの会話のレッスンの準備をしてきたら、
だいぶ遅れて息せき切ってやってきた生徒。
塾の宿題が、なに言うてるかぜんぜんわからんねん、
と出したプリント。
「例にならって」「絵を見て」「日本文を」
「英文に」「書き換えなさい」という類の問題文がまず、
何を言っているかわからない。
そういう問題になれたものにはわかるんだけれど、
彼女には「例」「絵」「日本文」「英文」の対応関係が
わからない。
まさにヴィゴツキーのいう「生活的概念」と「科学的概念」
のギャップ。
自分が小学校にあがって一年生のときに「一と一は」という
算数の問題がまるっきり理解できなかったのを
想い出しました。
しかも、問題をただコピーして出す側には、問題文が
わかることを前提にしているので、子供の目線に降りて
行く気もない。
彼女はある程度英語になじんでいるので、I am とI'mの違いも
わかっているし、省略形という概念もわかる。英語と言うのは
人がしゃべって使っている言葉なので、こういうのは規則を
教えているだけだから、ふつう使わないことばもルールとして
覚えておかないとあかんねんで、というと、なるほど、とわかる。
一生懸命勉強していた友達が、塾のクラス分けで下のクラスに
なって泣いていた、といってました。それは、白紙から自分だけで
文法を勉強して理解しようとして普通にわかるわけがない。
そうやってがんばってもわからないので、幼いころから英語がきらいになっていく。
何もわからない子供に、文法だけを押し付ける教え方は暴力的だと
いつも思います。それは教える方の怠慢に他ならない。
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