2014年5月22日木曜日

言葉と概念について

かなり色々気になったので、言葉と概念についてのみ抜粋しながら考えてみました。


 
新訳版 思考と言語 2001.ヴィゴツキー著 柴田義松訳 新読書社
 

 
p23
本当に理解と伝達は、私が私の体験していることを一般化し、名づけることができるとき、すなわち、私の体験している寒いという感情を、
私の相手も知っている一定の種類の状態に関係つけることができるときにのみ、行われるであろう。それだから、まだ一定の一般化という
ものをなし得ない子どもには、すべてのものが伝達不能なのである。

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(これは子どもに限らず、日本語を第二言語としている外国人にもあてはまるし、拡げて考えれば同じ言語を話すもの同士でも、例えば、身内の死、を経験した人には伝達できても、経験していない人には伝達できない、ということにつながっていくような気がする。飛躍しすぎだろうか?なぜ、ある人には伝わり、別の人には伝わらないのか、ということが知りたいし、伝達不能、というのはそれほどに絶望的なことなのか?「活動」によって、第二言語の文化のある経験「いただきます」「よろしくお願いします」の概念、とか、人の気持ちの擬似体験をすることで、伝達できる素地ができていくのか)


 このばあい問題は、適当な単語や音の不足にあるのではない。適当な概念や一般化が不足しているのであり、これらなしには理解は
不可能なのだ。トルストイが言っているように、たいていのばあいは、言葉そのものではなくて、言葉によって表わされる概念が理解されないのである
 
(←まさに、そうだと思う、「活動」は概念を理解させることができるのか、この場合概念と表象とは同じなのか?)
 
 
概念があるばあいは、たいてい言葉もある。したがって、言葉の意味を、思考とことばとの統一(傍点)としてだけではなく、一般化とコミュニケーションとの統一(傍点)、コミュニケーションと思考との統一として見ることには、十分な根拠がある。

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