2014年5月31日土曜日

Identity and interaction: a sociocultural linguistic approach

なんとかとりあえず、ヴィゴツキー関連の学会誌への投稿を昨夜済ませました。

内容もともかく、フォントとか、行間とか、レイアウトとか、全角半角とか
そういったこと全て苦手です。投稿はしたものの、編集される偉い先生方に
これからどれだけご迷惑をおかけするかと思うと、身が縮むおもいです。
査読も指摘いただけるとか。先生方、本当にお目汚しで貴重なお時間を
申し訳ございません。。。

でも、どれだけ想いが熱くても、直感や経験則で確信があっても、
この学問分野と、研究者のコミュニティでの表現の法則に慣れないと、
言いたいことは全く伝わるはずもありません。

まず、そこを何とかしなくっちゃ。

少しずつ周りの人たちにも慣れ、自分の存在にも慣れてきてもらいつつあります。

周りの人たちは、アイデンティティに関心のある人がおおいです。

ということで、表題の論文。著者は、Mary Bucholtz, Kira Hall(2005). Discourse Studies.
Vol 7(4-5):585-614. SAGE Publications

面白そう。

アブストラクトには、言語上のインタラクションで産出されるアイデンティティの分析の枠組みを提案するとあります。

次の水曜日の授業までに読むことになっています。がんばろう。

その次の授業で読む論文を今日までに先生に提案するように、ということなので
3本ほど探して持っていきました。どれが採用されるか、お楽しみ。




2014年5月29日木曜日

大学授業開発論

日本語英語合わせて毎週100ページ近い論文を読まなくてはならない

専門の授業の合間、表題の授業をとっています。


大学時代に教職科目を一切とっていず、免許もなく、自宅塾と

英会話学校で教えた経験しかないので、とりあえず、ちゃんと

教師の訓練を受けないと、と思っていたところポスターで今年から

あると知ったので飛びつきました。


これが、かつて勤めていた航空会社の研修とか今お世話になっている

留学団体の海外研修の類の、ディスカッションやプロジェクト、など

満載の自分の大好きな形式の授業。


殺人的な専門の院(しかも博士前期課程つまり修士課程)の授業のあいまの

癒しになっています。癒しの授業とはいえ、課題が多くてたいへんなのはたいへん。


書評とか、シラバスとか、グラフィックシラバスとか、授業計画とか

生まれてはじめて書きました。それをスクリーンで大写しにされて、たたかれること

たたかれること、でも面白い。隣のトルコ人の女子留学生もアクティブで

元気。なんか見たことがあるなあ、と思ったら、院生室であの子は

あちこちに顔を出していてテレビにもよく出ているんですよ、と言っていた。

来月、授業終わった後にトルコ料理をその子が企画して食べにいくらしいです。

行ければいいなあ、それまでに色々仕上げないと。


明後日締め切りの、某V学協会の査読付き学術雑誌への投稿へのプレッシャーが。。。

修論の内容に、習ったばかりの会話分析のデータも追加して提出するつもりなんですが、

自信のないこと甚だしい。


でもなんとか、明日中には形にしようと思います。落とされても、出したことに

意義があるはず。月並みですが、失敗は成功のもと!






2014年5月22日木曜日

言葉と概念について

かなり色々気になったので、言葉と概念についてのみ抜粋しながら考えてみました。


 
新訳版 思考と言語 2001.ヴィゴツキー著 柴田義松訳 新読書社
 

 
p23
本当に理解と伝達は、私が私の体験していることを一般化し、名づけることができるとき、すなわち、私の体験している寒いという感情を、
私の相手も知っている一定の種類の状態に関係つけることができるときにのみ、行われるであろう。それだから、まだ一定の一般化という
ものをなし得ない子どもには、すべてのものが伝達不能なのである。

          ↑

(これは子どもに限らず、日本語を第二言語としている外国人にもあてはまるし、拡げて考えれば同じ言語を話すもの同士でも、例えば、身内の死、を経験した人には伝達できても、経験していない人には伝達できない、ということにつながっていくような気がする。飛躍しすぎだろうか?なぜ、ある人には伝わり、別の人には伝わらないのか、ということが知りたいし、伝達不能、というのはそれほどに絶望的なことなのか?「活動」によって、第二言語の文化のある経験「いただきます」「よろしくお願いします」の概念、とか、人の気持ちの擬似体験をすることで、伝達できる素地ができていくのか)


 このばあい問題は、適当な単語や音の不足にあるのではない。適当な概念や一般化が不足しているのであり、これらなしには理解は
不可能なのだ。トルストイが言っているように、たいていのばあいは、言葉そのものではなくて、言葉によって表わされる概念が理解されないのである
 
(←まさに、そうだと思う、「活動」は概念を理解させることができるのか、この場合概念と表象とは同じなのか?)
 
 
概念があるばあいは、たいてい言葉もある。したがって、言葉の意味を、思考とことばとの統一(傍点)としてだけではなく、一般化とコミュニケーションとの統一(傍点)、コミュニケーションと思考との統一として見ることには、十分な根拠がある。

2014年5月18日日曜日

クリステヴァ 続きの続き

 やらないといけないことをほったらかして一日中読んでいました。何もしないで

家でひっくり返って本に読みふけっていた幸せな子供時代を思い出します。

 
 
 

 夜にレッスンに来た高1の生徒君も、科学が大好きで、高校の今のクラスで勉強も

クラブも、友達関係もすべてが充実しているらしく、その輝きが眩しいです。今日、

学校から行った研修で、「木」というものを科学として見れるとは思わなかった、と

英語と日本語で熱心に話してくれました。学問は、年齢問わず、人を輝かせるんですね。



 以下、今日のクリステヴァ。もうこれ以上耽っていたら、今週しないといけないことができない

ので、この辺で彼女とはいったん打ち止めにします。


 
 
 
 
 
クリステヴァは近代言語学の限界を画定 諸理論は一致して言語を厳密に「形式的な」対象とみなしている
「言語外の事象」という厄介な問いを取り除いて成り立っている

言語外的事象に取り組む潮流が二つ
第一 「記号の恣意性」の原理をめぐるもの 
    フロイトの無意識理論に基盤をおく、有縁的であるように見える意味体系を検討する言語学的傾向
    イワン・フォギナーの音声理論
第二 言語理論の形式性事態に記号過程の重層性を導入するもの
   現象学者フッサールとエミール・バンヴェストに由来
   さまざまな言表行為にかんして、その主体を想定するという立場

前者をル・セミオティック、と呼び、
後者をル・サンボリックと呼ぶことを提唱 
「この二潮流は同じ一つの意味生成過程の二つの様態」
二律背反や二項対立ではない

ル・サンボリック←フェノ=テクストを拡大 論理的意味作用、述語作用、ラング、恣意性と差異に裏打ちされた記号および記号体系の次元
ル・セミオティック←ジェノ=テクストを発展 ル・サンボリックの母体・基盤 非表現的な仮初めの文節がおこなわれる身体的欲動の場

間テクスト性、パラグラムの概念と突き合わせて考えると上記二つの関係が理解しやすくなる

語る人間によって引き受けられたものとしての言語、すなわちディスクールという枠をもちいて考えを
練りなおし、また間主体性(間主観性)という条件のもので考えを練りなおす

言表行為は、どのような形であるにせよ、つねに言表の内部にしるしづけられている

「ひとが自己を主体として確立するのは、まさしく言語活動において、また言語活動によってである。・・・
主体性とは、各自が自分自身であると感じる感情によってではなく、心的統一性によって・・・」

「ディスクールの裂け目」言術の裂け目にひそんでいる主体ならざるもの

ディスクールのなかには、コミュニケーションのレヴェルでの他者のみならず、無意識に由来する
「無政府的な力」としての他者が貫入して「ディスクールの裂け目」をつくりだし、そこに
「別の言語活動」「別のディスクール」を出現させることがあり、それが精神分析の場における分析主体
と分析者との対話を特徴づける事態であるというバンヴェニストの指摘

 
p119 <語る主体>と<コーラ>

<語る主体>についての問い直し

理性中心主義 神の荷姿として把握された人間の肖像が理性
この理性的主体は人間の全体像ではない

執拗に狂気を社会から排除しようとしてきた近代の知
未開人とされる異民族にたいして、近代西欧がおこなった苛烈をきわめる制圧と同化策

フロイトによる無意識の発見 理性的主体の背後の広大な無意識の領野

構造主義は、理性的な近代的主体を無傷のまま構造の背後に温存

シンボル秩序を創始する定立的契機の相対物とみなせる二つの出来事
ひとつは供犠
もう一つは供犠に先立つ歌謡・舞踏・演劇



フッサール 意味と意味作用をめぐる純粋意識の体験を分析、記述
意識とはつねに何者かの意識 意識作用(ノエシス)は意識内容(ノエマ)を志向

この志向作用の繰り返しが、ノエマの核としての対称の措定を可能にし、それはやがて
命題のなかでの対象あるいは意味の措定となる

指向対象を表象し意味する記号の成立、判断や信念を表現する命題の意味作用の成立、
それらの成立は、悟性の主体がすでに措定されていることをしめす

純粋意識すなわち超越論的自我としての主体は、命題の意味作用の主体として措定

対象を定立する命題の意味作用は、意味作用の主体、判断の主体の定立を逆照射
自我は対象に即して、定立される

<語る主体>は、語る行為において、語る行為によって、統一的なものとして定立される

クリステヴァは、フッサールの問題意識をいわば逆転
操作する意識、判断する自我がそもそもの出発点
「いかにして、この操作する意識がみずからを措定するにいたりえたのだろうか。」
操作する意識、産みだす意識ではなく、「産みだされうる意識」


プラトンの「ティマイオス」に出てくるコーラ
母―「生成するものが、それのなかで生成するところの、当のもの」

父ー似せられるもとのもの
子―生成するもの

プラトンのコーラを自身の理論のなかに組み込むことによって、父なる神的な秩序と統一を
決定的に重視する西洋思想のなかで顧みられることのなかった、この母なるコーラを復活

セミオティックなコーラからル・サンボリックへとまたがる全過程―これが、意味生成過程の上に<語る主体>を位置づける


p135  意味生成の過程ー係争と対話

主体も意味も、つねに崩壊と再生性の可能性を有し、またじっさいに、部分的にせよ崩壊と再生成を
おこなっている

ル・セミオティックからル・サンボリックへ、そしてまたル・セミオティックへと循環する意味生成過程は、
終了することのない無限の回路

語る主体と意味と意味作用の定立的性格 そのうえで、定立的性格を産出すると同時にそれを逸脱し、それを
変形させる異質な他者の様態をみきわめようとする、訴訟・係争としての意味生成過程、過程にある係争中の主体

p145  意味生成の過程ー欲動と意味定立

セミオティックなコーラにおいて働く、意味をなさない欲動と、意味をなす言語とは、意味生成過程のなかで
どのように接しているのか

語る主体とその対象が措定され、記号が生まれ、定立的な意味作用が開始される地点では、どのようなことが
起こっているのか

定立段階あるいは定位相phase thetique=定位を生み出すこの断絶をなす接合点

フロイトの去勢理論と原父殺し神話
ラカンの鏡像段階

70年代半ば クリステヴァははじめて幼児言語の分析と幼児精神分析に取り組む

ル・セミオティックがル・サンボリックの母胎でありながら、同時にル・サンボリックを攪乱し、
破壊する攻撃者であるというその共時相のありさまが、もっともわかりやすいかたちで目にみえる
ものとなって我われのまえに供されるのが芸術という活動

言語芸術であるテクストは、定立相とその相関者たる剰余の快楽との混合の具合のさまざまな様相を描き出す


芸術的実践やテクスト、詩的言語―定立とその侵犯が描き出す症状を、伝達可能なあらたな意味生成装置の構成へとつなげることのできる回路

治療の場における精神分析―定立を侵犯するセミオティックな欲動がもたらす症状を除去し、乱調を鎮め、治癒させる方向。危殆に瀕している定立相を強化することがその使命


p168  否定性と多数のロゴス

意味生成性の過程(プロセ)で働く力を、クリステヴァは否定性においてとらえる

運動発展の推進力、いっさいの自己運動のもっとも内的な源泉であるとされるもの

すべてのものの内部にある自己矛盾から発する否定性の運動は、定立を産みだす運動の原理となり、
その意味では根源的な肯定性(措定性)としても考えられる

否定性という観念はもともとヘーゲルのもの

『詩的言語の革命』『ポリローグ』において、ヘーゲル弁証法の否定性をフロイトの無意識と欲動の理論によって
唯物論化するという道筋がしめされる

導入されるのはフロイトの<否定・否認>や<死の欲動>の理論

フロイトの否定の多義性

ラカン「主体内への取り入れと主体外への放逐」に注目

棄却Verwerfung,外部に放擲して象徴化されないものを産みだすもの、それが否定性

意味生成の実践の四つの類型

語り―神話や叙事詩、それらの代用としての演劇・映画や小説、ジャーナリズム、私あるいは作者という軸点の上に中心化

メタ言語―実証哲学やもろもろの科学の言述 当然デカルト的主体、意味体系の外に位置して姿をけし、それによってシンボル体系を保証

観想(テオリア)―宗教、哲学、哲学の脱構築などのジャンルを含む意味体系、物質性、外部、社会性、矛盾が欠如、欲動は空洞化

テクスト―いいかえれば詩的言語、欲動の二項性は交互に浮上、終わることがない、欲動のリズムが主体を定位させるが、主体を突き抜けてもゆく、変革の空間

「なんであれ生産や労働のプロセ(過程)は、テクストの意味生成のプロセとおなじ性格をわかちもっている」


テクスト的実践における主体―反復する多数回の欲動的・物質的棄却の否定性によって生みだされた主体
日常言語においてアプリオリに前提されている一者的主体―一時的停滞の産物にすぎない

テクスト上においては、定立的意識の主体とその主体が操作する単一論理(モノロゴス)的意味作用は、つねにすでに
他者の否定性によって破壊され、分断されている

他者―言語の外部、意識にたいする無意識、身体的欲動、自己同一的なエクリチュールの成立をゆるさないレクチュールの介入、
   先行するもろもろのテクスト、別の記号象徴体系、主体と言語を取り巻く歴史的・社会的状況

ポリロゴス(多数の原理)
同一者の自己同一的論理と他者の異質的論理のあいだの対話(ディアロゴス)として、つねに間テクスト性を刻印されているテクスト
この対話によって実際にはすでに多数化=粉砕され、脱権力化されているル・サンボリックの単一論理的権力


p200  幼児言語と詩的言語


p215 <母>なるものをめぐって

p216  政治の季節から内的体験へ

p232  アブジェクシオンー母なるおぞましきもの

p276  愛の空間

p304 愛の裏面としてのメランコリー

p337 意味生成とつながった新しいフェミニズム

p338記号論から女性論へ

p342 アイオーンー女の時間

p358 母性から女性をとらえる

p369 90年代のクリステヴァ

2014年5月17日土曜日

現代思想の冒険者たち クリステヴァ 続き 

雑事に振り回されて思うように行かない日々のなかやっと今日は12時間ほど大学に
滞在できました。

授業の30分前に到着して、爽やかな風に吹かれながらテラスで必死で

文献を読んでいると、木々の向うから胡弓のエキゾチックな音色。

中国人の留学生が練習しているんでしょうか。ほんとに国際色豊かな

大学に変身しました。


すごいんです。通学途中では、韓国語の携帯の会話が聞こえてくるし、

テラスが風が強くてカフェテリアに入ると、スカイプで日本人の女子学生が

そう方向で流暢な英語で楽しそうに話してる。夜図書館のカフェコーナーで

勉強していると、白人の女性二人がドイツ語でひそひそとゴシップ(きっと!)

きわめつけは図書館のトイレに入ると、聞いたこともない言葉で二人

女の子が盛り上がって話しているのが聞こえる。きっと恋愛話だ!(妄想)

顔をちらっとみると、トルコ人かなあ、と思いました。

言語文化研究科の院生も半分は中国人か、韓国人、他のアジアの人。


まさか、こんなキャンパスなんて想像もしていませんでした。



まあ、とりあえず、やっと集中して読めたクリステヴァです。まだ途中ですが、

昨日の指導教官の本から、記号と信号の違いについてうまく説明できたのと、

今日、仲良くしているM1さんから第二章のソシュールがわからないので、

一緒に読んで下さい!と言われて助けてあげたらまた感謝されたので、

その勢いで。

こんな感じで、メモとりました。興味のある方どぞ。

↓↓↓



p32 新しい記号学の創出をめざして


記号にはさまざまな種類

典型的には、日常言語のようなシンボル的記号

非言語的な記号の存在は、はるかに広大な領域

意味される内容 ー所記、シニフィエ
音響や形象といった知覚可能な意味するものー能記、シニフィアン
を表裏一体のものとして有している事象はすべて記号


「木」という日本語の単語  
聴覚的音声ki、四画の漢字木、ひらがなのき、カタカナ のキ、がシニフィアン

黒一色の服装ーシニフィアン、死がシニフィエ


ソシュールの功績は、記号の体系を「差異の体系」として確立したこと

記号の体系は物質的外界から切り離された、閉ざされた構造、記号の意味作用は構造の内部の差異がもたらす現象

クリステヴァの構造主義乗り越えの戦略は、記号の閉域的構造の静態的把握であった構造主義的方法を、<構造>とその<外部>ないし<他者>との関係性の把握、<構造>の生成や変化の把捉へと動態化
シーニュ記号signeおよびその作用signification(意味作用)を構造とは異質の外部の現実との関係において捉えなおすこと

博士論文「テクストとしての小説」記号学を研究手段とし、研究対象を小説に設定
冒頭の問いかけ 言語学のみの内部で言語学の操作モデルを用いることで、一般記号学を構築することは可能なのだろうか?コミュニケーションの図式だけに閉じこもった言語学では説明することのできない<意味の生産>の過程をいかにして説明したらよいか。?

ソシュール的な立場 シニフィアンとシニフィエとの関係、記号と概念との関係は一対一対応、二分法的構造

彼女はどちらでもないような対象を想定、現代言語学や記号論的諸科学の手法から着想、彼女の記号論的方法に変換を試みる

彼女独自の<テクスト>という概念をたてることでこたえの方向を示す

ラングを基に構築されていながら、ラングの範疇には還元しえない実践

超出=言語学transfer linguistics

テクストはラングを用い、ラングの立場に位置しながらも、ラングの秩序を再配分して、あらたな意味を生産する、超出=言語学的装置



<間テクスト性><相互テクスト性>  バフチンの文学理論を基礎にし、さらに拡大するかたちで構築した、クリステヴァ独特のテクスト概念



p41  テクストの学としての記号分析学としての(セマナリーズ)

記号分析ないしは記号分析学la semanalyse
従来のLa semiologie記号学ないし記号論la semiotiqueに対して

マルクスがおこなった交換システムの批判的考察は、労働というものを交換の価値の外部で、つまり商品となる手前でとらえることのできるような、別の空間を思い描く可能性を切り開くのではないか


労働の所産から労働そのものへ、生産物の交換(意味の伝達)から生産(意味の産出)へという記号研究の横断的な超出
<意味生成性>signifiance 

生産とみなされるテクストを語る場合に、テクストを「文学」や「言葉パロール」という概念から区別するために、<エクリチュール>という用語を採用

バルト、デリダ、ソレルス

クリステヴァが有効とみなしている方法論の一つに精神分析学がある
 ラカンのセミネール
フロイトの夢判断

p56 意味生成の現場

ジェノ=テクストとフェノ=テクスト

<間テクスト性>「いかなるテクストも、さまざまな引用のモザイクとして形成されており、すべてのテクストは他のテクストの吸収であり、変形にほかならない」
あくまでテクストのシニフィアンに注目、テクストと他のテクストとの関係、ひいてはテクストと他者との関係の把握をめざす   バフチンの「対立するものの併存アンビヴァランス」という原理に要約

哲学でいわれる間主観性intersubjectiviteの観念をテクストの平面に移動させたものが、間テクスト性intertexualite

Negativite否定性

ソシュールのパラグラム    アナグラム研究からも影響 パラグラマティスム

p97  意味を生成させる欲動

p98 ル・サンボリックとル・セミオティック
「詩的言語の革命ー十九世紀の前衛、ロートレアモンとマラルメ」1974

テクストの内部に身体としての外部(接しているレヴェルがル セミオティック)と、歴史や社会やイデオロギーとしての外部( 結びつくレヴェルがル サンボリック)が流入

バンヴェニスト 言述ディスクールの言語学の提唱者、「一般言語学の諸問題」の著者

ひとはみずからの主体性を、言語活動の、ディスクールの主体として措定するのであって、それ以外のところに主体を基礎づけるものはない







2014年5月15日木曜日

第二言語教育におけるバフチン的視点 発表

第一章の発表は、自分では快心の出来でした。


聞いている院生たちの反応も良かったし、先生からもよく読めていた、

と一言いただけてよかったです。授業のあと、コンピュータ室や廊下で

逢った院生たちに、本を読んだだけではさっぱり分からなかったけど、

すごく分かり易かったと言ってもらえて嬉しかった〜。タイの優秀な

D3さんに二年間バフチンの講義を受けたが理解できなかったのに、

今日の授業でやっと分かりました、ありがとうございました、と言われて

みんな社交辞令で言っているわけではないんだと。


バフチンという人の一般的なイメージとか、交通とかイデオロギーとか

ふつうに聞くと誤解してしまいそうな用語を噛み砕いてインターアクティブに

説明を心がけたのがよかったみたいです。

質問も沢山でたし、やっぱりいいテクストはパワーがあるもんだと思いました。


いつも、修論をあちこちで発表しては、硬直されて何もいうことがない、

というのとはえらいちがいです。こういうパワフルな言説をめざさなくてはいけない。








京都で師匠にさんざん教えて頂いたおかげだな〜としみじみ。

テレビについて

色々あって、二か月足らず、あまり、テレビを見ていませんでした。

やっと最近復活。


でも時計代わりに、ニュースくらい。 手持無沙汰の時、仕事が終わってほっとしたいとき、

テレビをつけても、ことごとく面白くないのです。テレビで見たいものは色々あります。


好きなお笑い芸人とか、お気に入りのジャニーズのグループとか、本や芸術や

文学をわかりやすく紹介してくれる番組とか、見たいものはたくさんあるんです。

NHKが気に入ったものが多いけれど、民放もセンスのいい番組を作っていて、

たまに行き当たったら、大喜びで見るんです。


でもなぜか、見たい時に見たいものがみれないし、お気に入りの人がその人

本来の良さがでないようなことをやらされている。


新聞もそうだし、マスコミ全般、本屋も、インターネットのメジャーなサイトも

ことごとくそうなんです。本物だとおもったとたんに、すべてが偽物に

なってしまう。


後はもうアカデミックな世界しか行きたいところはない感じです。

もうひとつは、現実の世界で、これまでの人生経験をよりどころにそういう

虚構、偽物を相手に、できるだけ自分が本物と思うものを応援していく

というか、啓蒙していくしかないのかな、と。


それもなかなか面白い生き方だと思います。長く生きてそれを精いっぱいやって

やってやりつくして故人のようにぱん!とこの世を去って、

もし会えることがあったなら、貴方が去ってしまった後、しんどかったけどその後ずっと

がんばったよ、見ててくれた?、なかなか頑張ったやろ?と、言いたいな、と思ったりします。

2014年5月11日日曜日

第二言語教育におけるバフチン的視点


来週からこの本を一章ずつ読んで発表するように、ということで背景知識とかいろいろあるので、
一発目、第1章をやってください、と、ご指名いただきました。

第1章 言語へのバフチンの基本的視点
第2章 抽象的客観主義批判から発話の言語論へ
第3章 人間の主観的心理
第4章 ヴィゴツキー心理学から見た第二言語の習得
第5章 ことばのジャンルと言語の習得
第6章 言語活動従事に関与している知識は何か
第7章 形象世界における自己創作
第8章 対話と対話原理
第9章 基礎日本語の学習と教育における自己と言語
第10章 母語話者による第二言語者の語りの支援
第11章 結論


レジュメもつくらなくていいし、自分はこう思いますが、みなさんはどうですか、と
問いかけて授業をすすめるだけでいいということですが、第1章だけ読み込んでも
やっぱり難解すぎて、わけがわからないし、先生の講演も何回も拝聴しているにも
かかわらず、自分のことばで説明できる自信がありません。

修論でレオンチェフの活動理論は書いたにもかかわらず、ほんの一部しか、それも自分の
直観と合う部分しか書けなかった。ヴィゴツキーに至ってはほんの少しかすっている程度。
バフチンなんてとんでもない。

前回、日本語教育の理解について発表した人が上手かったので、どうしたらいいですか、とお聞きすると
とりあえず、本の構造とその章の構造を理解して、それを説明するようにしました、と教えてもらいました。

そう思って読むと、7章で1~6章がまとめられていて、8章でエッセンスがわかったような気が
します。

それを踏まえて、日本語教育のテキストとカリキュラムの作成、という重要な実践に
つながっていったんだということがよくわかりました。西口先生すごいです。

バフチンは、発話を教えるということはことばのジャンルを教えるということを
言っている。

読み進めると自分の直観と実践もまんざらではない、と勇気づけられた気がしました。

今日のレッスンも、一時間、頑張って、生徒二人と自分としゃべり抜いて彼たちも
よくやってくれています。


金曜日の会話分析の授業でも、理論ありきではいけない、データからすべてを始めないと
いけない、貴女はなぜ、そう思ったのですが、今までの人生経験からそう解釈したんでしょう、
それでいいんです、と散々悩んだことを先生もよくわかって下さって、ありがたいと思いました。

悩んで悩んで出した研究計画は、こんなものは博論のスケールではない、期待して
いましたが…もっと、三年を見据えた幅広い読書をしてください、と指導教官には
言われてしまいました。

もっともっと勉強しないと。勉強だけでなく、研究者として自律しないと。

2014年5月5日月曜日

日本語教授法の理解について

指導教官の専門が日本語教授法で、応用言語学研究という修士課程の授業もそれが中心と

なっています。これが英語教育にも通じる話でなかなか面白いんです。

授業のレポートを翌週に出すことが毎回の課題になっています。


ご覧になっているみなさんの何かのご参考までに、自分のレポートを二回分まとめてアップします。

テキストは、西口光一、1995、日本語教師トレーニングマニュアル4 「日本語教授法を理解する本ー歴史と理論編」 バベルプレス 


日本語教育の歴史は大きく4つの時期に分かれる。1.戦前戦中は、オーソドックスな教授法はまだ確立していなかったが、長沼直兄の実践は行われていたが、広く普及はしていなかった。2.戦後から1980年頃まで「直接法」が伝統的な日本語教授法として本当の方法だとみなされていた。3.1980年頃から1990年頃まで、英語教育に普及したCommunicative Language Teachingの影響を受けたさまざまな試みが行われた。4.1990年頃から現在まで、Audiolingualism, 直接法、コミュニカティブアプローチからさまざまなものを引き継いたが、原理がないドグマだけが「チョクセツホウ」に残ることになった。
 直接法の基礎を築いた長沼直兄は、日本の英語教育を改革するために文部省に招へいされて日本に1932年から1936年に滞在したパーマーの協力者および共鳴者で、師弟関係であったかと思われる。彼は1933年までには、標準日本語読本を完成させた。直接法は、イギリスのSituational Learning Teaching, その基礎であるパーマーのオーラルメソッドの系譜に連なる教授法である。
 長沼直兄の直接法は、言語と状況を経験を両方させ、ほかの状況に使えるようにすることをめざす。たとえば、「つくえ|の|うえ|に|X|があります。」を教えるにあたって、机の実物の上に手をおき「つくえの、うえに、あります」と言いながら、場所を示す。状況のアナロジーを利用して、「ほんの、うえに、あります」と言いながら、本の上に手をおく。鉛筆をもって、「つくえの、うえに、えんぴつが、あります」「ほんの、うえに、えんぴつが、あります」とそれぞれ言いながら鉛筆をそれぞれ机と本の上に置く。「あります」と言いながら鉛筆を置き、「ありません」と言いながら鉛筆を隠す。
こうして文型・文法積み上げ方式で媒介語を使わなくていいように教える。これは、パーマーが言語記号と指示対象や意味を融合させるために身につけなければならない、と主張する言語学習の5習性に基づいている。その5習性とは、()音声の観察、(2)口頭による模倣、(3)口頭による口慣らし、(4)意味化、(5)類推による作文、である。
 長沼の直接法はこのように原理があるが、老舗の東京日本語学校でも直接法はもう教えられていない。現在、席巻している「チョクセツホウ」はオーディオリンガルメソッドと長沼の教授法という原理のちがうものを取り入れていて、媒介語を忌避し、文型・文法事項を中心とし、教授法が最重要だとするようなものになっている。


 

  伝統的な日本語教授法とオーディオリンガルメソッドは一見似たように見えるが、本質的な部分で異なっている。前者にとっては言語習得の理論が最も重要なものであり、後者では行動心理学の刺激―反応理論を援用してそれを学習させるための方法が最も重要なものである。
 伝統的な日本語教授法のよりどころはパーマーの言語観、中でも音声言語が言語の基礎であり、文字言語は二次的なものであるという考え方、また、言語の構造つまり文型と文法事項が話す能力の中心であるという考え方である。またその精緻な言語学習観で強調されるのは、場面のなかでの言語習得ということである。
 音声言語を重視するため、耳による音声の観察を強調し、モデルを何回も注意深く聞かせ、すぐに反復練習やパターン・プラクティスに入るようなことはしない。1.何回も聞かせ、2.頭の中で反復させ、3.反復しながらぼそぼそ模倣をする、4.聞いてくりかえし、5.聞かずにくりかえす、といいう5段階を経る。
 目標言語の構造についての知識、能力こそが言語運用能力の基礎となる、と考えるため、この教授方法はしばしば文型・文法積み上げ方式と呼ばれる。それは、シリーズで行う、という意味。
 また場面づくりのため、絵、写真、実物、模型、ジェスチャーなどで場面を人為的に教室の中につくりだし、学習者をある発話場面においこむ。
 オーディオリンガルメソッドは、サピア、ブルームフィールドら構造言語学者の流れをくんで開発されたミシガンメソッドの開発者フリーズがしばしば提唱者としてあげられる。その萌芽は、第二次世界大戦中に実施されたアーミーメソッドにある。目覚ましい効果をあげたアーミーメソッドは、学習者を目標言語に集中的に接触させたことによるものであるにすぎない。が、この成功のために、集中的な高等練習中心の教授方法の価値が広く認められ、これを参考にし行動主義の心理学の知見を加えて、オーディオリンガルメソッドが完成した。
 オーディオリンガルメソッドの言語学習観は、言語の要素を身につけ、音素、形態素、語、句、文へと組み立てていくための構造を学習することである。また、ネイティブ・スピーカーの言語が究極の目標であるので、音声的また文法的な正確さ、ノーマル・スピードを学習者に厳しく要求する。その指導法の基本は、会話文の反復練習、パターン・プラクティス、ミニマルペア、文型や文法事項の教科書による予習と授業での確認、テープレコーダーとLLの活用にある。