2013年12月30日月曜日

Taj Mahal


年も押し迫る賑わいの中、先生にお出まし頂き、喫茶店で修論を指導

頂くこと3時間。口角泡を飛ばしながら、訳の分からない用語を

話し込んでいるのは、はた目に随分奇妙な2人だったことでしょう。



何とか三章のメソドロジーとケーススタディを形にして持っていったので、

お渡ししておいた二章と合わせて、中身のドラフトはできました。



全面書き直しを覚悟していた二章も、部分的な構成の変更で済み、

それはそれで大変なのですが、とりあえず白紙に戻さずにすんで

よかったです。



問題は、最後のディスカッションと結論の着地点がまったく見通しが

たっていないこと。イントロもまだなので、今日明日、

大晦日にはとにかくドラフトを全部仕上げてしまいたい。



たたき台にせよ、プリントアウトして紙が字で埋まるとほっとします。



できた56ページのうち、36ページは音声データの書き起こし

なので、実質上20ページしか書けていないのですが、紙の束に

すると何かやった気がする、と。これ意外と大事です。



表題は、喫茶店で今日頂いたケーキでした。ほんとうにタージマハール

の形をしたケーキでした。インドいつか行きたい。早く大吟醸飲みたい。






P.S.ところで、院生で実家のおせち料理おすそ分けいる人は別途連絡ください。

2013年12月28日土曜日

薄っすらと、でもまだまだ


手探りで進んでいた真っ暗闇のトンネルの先に、やっと微かに光が、

あそこが出口かな、というような光がわずかにさしてきました。

というか、さしてきたような錯覚がするだけかもしれませんが。




外国語教育質的研究会で指南頂いた質的分析ソフトATLASxi を、切羽詰まって

きたので、失敗覚悟で使ってみました。ほんとにステッィクメモの代わりに

ラベル付けがスイスイ進んで、コードの関係づけまででもとても便利です。



コードのネットワークを作ってみると、今まで見えなかったものが騙し絵の

ように浮かび上がってくるような気がします。



データの分析のみならず、論文や本の文章の概念もこれで整理できるのでは。



でも思考ツールとしてあまり便利なのも、何かこのソフトの中に脳が

閉じこめられるようで気持ちが悪い。




自分が行き詰まった時に、人と話すことでふと別の角度から見る

ことができるような、そんな使い方ができればいいですね。



もっと複雑なことが色々できるようですが、今回は試用版であることもあって、

扱えるデータの量も限られているので、ここまでに留めておきました。



いよいよ年末ですね。レッスンを始めてから毎年欠かさずやっていた

クリスマスパーティーも今年はなく、年賀状も書かず、ひたすら修論。




指導教官に、理論的背景部分を提出したままおたずねもしていなかったので、

 連絡をしたところ、おそらく全面的に書き直しになりそうな雰囲気が

電話を通して伝わって来ました。先生、ごめんなさい!






2013年12月26日木曜日

クリスマスですが


修論の見通しが甘くて、ぜひとも聴講させて頂くつもりだった

ヨーロッパ文化の授業を断念。メールでその旨ご連絡したら

先生も31日締切の原稿が書き進まず、崖っ縁です。とお返事が

即返ってきました。



いつもニコニコと人格穏やかな伊勢先生が崖っ縁というのは

想像もできませんが、きっとそんな様子は微塵も見せず柔かに

優雅に、二日間の講義をなさるのだろうな、と思うと、

プロに教師の凄さにただただ頭をたれるばかりです。


しかも二月も三日間お世話になるので、修論完成祝いパーティーを

しましょう、とまで言ってくださり、どこまで優しいことを、

と感激します。


そこまで言ってもらえるなら頑張って恥ずかしくないものを

書かなくては。がんばる!



2013年12月24日火曜日

triangulation とjustification


なにをどうするのかの手順もわからないまま、知人の協力を得て二時間ほどやってみました。

triangulation なるもの。



とりあえず、これまで録音した膨大な記録を聞いて、面白いと思ったレッスンを一時間

まるまる書き起こし、発話の順番で番号をふります。



一時間で1500以上、2000を越える発話になることもあります。

そのなかから、事例としてつかえそうな書き起こしを、発話の番号とともに抽出して、

それを読んでもらいました。


あらかじめ、理論の部分は20分ほどで説明しておいたので、談話のなかから

何を焦点とするのか、その理論的背景は何か、ということも理解していただいて

います。


協力者は、中学校教師の経験が9年あるベテランなので、スクリプトを読んだだけで

大体の状況がつかめます。



そしてその部分の録音をきいてもらいました。子供の声、調子、ピッチ、速さ、を

聞くと、より鮮明に状況と子供の性格やタイプが掴んでもらえます。




そして、それについてディスカッションをしました。




こんなのでいいのか、かなり心もとないです。でも、「やってみないとわからない」

ウィトゲンシュタイン風にいうと、自分の論理空間だけで過ごしているのでは、

なく他者の論理空間を共有してはじめて、他者の理解ができる、ということ

なので、それを実践したということです。



理論、研究、実践の三角、のそれぞれのインターアクション、というのを

少しだけ体感しました。


でも、まだまだ、材料が足りません。



先日、質的研究会で、高木先生が繰り返し言われていたのは、とにかく一つの現象を、

深く深く、いろいろな資料を使いながら、多角的に、見ていかないと、説得力が

ない、解釈も主観的だといわれてしまう、そういわれないように丁寧に細かく

みていくのよ、と。 それが質の面白いところなのよ、と。



本当はもっともっと時間をかけて、沢山書き起こして、その中から珠玉の

ケースを取り出すという手順を踏まないといけないのに、時間がない。


一年位前から、そうなることを想定して準備してきたつもりだったのですが、

やはり腰がひけていました。こわい、こわい、と思いすぎていました。


談話のコード化もろくにできていないし。



でも、まだ時間はあるので、がんばります。








2013年12月23日月曜日

認識論から存在論へのヒント


修論の理論部分の中で、で一番乗り越えられなかった箇所を、なんとか

よじ登って、やっと小高い丘の上にきた感じです。巨人の肩どころか、

掌の上に、いや、指の上に登らせてもらって、よいとこしょ、ときたかんじ。


その途中で、書いた読書メモです。目次と、少し読んだ部分だけ。修論終わったら

全部読みたい、と思ってアマゾンで探すと結構高価。




Newman,F. And Holzman, L.,(1997). The End of Knowing- A new developmental way of learners, New York:Routledge



1. Introduction:when will all these ending stop? P1
   Engaging reality
   Stop making sense
   Academics in an anti-institution
2. The epistemological bias  p22
   Ontology vs. epistemology
   The paradigm of paradigmism
   But can we really get beyond modernism (that is, knowing)?
   It's all the sameness to us
   The charge of relativism
3. Radically reforming modern epistemology p47
   Discourse, text, conversation-and analysis
   Moving beyond the rational(both the explanatory and the interpretive variety)
   Developing development
   What is the practice of method?
4. Deliberately unsystematic thoughts on a new way of running a country p83
   A moment of truth?
   A brief history of liberty
   The collapse of contemporary liberalism(identity politics)
   A word on Marxism - neo- and otherwise
   The politics of activity
5. A community of conversations p105
   The performance of conversation: a theoretical comment
   How to make a performed conversation
   Performed emotive conversations
   The improvisational performance of developmental learning
   The performance of philosophy
   The learning-leading-development play
"Beyond the Pale"
   The endings stop here

P19 
Drawing connections between the crisis in science and in the economy, Newman implicated paradigmism as the no longer effective method of reconciling contradiction, charging that contemporary psychotherapy was a secular religion functioning as a mass institution designed to reconcile the population to a zero-growth economy. 
精神療法は、"freedom as mental rather than historical and struggle as personal rather that collective and classwide."(Newman, 1977, p97)

Newmanは、"science without paradigms" の代わりに、"non-reconciliative therapy"
20年のあいだにcultural-performatory approach of social therapyとなるだろうもの、について議論している。

The practice of method:An introduction to the Foundations of Social Therapy (Holzman and Newman, 1979) タイトルはマルクス主義の特徴、"the method of practice (or "praxis"からとったもの。マルクスのnon-dualistic, historical conception of method - in which the "premises" are people "in their actual, empirically perceptible process of development under definite conditions"(Marx and Engels, 1974, pp47-8)の理解からきている。

the revolutionary activity of practicing method 
The method of practice

p22 
2. The epistemological bias

P24
Ontology VS Epistemology

modernism( and its historical, institutional catalyst, modern science) evolved from a fundamentally ontological shift: 

.300 years of thinking about thinking........Over this period of time (but most especially in this century) modern philosophy (epistemology) and its beneficiary and benefactor, modern science, came to "live by taking in each other's wash" (to use J.L. Austin's eloquent and all-purpose phrase, Austin, 1962)

p25
All other branches of philosophy (such as metaphysics, ontology, and ethics) were essentially orphaned by epistemology even as epistemology (modern philosophy) turned into metascience (philosophy of science and logic)or methodology.

・認識論は近代科学と過剰に同一化してしまったので、哲学としての認識論自身も、テストに通らなくなってしまった。

・哲学上のパラダイムは何百年ものあいだ、巧みに認識論化されてきた。
The philosophical paradigm itself had for hundreds of years been effectively epistemologized; ontology, in particular, had been virtually abandoned as metaphysical and meaning less. 存在論は特に形而上学的で無意味だとして、実質的には捨てられてきた。

Hence, the kind of ontological shift (from stillness to motion) which had triggered the modern age was, for the most part, unthinkable to many of the early postmodernists just coming to philosophy of science for guidance. そこで、modern ageの引き金をひいた(静から動への)存在論的シフトのようなものは、ちょっと軽くガイダンスでも、と科学哲学へやってきた多くの初期ポストモダニストにとっては考えられないことだったのである。

ウィトゲンシュタインWittgenstein (=a fierce critique of epistemologized philosophy)の登場ではじめて、心理学のポストモダニストたちは、近代哲学(認識論)のパラダイムに偏りすぎている、ということが発見されたのである。

ポストモダンにおけるウィトゲンシュタインの解釈は、彼の反認識的、反認知的、治療的なtherapeuticな努力の目的、ポイント、歴史的背景をおさえていない。

それはヴィゴツキーの、反心理学的、転回的、文化的な観点と、マルクスのanti-nterpretational, 弁証法的な観点が、誤解されているのと同じ。

この三人が、共有しているのは、以下の理解(もっと正確にいうと、revolutionary activity that gives rise to oneの傾向)=つまり、an ontological practical-critical transformation is demanded to challenge the methodological hegemony of modern epistemology.

Wittgenstein, Marx and Vygotsky share a fundamental commitment to a revolutionary ontic shift (not an epistemic alteration) from interpretive cognition to activity (most particularly, revolutionary activity) as the dominant unit of human intercourse.

p26
THE PARADIGM OF PARADIGMISM

Paradigmism(パラダイム主義?メタパラダイムのようなもの?)はThomas Kuhn1962)がThe structure of Scientific Revolutionsで最初に表した。

Conceptual frameworks, paradigms, or ways of looking at things are a critical epistemological/cognitive component of observation itself, as modernist from Kant to Kuhn to cognitive scientists have argued, in our opinion, correctly.

Ways of looking (paradigms) have a complex history; they rise and fall.


P78
Vygotsky's method is dialectical rather than dualistic. It is activity-based rather than cognition-based. Method is practice, not applied. Whatever is to be discovered is not separate from the activity of practicing methodit is not "out there" awaiting the application of an already made tool, but it is dialectically inseparable (that is neither idealistically indistinguishable, nor mentally distinguishable) from the activity of discovery.Practice, for Vygotsky, does not derive from theory. Rather, it is practice that restructures science "from beginning to end", that "poses the task and is the supreme judge of theory" (1982, pp. 388-9). Practicing method simultaneously creates the object of knowledge and the tool by which that knowledge might be known. Tool and result come into existence together; their relationship is one of dialectical unit, not instrumental duality(Newman and Holzmna, 1993,1996)


 


2013年12月21日土曜日

第14回外国語教育質的研究会

日帰りで、いってきました。

今年最後でしたが回を重ねるごとに人数が増えて、今日初めてという

方も数人いらっしゃいました。


1.ティーム・ティーチングによる英語教員の相互変容
ー言語教師認知に着目してー

東京大学大学院  山田雄司

修士の方の論文構想の発表でした。ALTと JTEによるティームティーチング
を観察、インタビューなどで分析して、両者の認知変容を明らかにしたい、
という構想でした。


山ほど意見が出ていました。

  .着眼点と先行研究をよく調べていると、いうのは誉められていましたが、

    私のような素人からみても実践の部分が非現実的だな〜、と〜いうのは

    よくわかり、びっくりする程批判されていました。


・初めてTTをする新任教員を対象とするのは、要因が大きすぎる。
・数組データを取りたいというのは、量的研究の発想。一組を多角的に、
    深く厚く語るべき。時間的にも現実的でない。
  ・質的研究はボトムアップ的にやるしかない。見えてきたものが大きければ、
      始めの思いは捨てなくちゃいけない。
  ・はじめからこれを見つけようと決めつけてはいけない、手ぶらで始めなくては。
   . 頭でだけ考えてもうまくいかない、参加者との関係が重要。

    などなど

若いと、皆さん育てようと熱心に言って下さるんですね。東大君頑張れ〜。


2.ワークショップ 

千葉大学  非常勤講師 山口長紀

QDA(質的データ分析)ソフトの入り口を紹介してもらいました。

事前にソフトの試用版、ビデオ、写真、文書のファイルをダウンロードして

持ってきて下さい、ということで膨大な書きおこしのコード化と

その関連付けに非常に便利なものでしたが、

もっと早く教えてほしかった〜。

(昨日の投稿に追記:教えていただいたソフトの試用版はこちら

 
 
 http://www.atlasti.com/demo.html


  Atlas ti というものです。)


1.について、発表すればあれだけ言ってもらえて凄く勉強になるんですよ、

と隣席の方に他人事のように言っていたら、次回の発表者ですが、つと、

高木先生と目が合って、三月ならもう修論終わってるよね、と言われ。

居並ぶ先生方の前でまた叩き台になることに。ありがたいことです。



2013年12月20日金曜日

街場の文体論


修論あいかわらず亀の歩みでのろのろと進めています。

ちょっと一区切りしたので、ひさしぶりに内田樹先生の「街場の文体論」を

パラパラめくっています。



「言語は道具ではない」「君たちの世代は英語は壊滅的にできない。壊滅的にできない、

というのは学力の問題ではありません。『言葉とは何か』という根本の考え方が

間違っているからです。」



「本来、外国語というのは、自己表現のために学ぶものではないんです。自己を豊かに

するために学ぶものなんです。」



「理解できない言葉、自分の身体のなかに対応物がないような概念や感情に

さらされること、それが外国語を学ぶことの最良の意義だと僕は思います。」



「浴びるように『異語』にさらされているうちに、あるとき母語の語彙になく、その外国語

にしか存在しない語に自分の体が同期する瞬間が訪れる。」



「そういう生成的な経験なんです。外国語の習得というのは、その『一陣の涼風』を

経験するためのものだと僕は思います。」





これは外国語だけでなく、日本語にも言えること。修論のために難解なことば、

難解な文章をあっちから切り取り、こっちから切り取り、写したり、訳したり、戻したり、

並べなおしたり、しているうちに、少し「同期」するような気がしてきました。



この本もよく売れているようで、友人の一人はこれまで読んだ中でベスト10に

入る、と言っていました。沢山の日本人が、わかりやすく読めてよいことだと

思います。



自分も英語は道具だと思っていました。実際に子供たちにそういったことも

あります。話す中身が大事だから、大学ではもっとほかのことを勉強して

英語は手段として勉強するんだよ、と。間違ったことを言っていたものです。

大学院で勉強をはじめるまでは。



内田先生の専門はフランス思想で、語学が専門ではない先生がこのような深い

言語観をおもちで、英語教育学会でも、学校教育をつかさどる場所でも、

いっこうにこのような言語観が聞かれない、とはどういうことなんでしょうか。




道徳より、学校に哲学、とか、世界の思想、とかいう科目を入れてほしいですが、

今は倫理社会とかきっとないんでしょうか。




理科でも、科学の深い話など授業であまり聞いた覚えはないし、大学で心理学

を学んだ時も、あまり深い話は聞いたことがなかったのは、自分にそれを

聞ける構えがなかったからでしょうか。




2013年12月11日水曜日

Transcription


3日くらいかけて書き起こしていたのが、やっと一つできました。


1時間10分でなんと2149行!どんだけしゃべってんねんという話ですが、関西だから

これだけ饒舌なんでしょうか、子どもって。しゃべるしゃべる、中にはまだ考えも

してないことを舌の上に先にのせて、口に出してから思いは後づけ、みたいな。





子ども同士の間で、間主観性が生起する様子もよく見えたような気がします。




相手に合わせようとする性癖って、子どもの時ほど顕著に見られるのか、

日本人でない子どもたちで調べてみると、違いがわかって面白そうだなあ、と

思ったり。



前はもっと早くできたのに、これだけ時間がかかったのは修論に使うために後から

日本語をローマ字に直すよりは、いっそ始めからした方が速いと思ってそうしたのと、

かぶっている発話を全部行を分けて書き起こしたからです。






でも、まだまだ書き起こしがあるので、エンドレス。終わりがみえてこない。





解釈と理論の整理はその合間にやるしかないので、みんなのように、一章ずつ

きっちり詰めていくとか、凄いなあ、と思ってしまいます。



2013年12月9日月曜日

亀の歩み、ですが。

修論は亀の歩みでのろのろと進んでいます。



終わったら、あれしよう、これしよう、とばかり考えています。


 先日久しぶりに行った梅田ガーデンシネマで観たいなとー思った映画がいくつも。

少女は自転車にのって     サウジの女の子が禁止されている自転車に憧れる
http://www.shoujo-jitensha.com/


さよならアドルフ      ナチスの高官の子供が、真実と向き合う
http://www.sayonara-adolf.com/


光にふれる      ウォンカーヮイ監督、盲目のピアニスト
http://hikari-fureru.jp/intro.php


ブランカニエベス            ゴシックバロック系?と思いきや闘牛士の話
http://hikari-fureru.jp/intro.php



外国語質的研究会も今月と来月あり、来月の輪読会は修論提出の二日後、

章一つのレジュメを引き受けることにしました。居並ぶ大学の先生方にご迷惑を

おかけするのは、ほんと重々承知で、教えて頂くばかりで余りにも心苦しく、

叩き台にして貰えればと恐る恐るメールするとあっさり、ではやってね、

とお返事。お正月の大徳寺の手伝いも手あげてしまったし、次の入試の

準備もあるし、余裕のないところに次から次へと予定が入ってしまう、

というか入れてしまいます。



映画みたり、気の合う人達と早く飲みに行ったり遊びに行ったりしたいなあ、

できるんだろうか。久しぶりに家族で温泉でも行きたい。でも、三月末には、

留学生達が来日するので、その前頃からまた会議やオリエンテーションで

忙しくなる。あくせくあくせく。



活動の対象性というのは、はっきりと意識されるものではない、それを

研究している自分であるのに、具体的数値的な目標を常に前において、

それを目指して進んでいくしか、やっぱりそういう生き方から抜けられない、

三つ子の魂百まで、とはよく言ったものです。


2013年12月7日土曜日

Zeitgeist Film

ハンナアーレント見てきました。

色んな見方があると思いますが、一つ面白いなあ、と思ったのが彼女が

あくまでも論理的に本質的に真実を捉えようとしたのに対し、ユダヤ人社会で

の感情を基にする世界観の中ではそれは真実ではなかった、ということ。



スケールは違いますが、日常生活でも起こりうることだと思いました。


また、ご一緒した人に、彼女は今評価されているのか?と聞かれて調べて

みると、wiki情報では、New York Jewish Film Festival でオフィシャルセレクションに

2010年に上がっているので、ユダヤ人社会でも今は認められているのも面白い

なあ、と思いました。


その調べものの副産物として、表題の映画会社を見つけました。Zeitgeistというのは、

時代精神、だそうです。そういえば指導教授がこの言葉言ってらした覚えがあります。



ジェジェクが作った映画やデリダというと題名の映画も過去の上映リストにあります。


ジェジェクのはこちら。日本でも上映してくれないかなあ。

http://m.youtube.com/watch?v=NUKbhKV7Ia8&desktop_uri=%2Fwatch%3Fv%3DNUKbhKV7Ia8


2013年12月2日月曜日

つまみ読み


認識論と存在論を子どもたちの発話からどうとらえていいのか、あちこち漁っていたら、

にわかにHolzmanが気になって、図書館で、The End of Knowing-A new developmental

way of learning, Newman. F & Holzman, L. を見つけて、つまみ食いならぬつまみ読み。



その中のポストモダニズム批判の記述の中に、三人のアンファン・テリブルとして

マルクス、ヴィゴツキーに列べてウィトゲンシュタインが挙げられていました。



ただでさえアップアップしているのに、これ以上難しいことに手を出すのは

控えようと思っているのですが、気になる気になる。

活動理論と直接関係ないんですが、彼方此方で名前が散見されるので、

ちらっとだけウィキペディアで読んでみました。



天才で人付き合いがへたで、ついに世を捨ててノルウェーの山小屋に

1人こもってしまったり、庭師をしたり、自殺願望に苛まれたり、

生きづらそうな人です。提出した論文が規定にのっとっていないと

拒否されて、何でそんな規定があるんだ、と激怒したり。

でも、そういう才能を認める人がちゃんといて、その思想が

埋もれてしまうことがなかったのは、社会にとって幸運なこと。



権威や権力に惑われされない、本物を見極めることができる人に

なれたらなあ、と思いました。が、またそういう人たちも、

世の中の潮流に逆らって生きなければいけないので、

それはそれで大変。お金も仲間も必要ですし。



もう一冊、修論とはこれも関係なく、「ハーバーマス

ーコミュニケーション行為」中岡成文著、もつまみ読みしています。

この人も、若い時に空気が読めなかったらしく、研究所の上司を

怒らせるような論文を書いて首になったりしています。



二十四才でハイデガー書評を書いたりしている。ハイデガーと

当時の知識人たちがナチスを支持して政治的に

偏ったことについて、モノローグ的な伝統を打破しようと

して、対話性に訴えるかわりに、実存主義的な別のモノローグに

陥ったと看過しているようです。


あ、そういえば、教えてもらったハンナ・アーレントの映画を

紹介したら、大人の女性達から私も気になっていたという人が出てきて、

見に行くことになりました。楽しみです。