2014年10月31日金曜日

言語の他者性

博論の大きなテーマを表題のものにしようと、結構

覚悟を決めていたのですが、師匠からはそれでは第二言語習得に

繋がらへんやん、とバッサリ。



第二言語習得と繋げるつもりは全くなかったのですが、

絶句したまま、というのは、問題意識がはっきりしていない、と

指摘されたのをその通りだな、自分の問題意識は何だろう、と

考えはじめて止まってしまったのでした。


昨日の生徒にしても、今日の生徒にしても、彼女たちの生活感とか実感が

発言の端々に手応えをもって出てくるので、それと学校教育のギャップを

もの凄く感じる。かろうじて今日言ったのは、英語は水泳とか運動と似ているからね、

ということだけでした。




2014年10月26日日曜日

合気道演武会

初めてみたのですが、びっくりしました。


魔法のようでした。攻撃してくる相手の手首を軽く握って

すっと返す、その途端に敵はばたっと倒れて動けなくなる。

静かにその手首を持っているだけでたちあがれない。


小柄な女子が逞しい男子をすっと回転させる姿も衝撃でしたし、

全く力を入れていないように見えるのに手のひらや手首や腕の

繊細な動きで自分に加えられる攻撃をかわす姿が、なにこれ!?

ていう感じでした。


ほとんどの方が最高4段だったのですが、道場主の内田樹先生は

7段で、いつもの内田節で理屈をいいながら、攻撃してくる弟子を

手だけでひっくりかえしたり、後ろと前は表裏一体なんです、と

一体になっているからすぐ入れ替わる、といいながらすっと

攻撃者と一瞬のうちに入れ替わる。本や文章も理屈も講演も

すごいと思っていましたが、学問に触れるうちにもっと難解で

すごいな~と感じた学者の方々に合うことができて、あれほど好きだった

内田せんせのオーラが正直薄れていたところ、武術家内田樹に

お会いできてよかったです。



世間的な成功や勉強やそういうことは何も関係がない、

いるべきときにいるべきところにいてなすべきことをなす、

そうすれば、なぜか会うべき時に会うべき人にあう、という

そういう気をひきよせる、とおっしゃっていたと思います。

そうやって生きる力を養うのが教育だと。



昔は学問や理屈から入られたのかもしれませんが、真骨頂は

合気道や武道だというのがよくわかりました。





さあ、また来週からがんばろう!!


2014年10月25日土曜日

Sociocultural Theory とヴィゴツキーの解離

今日の会話分析の授業で色々思うところがあったのですが、

授業の本筋はちがうところにあったので、改めて先生とお話しする必要が

あると思いました。


このところあちこちで言っているのですが、ヴィゴツキー、バフチンのオリジナルは

ロシア語です。しかもその当時のソ連やスターリン政権の政治的事情が

あったために、出版を禁じられたり、国内でも色々な受け取り方が

あります。


Sociocultural Theoryと欧米で言っているのは、ヴィゴツキーが若くして

亡くなって長年たってから英語に訳されたものを基本にしてブームになって

いるようなところがあります。それは必ずしも正確ではなく、英語で

表現すると何か浅く、英語の論理では表現できないものを切り捨てて

しまっているという感じがします。


それは何かと言うと、英語に訳される前に、ロシア語から日本語に訳された

本がたくさんあり、それを今も引き継いでいる方々があり、その日本語を

読むと難解で英語で表現できるはずがない、というようなことが

あるからです。


ヴィゴツキーやバフチンや、ヨーロッパの哲学を語ろうとすれば

英語のような単純な言語では無理です。むしろ日本語の方がいいかもしれません。


そう思って、今日もドイツ語の勉強をしこしこしていました。ロシア語も

やらなくっちゃ。


そうはいっても会話分析の先生はとても誠実で、理学部の英語の授業を

見学させていただくと、みんな目を輝かせているので、尊敬しているんです。


でもヴィゴツキーについてはわかっていらっしゃらないかな、と思うので、

とりあえずここで覚書。近々お話したいと思います。





2014年10月23日木曜日

学会発表直後の感想

終わった〜! 終わりました。

昨夜遅くまでやって完成させたレジュメを見直すと、あかんとこが沢山見つかり、

パワーポイントのチェックをすると音声が出ないので、直前まで配布資料と

PPTの修正でほぼかかりきりでした。


ちょっと嬉しかったのは、用意していた50部の資料がほぼなくなり、

自分の時間になると授業で一緒だったMやDの院生達がぞろぞろ入って来てくれたり、

受講している授業の先生が来て下さったり、思ったより沢山の人に

興味を持ってもらえたというのが驚きでした。発表終わってから、院生室で

行けなかったので、レジュメ下さい、と言ってくれた院生もいて、感激しました。


と、いうことは、外部から来たD1として、反面教師として参考にさせて

もらう、というのかもしれないし、自分の参考文献リストが資料となるのかも

しれないし、とりあえず、一応、ちゃんと作ってよかった~~、と今更ながら、

冷や汗。



怯えていた肝心の指導教官は、

開始時間が遅かったので、ごめんごめん見られへんねん、

資料だけ後でちょうだいということで、気が抜けるやらほっとするやら。

まあ、またゼミで発表することになるのでそれまで厳しいコメントはお預け。


前回、研究計画を出したときは、がっかりした、博論のスケールではない、

ということだったので、それに一歩でも近づけたつもりでした、まだまだ

まだまだですが。



指導教官の今日の授業では、理論、理屈と哲学をつきつめて、

それでどうやねん、となったときに、では、実証としてデータを出す、

というのが筋。データがあればいいという実証主義という病気になりすぎ、

(日本語教育の話らしい)と吠えていらっしゃいました。



博論の構想としては今日の発表をベースに、理論と理屈と哲学を

他者性の獲得、という観点からつきつめていこうと思います。

データ、実証は、談話分析、会話分析をさらに専門的にやって

自分なりにバランスのとれた方法論を確立していこうとしています。

先行研究、これが一番苦手、今回は教室談話研究にしましたが、

ちょっと違うような気がして気持ちが悪い。


自分の悪い癖は、飛躍しやすいこと。短気なので性格が

出ているんでしょうね。経過をコツコツ追っていくということが

できにくい。でも、それができないと研究者としては失格、

というのもよくわかっております、はい。




事後の懇親会では、韓国からの留学生が私もアイデンティティを

やっているので興味あったんです、と言ってくれました。

ふむふむ。結構人が来てくれたのは、タイトルがわかりやすく興味を

ひいたのかもしれません。タイトルって大事なのがわかりました。

これです。


「第二言語学習における談話による小学生のアイデンティティ構築」


拙い発表でしたが、興味おありの方あれば、連絡くださればレジュメお送りします。


あと、次の段階としては、言語文化学会の学会誌に投稿するという

のが目標です。どうなることやら。














言語文化学会46回大会発表を控えて

やっぱり、緊張しているのか落ち着きません。

きっかけは、前期のMの授業でいくつか書いたレポートに先生の

コメントをもらい、その中でひとつ選び、何回か書き直したり、

考え直したり、でも直前にならないと本当に真剣に考えないものなんですね。


指導教官によっては、学会発表のために研究するのは

よろしくない、という方針の方もいらっしゃるようだと、京都教育大では

聞きましたが、自分は外部に向けて発信する予定をたてて自分を追い込む

というやり方しかできないようです。


方法は談話分析、対象はいつも通り自分と生徒の学習中のやりとり、

目的は、なんでしょう、英語教育のなにかしら役に立つことをしたい、

貢献したい、ということでしょうか。本音はまた別として。

理論と分析概念は、色々あります。


もう今日になってしまいましたが、この発表をして指導教官に

どのように言われるか。前回、博士論文の研究計画を出したときはぼろぼろ。

がっかりした、と言われました。この学会のアブストラクトを見せたときにも

全体的にゆるい!とコメント。全部自分の怠慢のなせる業で、

もちろん、何が何だかわからなく、思いついたままを出したので

そういわれるのはあたりまえです。とりあえず、前期は自由に

幅広く読んでみろ、と言われてまあまあ読書したつもり。

色々とりとめもなく、でも自分なりに考えたつもり。

論理的な表現は苦手なのでそれがあかんと思います、が、

自分なりに論理的に書いてみて、その結果を明日出してみていただく、

ということです。きついコメントは覚悟の上。発表しなければ、それも

もらえないんだし。


2014年10月18日土曜日

国際学術誌への投稿

学会の発表に向けて自分でテンションを高めていたところ、

わりといけるかも、と思っていたら、がつんと頭を打たれました。


自分にとってはいい薬です。


副指導教官の先生は、若手ながらものすごく有能な方で、これでもか

これでもか、というぐらい要求水準が高いのです。優秀なM君さんたちも

おろか私など追いつくのが精いっぱいなほど英語の読解力と

知識量もすごい、でもそこはDの一応プライドもあり、

がんばってこれまではがんばってくらいついて来ていました。


が、今日の授業で配られたのは、先生の論文(他の研究者との

共同執筆も含め)4編。それも、共同執筆者もそうそうたる

方々で。先生のハワイ大学での修士論文さえもが、掲載された

Journal of Pragmaticsのコピーでした。


秀才とか、天才とかってこのことかなあ、と思わされるような方なので、

・・・先生は、君たちも英語が書けるんだから、書くようにしたらいい、

大学の紀要とか国内の論文に書いても無駄だから、一流の

雑誌に書かないと意味がない、僕もこれを書いてから人生が

開けた、とおっしゃっていました。


いやみでもなく、何の含みもなく、みんなにこんなチャンスが

あるんだよ、ということを語る先生。


それをどう受け止めるかは、生徒一人ひとりの認識。




とりあえず、とりあえず、木曜日の発表をやるしかないです。

こんな高いレベルのことを視野に入れるのはそのあと。

2014年10月16日木曜日

活字になること

修士論文を提出して半年以上になってしまいました。

ヴィゴツキー学会の投稿と、校正もほぼ終わり、生まれてはじめて

近々自分の書いたささやかな論文が活字になって世に出回ったり、

大学のホームページで公開されたり、することになります。



活字になるということは、それが朽ち果てるまで、思いもかけない誰かの

目にとまる可能性があるということで、責任と恥ずかしさで身がひきしまります。



同期はもうとっくの昔に提出したよ、と先生に言われて、ふと

その修士論文を読もうとアクセスしたら、acknowledgementの最後に

自分の名前を見つけて、胸が熱くなりました。こんな大事な論文に。

ありがとう。真心が伝わって泣けてきました。


活字で残る、ということは読み手にこういう情動を引き起こすことなんだなと、

改めて思うと一字一句もゆるがせにできない、という意味がわかりました。


それに比べれば、来週の学会発表などは口頭だし、緊張のレベルが

全く違う、と思うといくらたたかれようと気が少し楽です。

でも、それをまた投稿することになると思うので、土台となるこの発表は

おろそかにはできません。読書、対話、思索、発表、修正、実践、など

諸々を繰り返しつつ、少しづつ何か価値のある、誰かの役に

立つようなものができるのでしょうか。












2014年10月12日日曜日

「現実の社会的構成」バーガー・ルックマン

後期は、ゼミで表題の本(新曜社、山口節郎訳)を読むことになっていて、

第一回目の発表者になってしまったので、急いで読んでいます。


あたりまえですが、指導教官と自分がここまで興味がぴったりあっている、

というのは本当に嬉しく幸運なことだとしみじみ思います。


最近、日常でも、百人の人がいれば百通りの現実がある、というのを

身に染みて感じています。これまでは、そういうことが腹立たしいばかりでした。

なんでこの人はわからないんだろう、とか、怒ってばかりいました。

でも、同じことを疑問に思いつつも、こうやって学問的に考えている人も

沢山いるんだな、ということがありがたいです。


まだ読み始めですが、この本からいくつか、示唆的な引用を。


「パスカルの有名なことば、つまりピレネーをへだてた一方の側では

真理であるものが他方の側では誤りとなる、」(p7)



「知識は常にある一定の立場から得られた知識であるはずだという醒めた認識」(p13)


「いずれにせよ、マンハイムが考えていたのは、イデオロギー化作用を完全に

一掃することはできないにせよ、社会的に基礎づけられたさまざまな立場を

できるだけ多く体系的に分析することによってそれを緩和することはできる、という

ことであった。」(p14)


「どの社会にあっても理論化作業や<観念>にまつわる仕事、あるいはまた

世界観の構築に従事しているのは、人びとのうちのごく限られた集団に過ぎない。

ところが、社会にあってはすべての人がなんらかの形でその<知識>には

参加している。換言すれば、世界の理論的解釈に関心をもっているのは

ごく少数の人々にすぎないが、人びとはすべてなんらかの形の世界に

住んでいる」(p21)



原書は、Berger, P. and Luckmann, T.(1966). The Social Construction of Reality

-A Treatise in the Socioogy of Knowledge. New York:Doubleday & Company

のはず。


あ、それとようやく博論の章立てを考えはじめました。言語文化学会の

準備もやりはじめると精神的に落ち着きました。とにかく、なんでも発表する

ことは大事やで、とどの先生方もおっしゃいます。Mの授業を受けて

レポートを書いたり、色々な研究会に参加したり、雑誌への投稿を準備

したり、そうこうしているうちに、自分の専門分野や、近隣分野、まったく

関係のなさそうな他分野(たとえば物理とか!)の方々とディスカッションを

してそういうことを積み重ねて、書いたり発表してそれが全部

つながっていくのかも、と、ちょっとおぼろげに道が見えてくるような気が

しています。




2014年10月11日土曜日

博士課程一年目 秋のきもち

入学して半年がたちました。

少しずつ挨拶もできる人も増えてきて、居心地も前期に比べると格段とここちよい。


博士課程(博士後期課程です、博士前期課程は修士課程)というのが、
どういう立場なのかもわからず、自分より優秀なM1、M2たち(特に英語の読解力と
専門知識)の迫力にびびっていましたが、彼らも実は実戦経験が不足して
怖いんだな、というのも何となく感じます。

それでもって、先生方の弱点も何となくわかる。

そのあたりで、自分が食い込んでいくつぼ、みたいなものもだんだんわかってきました。


でもいまだに、書くのが苦手、いわゆる批判的思考というのはもっとニガテ。

なぜなのか、わからないですが、もっとつきつめて考えなくては。




2014年10月4日土曜日

とりあえずD1後期の景色

博士後期課程と言うのは本来授業を受けなくてもいい、という

仕組みになっているらしいです。



指導教官のゼミに参加して単位をとれればいい、というふうな。

要するに、博士論文を書き、審査されて認められるかどうかがカギらしい。


自分はまだ入学して半年なので、そのプレッシャーが実感できないですが、

なんとなくびりびりと伝わってくる空気があります。



博論を書くというのは、想像もできないほど大変なことらしい。。。。。






2014年10月3日金曜日

後期スタートにあたって

手探りのD1生活後半が始まりました。

前期との違いは、

1 Research Assistant(RA)の仕事が始まったこと。

  研究とは何か、大学の先生方の実態の見当もつかない自分にとっては、

  先生方の研究のお手伝いをさせて頂くだけでも光栄。

  
  今のところ、勤務時間になると先生の研究室に伺って、データ入力を

  
  黙って何時間も何時間もするというだけのお仕事なのですが、

  
  その合間に先生と雑談をしたり、かかってくる電話のやりとりを

  聞いていたりするだけでも、研究者、というコミュニティとか理念、
 

  生き方、を垣間見れるのは貴重な経験です。


2、指導教官からD1は半年間はぶらぶらしていたら、というお墨付きの

  モラトリアムいよいよ終了。ということで、今月末に学内の学会に

  発表することになってしまい、(ダメもとで出したアブストラクトが

  承認されてしまい)、まあ、早いうちにたたかれた方が自分のために

 
  なるに決まっているので、やります。でも言語文化研究科はじまって

  以来の最低レベルの発表になるかもしれません。あああああ。。。。

とりあえず、今日はここまでです。