2013年10月28日月曜日

11th Asia TEFL


三日間の学会が終わり、明日早朝に発つので、最後の夜にやっと少し振り返ることにしま

した。いや〜、目まぐるしい時間でした。





航空会社勤務の時代は、出張は主にイギリスだし、プライベートは家族連れのリゾ

ート地が主だったのでアジアに行ったのは、数えるほどでした。返還前の香港と、仕事が

らみで、ソウル、バンコク、バリ島ぐらい。それも人に案内されていくので、現地は

チラ見、アジアの事は不勉強で何も知りません。感じたこと、書きたい事は沢山あります

が、とにかくほんの近い場所によって貧富の差の大きさは知識としては知っているつもり

でも、目の当たりにするのは衝撃でした。ホテル、大学、ショッピングモール、スーパー

マーケット、全て入り口にはガードマンがいて、スーパーでは、ボディチェックと

バッグの中を見せるよう言われ、ホテルによっては犬がタクシーのトランクや荷物の

チェックをしているという緊張感に驚きました。何のためか。お金持ちや旅行者を

守るためです。その一方で、子供達は平気で危ない道路を車椅子をすりぬけて渡り、

車の窓に顔を押しつけてボロ切れを売りに来たり、学校へ行かず、家も持たず、

母親と通りに寝て暮らし、施しを求めて歩行者にまとわりついたり、盗みをして

生きています。すぐ数キロ先では、日本でも滅多にないような超高級ショッピングモール

のレストランで家族連れが贅沢な食事をしているというのに。同じ国の同じ言葉を

話す人たちなのに。




道路沿いには長い長い塀が続き、緑豊かな木々や椰子の木が塀の上に高く育っているのが

見え、それは個人の、政治家の邸宅だそうです。京都でいえば、皇居や東本願寺くらい

の塀の長さ。学会のあった大学もそれは美しい芝の広がる上品な校舎の建物。その

中で学生はジョギングをしたり、テニスをしたり、併設の小学校から出てくる子供達も

日本と何ら変わりなく楽しそうに通っています。でも、そこからタクシーで数分走ると

直視できないほど汚れたスラム街に入り込むのです。日本人であれば、いくら冒険心

のある若者であっても、もうああいう所は歩けないと思います。単なる賑やかで

ちょっと危なげな、色とりどりの看板やネオンがひしめき合う繁華街とはちがう、

何というか、全部が灰色でした。道も、建物らしきものも、乗り物も、人も。


学会についてはまた書きます。


とりあえず、昨日書いた感想はこれでした。




2日目の朝です。

アジアの文脈におけるEnglishesというテーマなのですが、この疲労感はなんなのだろう、

と考えてみると、

 まず、日本人としての自分を、この会場にいるとアジアにおける日本人としての

自分に認識し直す作業がつねに必要で、そんな事はあまりしたことがない、と

いうのがあると思います。




キーノートのスピーチで、青山学院大学の本名先生のスピーチは非常に分かり易かった

のですが、日本人は日本語の発想通りの英語でいい、それぞれの国の文脈、認識から

出てくる英語でいいんだ、というと、では美しい英語というのは棄ててしまっていいのか

逆に、世界の多くの人が日本語を勉強するようになったからといって、美しい本来の

日本語の味わいは、native fallacyだと切ってしまえるとは思えないのです。

2 件のコメント:

  1. そのようないわゆる後進国への支援のあり方や、学力、教育のあり方を考えると、やはりOECDが打ち出しているようなものでは物足りなさを感じます。後進国がそれとして発展していくあり方を考えながら、支援そのものを考えないといけないと感じます。

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  2. 不勉強でOECDの方針はよくわかっていないのですが、たまたまランチをご一緒した千葉大学の先生が、フィリピンの小学校をあちこち廻って調査されているらしく、学校へ行かずゴミの廃棄場で売れそうなものを漁っている子供たちの悲惨さは見ていられないと仰っておられました。ただ、経済成長のスピードの凄さを目の当たりにすると、後進国という単語はアジアに関してはもう死語だと思います。

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