思うところがあって、聴覚障がいの学生さんのノートテイカ―をすることにしました。
学部生時代の4年間と就職してからの4年間、計八年間、同じ学部生から頼まれて、
障がい者の方のおうちに介護にいっていました。その後、豊中市の議員になられた
女性の方ですが、当時は下のお子さんが生まれたばかり、上の子も幼児で、
ご本人の介護に加えて子育てや、料理、家事、掃除、近くに
住んでいらっしゃるお母さんへ料理を届けたり、大学生が毎日朝昼晩
少なくとも3人ずつは(つまり一日9人)は入らないと生活がまわらない、大変な状況でした。
私は頼まれたので義理で行っていただけで、もともと家事も掃除も大嫌い。
きれい好きの方に、エアコンのフィルターの掃除も指示されて、自分の下宿でも
実家でもしたことないのに、やりすぎちゃう、とぶつぶつ思いながら
やっていました。
ですが、入部さん(そのご本人)とかかわる中でトイレのお世話、
お風呂のお手伝い、車いすを押して障がい者の会合にいって
後ろに立っていて、いろんな話を聞いたり、豊中市の議員さんが来られたり、
いろんな人が入部さんを頼って相談に来られたり、本を出版されたり、
夜は施設で学べなかった国語の勉強を横で見ていたり、ものすごく
エネルギッシュな方で今思うと、甘やかされた学生の自分に
とって貴重な時間だったと思います。
でも自分はもっと英語を使ってはなやかな仕事をしたい、と思ったり、
海外にももっともっと行きたいと思ったので、航空会社に転職したことを
きっかけに行かなくなってしまいました。
私を誘ってくれた学部の友人たちはさすが志のある立派な人たちで、
私のようにちゃらちゃらとお金や楽しそうな企業などには就職せず
みんな市役所や福祉の仕事を選んで行き、それを全うされました。
今日、ノートテイカ―の講習をうけて思ったのは、その時に比べて
障がい者をとりまく環境は制度的には少し進歩しているとはいえるけれど、
やっぱり全然進歩していない、と思います。
入部さんの介護をしているときに、聴覚障がい者の人が会合で
はげしくジェスチャーや手話を使って一生懸命しゃべっていたりしたのを
思い出します。
でも、その後の人生で聴覚障がい者の人と普通に個人的に遭遇することは
なかったです。車いすの人とも。脳性まひの人とも。それほど、私のその後の
人生と、その人たちの人生が隔絶していたということだと改めて思いました。
進歩していない、というのはそういうことです。だから、この間のような
凄惨な事件が起こる。若い時に快楽を選んだ自分の責任でもあると思います。
今回、講習で一生懸命伝えようとしてくれた彼の話し方をこちらも
集中して聞いていて、色々と思い出しました。
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