いまさら、と思われるかもしれないのですが、
現象学 フッサール→ハイデガー→メルロ=ポンティ
→シュッツ→ガーフィンケル というところに
立ち戻って、たまたま遭遇した会話分析という研究分野と
自分の哲学的関心を整理して博論の研究の流れを考えるために、
会話分析の原点となるガーフィンケルのことをもっと理解しようと、
表題の本を改めて読んでいます。http://www.serica.co.jp/149.htm
本当にいまさら。会話分析の人たちには失笑されること必死。
でも失笑されてもいいので、現象学と会話分析の関係を教えてくれたら
ありがたいです。で、なんでこんなに会話分析では、他の理論を
頑固に受け入れないのとか。だって状況的学習論とか実践共同体を
受け入れなかった研究者がこの春はヴィゴツキー由来の概念を使ってたし。
もう一般的になっていると口頭で言うてはりました。
ええ?そんなんでいいのん?
こんなんで12月に発表できるのかも心もとないですが。
今精読しているのは、
この本の第4章「Kは精神病だー事実報告のアナトミー」 ドロシー・スミス。
3年前に初めて読んだ時には
わけがわからず、今でもよくわからないですが、面白いのは面白いし、
今、勉強に集中できなくて、ネットやメディアの現象を見ていると
つくられた物語、や何かの意図があってつくろうとしている物語が
多くて、そういう物語をただ享受しているだけ、感情的に反発ばかりして
いて筋の通った批判も何もできない自分が情けなくつまらない。これを
一生懸命読んでいると、どのようにして気に入らない人を排除していくのか
未熟なインタビューの報告を通してその構造がおぼろげに見えてくる。
人がつくった物語を教授するのは快楽。楽で気晴らしに最適。
でも、もうちょっとだけ、死ぬまでにはそれだけで終わりたくない。
若い時にそういうことに気付いていたら、といまさらながら思うし、
若くして気付いている人がうらやましいですが、それだけ自分は
色々と得をしてきたし、楽をしてきたので文句をいうのもおこがましい。
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