読んでるよ、とおっしゃっていただき(ありがとうございます)、ご心配をかけているかも
しれませんので、レポートの全文を掲載します。
師匠には、攻撃的です、と申し上げてお渡ししたのですが、
そんなに攻撃的ではないのかもしれないです。また、今日改めて、
長谷川宏著「ことばへの道―言語意識の存在論」をじっくり
読み返してみて、やはり、内言をプロトコルとして表現するのはことばの
深さと無限の広がりを返って狭めてしまうのではないかと思いました。
ただ、師匠は別に内言をプロトコルとして実証しようとしているのではない、
外言がこれこれと展開するには、内言を想定しなければ説明できないからだ、と
おっしゃっておられるのですが。
それは、長谷川のここの部分を読んでそう思いました。
p200
「ことばが話す」という命題は、現実にことばを話す人間のうしろに、あるいは、その底に、個人の自発性を超えた言語意識の層を設定しようとするものだ。図式的にいえばそれは<人間ーことば>という二極構造にたいし、<ことばー人間―ことば>という三極構造を考えようとするものである。・・・「ことばは表現である」という事実命題にすなおにしたがえないとハイデガーが首をふるとき、ハイデガーに見えていたのは、<人間ーことば>という過程の基(もとい)をなす<ことば―人間>という過程だったのだ。
...
<人間ーことば>という過程は、ある人間があることばを話すという目に見える日常の事実を図式化したものである。・・・だが、後期ハイデガーの言語理論から導かれる<ことば―人間>の過程は、日常の聞く過程とそのまま一致するものではない。<ことば―人間―ことば>の前半をなす<ことば―人間>の過程は、まずもって表現者の内的経験にかかわる過程と見なければならない。表現者は自分の表現意識の内部でことばにふれ、いわばこころのなかの耳で声にならないことばを聞くのである。それが<ことば―人間>の過程の本質をなす。
では、拙いレポートです。すみません。
タイトル「バフチンの言語論と内言と英語教育研究」
内言は、人間なら誰しも存在を疑うことがない。ただし、研究対象としては極めてむずかしい、というのは広く認められている。バフチンとヴィゴツキーはともに言語を抽象的なシステムとして見ることを否定し、バフチンは言語は発話であると論じた。ヴィゴツキーは内言(自己中心的ことば)は、人間の認知発達において重要な役割を果たし、また、言語と思考を連結するもの、認知的成長を自己調整するものだとしている。だが、バフチンの内言はそれよりもむしろ自己と他者との対話を表わす内的対話を指している。それは自己そのものが他者の声に根ざしているからである。(Johnson,2004)
ヴィゴツキーのいう内言のSLA分野での実証的研究としては例えば、McCafferty(1998)の、内言とL2熟達レベルの関係についての実証的研究があげられる。その仮説としては、L2熟達度が上がれば、内言は少なくなるというものである。McCaffertyは内言を対象調整、他者調整、自己調整の三つのカテゴリーに分類し、低‐中級者グループと、高‐中級者から上級者グループからなる2グループの被験者に6枚の絵を提示、ナラティブを録音、書き起こしてコード化した。対象調整はさらに、タスクに不適切なschemataをあてはめようとする試み、ラベル付けをしたり数えたりナラティブのある側面へのコメント、タスクのある要素を完全に把握できていないと感じたため息や笑いや慨嘆、という三つのサブカテゴリーに分類し、他者調整は、研究者または自分自身へ向けられた質問と定義し、自己調整は、自分の混乱を制御していることを示す発話と定義した。
その結果、低‐中級者グループは、高‐中級者から上級者グループの二倍の内言を産出し、また、対象調整(特にサブカテゴリー2と3)、他者調整、自己調整のすべてにおいて有意差が認められた。この結果はヴィゴツキーのL2学習の文脈に自己中心的ことばが果たす媒介機能を支持するが、熟達度よりもタスクの性質、被験者の動機的性向、文化的背景などの他の要素が関係している可能性もある、ということである。
やまだ(2008)はバフチンの対話原理を「他者」「差異」「生成」を重視する現代思想につながるとし、生成・変容・両行プロセスとしての対話「生成的対話」概念を提示し、さらに「間テクスト性」「ポリローグ」概念と「ハイパーテクスト」概念と結び付け、「多声テクスト間の生成的対話」を提示した。
やまだはバフチンの対話原理における「自己」「他者のことば」「ことばの対話性と多声性」「テクスト間の対話」という4つの基本的観点を取り出し論じてはいるものの、内言についてはまったく触れていない。むしろ、ことばそのものが単一の声のようにみえてもポリフォニー的な響きを伴っている、また、対話するのは、もはや「自己と他者」でもなければ、「内なる自己」や「内なる他者」でもなく、「ことば」というものが本質的に「対話性」をもつものである、と論じている。ことばの対話性は、「分裂した多声性」
をもち、「同じ一つの言葉を互いに背反しあう様々な声を通して実現する」というのである。また間テクストの働きについて、クリステヴァの詩の分析は「別のテクストを肯定し、かつ否定するという同時的で複雑な行動」による二重化が行われている点で、バフチンの多声性と呼応するとしている。そして、質的研究の方法論の基礎となるネットワークモデルを提案し、それをどのように一般に応用するかを考えている。
例えばまず、論文の書かれ方として、「目的」「方法」「結果」というリニア・プログレッシブ(線形上昇)思考法からの離脱を提案し、生成的対話テクストとしての論文は、自由連想のような広がりの中で、いくつかの新しい「むすび(結び・産び)」を生み出すようなものも可能だとしている。また「物語」を「時間順序を重視する定義」から「二つ以上の出来事を結びつける」という定義に変え、「テクスト」「引用」「読む」「書く」という概念が複数の断片テクストを相互参照する「トランスクルージョン」という概念に変わり、「自己」「他者」「作者」という概念が霧散し拡散していく、と述べている。
英語習得も含めた第二言語習得にバフチンの対話原理を基礎と置くならば、内言の実証性についての考察を越えた、拡がりのある研究のパラダイムの転換が必要なのかと改めて考えさせられる。
参考文献
Johnson, M. (2004). A philosophy of second language acquisition.New Haven/London:
Yale University.
McCafferty, S.D. (1998). Nonverbal expression and L2 private speech. Applied
Linguistics.19.1 73-96
やまだようこ(2008).「多声テクスト間の生成的対話とネットワークモデル―対話的モデル生成法の理論的基礎」『特集 バフチンの対話理論と質的研究』質的心理学研究 第7号
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