2015年2月27日金曜日

春休み諸々

1.会話分析に関する研究会です。場所は大阪大学です。

来てみたい方があれば、先生に了解をとりますので、コメント他の方法でご連絡下さい。

3月6日(金)・13:00-15:00
3月12日(木)・10:00-12:00
3月19日(木)・10:00-12:00
3月26日(木)・10:00-17:00の間の2〜3時間ほど



2.読んで要約を提出しなければならない英語の本

Schegloff, Emanuel A. (2007). Sequence organization in interaction - A premier in conversation analysis- Volume 1. Cambridge: Cambridge University Press.

Noddings, Nel. (2007). Philosophy of education. Boulder, Colorado:Westview Press.

Edwards, Derek.(1997). Discourse and cognition. London:SAGE Publications

特に三冊目はこの一年間読むようにずっと言われ続けていて半分しか読めていない始末。


3.熟読しなければならない日本語の本

こんな基本的なことも知らないのかと、レポート提出後、半ば呆れられそれでも読みなさい、と教えてもらいました。恥ずかしすぎる。。。


理科系の作文技術
レポートの組み立て方
http://www.amazon.co.jp/%E8%AB%96%E6%96%87%E3%81%AE%E6%9B%B8%E3%81%8D%E6%96%B9-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%BE%A4%E7%94%B0-%E6%98%AD%E5%A4%AB/dp/4061581538/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1424514033&sr=1-1&keywords=%E8%AB%96%E6%96%87%E3%81%AE%E6%9B%B8%E3%81%8D%E6%96%B9+%E6%BE%A4%E7%94%B0%E6%98%AD%E5%A4%AB
論文の書き方

 
論文のレトリック

4.読まなければならない英語の論文
 
多数。
 
 
5.読みたい、読みかけの日本語の本と翻訳書
 
『ソ連言語理論小史―ボードアン・ド・クルトネからロシア・フォルマリズムへ』 桑野隆著 1979年 三一書房
 
 
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』マルクス・エンゲルス著 2002年 廣松渉編訳 小林昌人補訳 岩波文庫
 
『「なんで英語やるの ?」の戦後史―《国民教育》としての英語、その伝統の成立過程』 寺沢拓敬著 2014年 研究社
 
『リベラリズムの教育哲学―多様性と選択』 宮寺晃夫著 2000年 勁草書房
 
 
6.行く予定の学会

3月14日、15日 社会言語科学会@東京女子大学
 
 
7.出す予定の小論文
 
言語文化共同プロジェクト(2013)
 
 
 
そして
 
8.確定申告
 
 
そして
 
9.四月に出さなければならないD2の研究計画書
 
誰に出すのか、どういうテーマで、どういう方法論で出すのか。
 
なにもなにも決まっていません。
 
 
と、いうわけで、春休みも全力投球。
 
はあ~~~~~~~。
 
 
 
あ、自主勉強会は楽しみです。
 
院生で打ち上げの食事会も計画してるんだった。それと、今日研究会で
 
若いきれいな女の子たちからD1受かりました、先輩よろしくお願いします、
 
と挨拶されて嬉しかったです。彼女たちの方が抜群に賢いのに
 
決まっていますが。
 

2015年2月20日金曜日

院生室 小掃除

院生会より、呼びかけがあったので、「正統的周辺参加」してきました。

だだっ広い院生室と、数階に分かれたコンピューター室、談話室など、

集まった有志で二時間ほどかけて、窓を開け放ち、掃いて、埃はらって、


散らばった不要なもの捨てて、掃除機かけて、となかなか大変でした。

こそうじ、という響きが可愛くて口に出していたら、しょうそうじ、と

読むんです、と生真面目に訂正されました。でも、今回一人当たりの

労働量でいうと中掃除ぐらいかも。



春休みで、旅行や帰省中の人も多く、少人数でしたが、たまたま来た人が

できることだけ手伝ったりしていました。


パブリックな精神の有無が露呈するのはこういう時です。いつも同じ場所に

陣取り共有の物を使っているのに、掃除の時だけいなくなって、

終わってからまたいつの間にか座っている人、私物を冷蔵庫に溜め込んで

皆が苦労して山程捨てた後やって来て労いのためのお茶だけ貰って行く人、

普段無口でやりましょうかと一言だけ発して、広い床を黙々と掃いて

いる人、開始時間に間に合わないからと先にできるだけやっときます、と

部分的に掃除する人、色々な周辺参加があり、また、少しコミュニティが

共同構築されていました。


基本的には、研究というのは公共に資するものなので、特に博士後期課程の

人は行動にパブリックなものが求められると思うんだけど。まあ、

ネット上や論文で貢献されているので、体を使うことは後輩たちがやれば

ということなんでしょうかね。




2015年2月16日月曜日

categorize

どんどん新聞やテレビなどのいわゆる昔ながらのマスコミ

から遠ざかりつつあります。だんだん年を重ねるとともに、

ことばの遣い方に気難しくなってきています。



多分、若い頃から「レッテルを貼って見てしまった」というような発言も

耳に残っていたので今に始まったことではないと思います。

いくらそういう現象から距離を置こうとしても、カテゴリー化、という

誘惑から自分も含め人はなかなか逃れられない。自分の理解できる

世界の範疇に入らない、あまりにも違和感がある現象をとりあえず

分からないまま置いておく、ということができない。



何かしら自分のこれまでの世界観でカテゴライズしたり、名前を付ける

ことで、整理できたと思いこんでしまう。



ことばを軽くもて遊び、安易にカテゴライズする人からはできるだけ離れないと。



ことばを道具として、説明できない現実を自分の都合のいいように

歪めて説明しようとする人は、ことばから復讐されるのです。

2015年2月15日日曜日

レポート 内言 続き

数日前の、「レポート 内言」へのアクセスが多く、先日、お世話になった方にも

読んでるよ、とおっしゃっていただき(ありがとうございます)、ご心配をかけているかも

しれませんので、レポートの全文を掲載します。


師匠には、攻撃的です、と申し上げてお渡ししたのですが、

そんなに攻撃的ではないのかもしれないです。また、今日改めて、

長谷川宏著「ことばへの道―言語意識の存在論」をじっくり

読み返してみて、やはり、内言をプロトコルとして表現するのはことばの

深さと無限の広がりを返って狭めてしまうのではないかと思いました。

ただ、師匠は別に内言をプロトコルとして実証しようとしているのではない、

外言がこれこれと展開するには、内言を想定しなければ説明できないからだ、と

おっしゃっておられるのですが。


それは、長谷川のここの部分を読んでそう思いました。


p200
 
「ことばが話す」という命題は、現実にことばを話す人間のうしろに、あるいは、その底に、個人の自発性を超えた言語意識の層を設定しようとするものだ。図式的にいえばそれは<人間ーことば>という二極構造にたいし、<ことばー人間―ことば>という三極構造を考えようとするものである。・・・「ことばは表現である」という事実命題にすなおにしたがえないとハイデガーが首をふるとき、ハイデガーに見えていたのは、<人間ーことば>という過程の基(もとい)をなす<ことば―人間>という過程だったのだ。
              ...
<人間ーことば>という過程は、ある人間があることばを話すという目に見える日常の事実を図式化したものである。・・・だが、後期ハイデガーの言語理論から導かれる<ことば―人間>の過程は、日常の聞く過程とそのまま一致するものではない。<ことば―人間―ことば>の前半をなす<ことば―人間>の過程は、まずもって表現者の内的経験にかかわる過程と見なければならない。表現者は自分の表現意識の内部でことばにふれ、いわばこころのなかの耳で声にならないことばを聞くのである。それが<ことば―人間>の過程の本質をなす。




では、拙いレポートです。すみません。

タイトル「バフチンの言語論と内言と英語教育研究」

 内言は、人間なら誰しも存在を疑うことがない。ただし、研究対象としては極めてむずかしい、というのは広く認められている。バフチンとヴィゴツキーはともに言語を抽象的なシステムとして見ることを否定し、バフチンは言語は発話であると論じた。ヴィゴツキーは内言(自己中心的ことば)は、人間の認知発達において重要な役割を果たし、また、言語と思考を連結するもの、認知的成長を自己調整するものだとしている。だが、バフチンの内言はそれよりもむしろ自己と他者との対話を表わす内的対話を指している。それは自己そのものが他者の声に根ざしているからである。Johnson,2004)
 ヴィゴツキーのいう内言のSLA分野での実証的研究としては例えば、McCafferty(1998)の、内言とL2熟達レベルの関係についての実証的研究があげられる。その仮説としては、L2熟達度が上がれば、内言は少なくなるというものである。McCafferty内言を対象調整、他者調整、自己調整の三つのカテゴリーに分類し、低‐中級者グループと、高‐中級者から上級者グループからなる2グループの被験者に6枚の絵を提示、ナラティブを録音、書き起こしてコード化した。対象調整はさらに、タスクに不適切なschemataをあてはめようとする試み、ラベル付けをしたり数えたりナラティブのある側面へのコメント、タスクのある要素を完全に把握できていないと感じたため息や笑いや慨嘆、という三つのサブカテゴリーに分類し、他者調整は、研究者または自分自身へ向けられた質問と定義し、自己調整は、自分の混乱を制御していることを示す発話と定義した。
 その結果、低‐中級者グループは、高‐中級者から上級者グループの二倍の内言を産出し、また、対象調整(特にサブカテゴリー2と3)、他者調整、自己調整のすべてにおいて有意差が認められた。この結果はヴィゴツキーのL2学習の文脈に自己中心的ことばが果たす媒介機能を支持するが、熟達度よりもタスクの性質、被験者の動機的性向、文化的背景などの他の要素が関係している可能性もある、ということである。
 やまだ(2008)はバフチンの対話原理を「他者」「差異」「生成」を重視する現代思想につながるとし、生成・変容・両行プロセスとしての対話「生成的対話」概念を提示し、さらに「間テクスト性」「ポリローグ」概念と「ハイパーテクスト」概念と結び付け、「多声テクスト間の生成的対話」を提示した。
 やまだはバフチンの対話原理における「自己」「他者のことば」「ことばの対話性と多声性」「テクスト間の対話」という4つの基本的観点を取り出し論じてはいるものの、内言についてはまったく触れていない。むしろ、ことばそのものが単一の声のようにみえてもポリフォニー的な響きを伴っている、また、対話するのは、もはや「自己と他者」でもなければ、「内なる自己」や「内なる他者」でもなく、「ことば」というものが本質的に「対話性」をもつものである、と論じている。ことばの対話性は、「分裂した(ポリ)(フォ)(二―)
をもち、「同じ一つの言葉を互いに背反しあう様々な声を通して実現する」というのである。また間テクストの働きについて、クリステヴァの詩の分析は「別のテクストを肯定し、かつ否定するという同時的で複雑な行動」による二重化が行われている点で、バフチンの(ポリ)(フォ)(二―)と呼応するとしている。そして、質的研究の方法論の基礎となるネットワークモデルを提案し、それをどのように一般に応用するかを考えている。
 例えばまず、論文の書かれ方として、「目的」「方法」「結果」というリニア・プログレッシブ(線形上昇)思考法からの離脱を提案し、生成的対話テクストとしての論文は、自由連想のような広がりの中で、いくつかの新しい「むすび(結び・産び)」を生み出すようなものも可能だとしている。また「物語」を「時間順序を重視する定義」から「二つ以上の出来事を結びつける」という定義に変え、「テクスト」「引用」「読む」「書く」という概念が複数の断片テクストを相互参照する「トランスクルージョン」という概念に変わり、「自己」「他者」「作者」という概念が霧散し拡散していく、と述べている。
 英語習得も含めた第二言語習得にバフチンの対話原理を基礎と置くならば、内言の実証性についての考察を越えた、拡がりのある研究のパラダイムの転換が必要なのかと改めて考えさせられる。
 
 
参考文献
Johnson, M. (2004). A philosophy of second language acquisition.New Haven/London:  
     Yale University.
McCafferty, S.D. (1998). Nonverbal expression and L2 private speech. Applied    
     Linguistics.19.1 73-96
やまだようこ(2008).「多声テクスト間の生成的対話とネットワークモデル―対話的モデル生成法の理論的基礎」『特集 バフチンの対話理論と質的研究』質的心理学研究 第7号

卒論修論発表会、京都

育てて頂いた大学のM1から連絡をもらったので、応援に行ってきました。

遅れて懐かしい会場に入ろうとすると出てきた

学生も見憶えがあって目で挨拶もし、入ると沢山が覚えてくれていて、

ふるさとに戻ったようでした。



今の大学は博士前期(修士)過程だけでも60人くらい、博士後期課程も

入れると凄い人数、しかも半数は留学生、先生方の数も多くて

顔と名前が一致するのは、同じ授業を取っている人のみ、

という環境です。先輩後輩の上下関係もあまり意識することは

ありません。



それに比べ、今の日本には殆ど失われつつある先輩後輩、そして

師弟関係の温かく厳しい世界がここではまだ息づいている。

会場は大きなホールのような階段教室で、伝統的に3回生が企画、運営を

全部仕切り、打ち上げも毎回心のこもった記念品も先輩達に工夫し、

4回生と院生が苦しみながら卒論修論を書き上げ、きついプレッシャー

の中発表するのを、後輩達が来年、再来年はこうなるのだ、と

緊張の中で見守っています。最後の先生方の講評の時に振り返って

一生懸命に聞いているスーツ姿の学部生達の白い顔、顔、顔。

先生方の父のような母や姉のようなオーラと存在感も凄く、

教育機関というよりは家族です。これはこの一員になったものにしか

体感できないものなんでしょう。



この会はみんなで創っているのだから、ぜひずっと続けて行って下さい、

と今年最後となられるドイツ語の先生のお言葉に、大きくうなずき、

この空間そのものがそれぞれの人生という語りの中で、きっと一つの

大きな物語なんだろう、と思います。



その片隅に場所をもらって、物語の一部となれることが嬉しくほっとしつつ、

ささやかな責任に引き締まる思いでした。



院生は全員無事提出、1人も欠けることなく発表会までこぎつけた

ということ、本当によかったです。ちょっとあざといくらい昨年度

チームワークを強調したのを、どう見ていたのかわからないですが。








2015年2月12日木曜日

春休みの勉強会

科目履修生の時に授業で読ませていただいた本を

春休みに有志の院生で読むことにしました。


研究科でこのような告知をしています。↓↓↓ 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

3月11、18、25日、4月1日(いずれも水曜)13時~14時半に

数人で以下の本を一緒に読もうと思っています。


(図書館に二冊ほどあるようです。)興味おありの方はよろしければ、

お気軽にご参加ください。言語文化研究科以外の方でも

他大学の方でも歓迎いたします。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

分かる人は分かると思いますが、本の情報を貼り付けておきますので、

参加ご希望であれば、お名前、所属、連絡先をコメントでご一報くだされば、

場所など詳細をご案内いたします。

コメントは公開いたしませんので、ご安心を。

http://books.google.co.jp/books/about/Rethinking_Language_Mind_and_World_Dialo.html?id=53i2OCQTVPkC&redir_esc=y

レポート 内言

たった、二ページのレポートでしたが、力が入りました。


なんせ、大事にしておられる「バフチンの対話原理」の言葉の多声性を

仮想の「内言」で論文で表現するやり方について、どうしても納得できないので、

その思いを色んなものを調べてぶつけました。


批判が、非難にならないように気を付けたつもりですが、さてどう受け取られるやら。

とりあえず、二日間こもって、前の大学の授業のレジュメや頂いた論文を

漁りに漁ってしあげました。今見直すと、ほんとうに貴重な資料を沢山

京都教育大の指導教官にいただきました。金曜日、修論発表会で

改めてよくよくお礼を言わなければ。


しかし、疲れた~~!肩凝った~~!


娘がお土産に買ってきてくれたり、お預けにしていた飛騨の「天領」の生酒、

どぶろく、みそ漬けチーズゆず胡椒で、一人で乾杯。


明日は、このレポートを提出、読んで下さるかどうかわからないですが、

今期最後のバフチンカフェ。


レポート後二本、どれも今後の論文のもとになりそうなもので、

おろそかにできないので頑張ります。



2015年2月8日日曜日

テンプル大学発表の感想

発表のタイトルは

Recovery of Otherness in a High-Functioning Autistic Learner Through Second Language Tutorial Sessions

アブストラクトはこんなかんじでした。

The purpose of this research is to visualize recovery of lost otherness
(Miyamoto, Atsumi, Yamori 2012) of a learner of English as second language
during tutorial sessions. The official purpose of teaching and learning English 
announced by MEXT is rearing capable English users for globalization 
but there must be other essential purposes for most of learners 
in junior high and high schools in Japan as only top level students will 
be working globally in their future. The author believes that
one of such purposes is recovery of otherness, 
through which acquisition of second language is possible. Talk-in-interactions between a young highfunctioning autistic English learner
and his tutor during tutorial sessions are analyzed. 
The trait of pragmatic competence in autism is emergence of inflexibility, 
which leads to difficulty in performing perlocutionary acts, 
and comparison of chronological data and data between different frames shows
how otherness lost recovers through development of perlocution. 
 
二日目だったので、昨日PCのチェックがてらいくつかの発表をみると、
 
量的研究がメインでほぼ欧米人の中に日本人がちらほらだったので
 
絶対浮くだろうなあ、と覚悟していきました。が、朝から二番目だったのと
 
一番手も日本人の女性だったので、聴衆は数人の日本の研究者で
 
とても熱心に聞いて下さり、サルトルを出したところで、
 
おお~という反応がちょっと嬉しかったです。
 
 
質問もothernessの定義をもう一度見せてください、という核心をついた
 
もので、自閉症のことも珍しかったのか終わってからのささやき声も
 
興味を引いたのかな、と思いました。
 
 
それから、Conversation Analysisを教えている、という先生が
 
来られて君のプレゼンを聞きたかったんだけど、聞けなくて、と
 
言いつつ、ロンドン大学に自閉症のセラピーのCAをやっている
 
こういう研究者がいるので調べてみるといい、とか教えてくださったり、
 
私の発表を聞いて下さった日本女性の発表もSelf-Regulated Learning Strategy Training,
 
Dynamic Systems Theory Perspectiveとか難しい内容をがんばって
 
されていて面白かったです。
 
 
せっかくなので、残ってCAの先生の発表も聞かせてもらい、
 
眠くてしんどかったですが、充実した一日でした。
 
やっぱり自分は英語をしゃべったり聞いたりするのが
 
好きなんだなあ、と改めて思った次第です。
 
 
楽しかった。おまけに発表した人は論文を投稿してもいい、という
 
ことなので、また目標ができてしまいました。
 
 

Temple university Japan 発表前日

今日はちょっと朝からバタバタしたのですが、

明日の発表のために会場とPCのチェックもあって、

午前中と夕方からテンプル大学の梅田キャンパスに行ってきました。



キャンパスとはいえ、大阪駅の南側、1980年代に建築された

駅前第一~四ビル群の中の一つの一室。ちまたの英会話学校

と間違えそうな、でも学会にいくとまさしく中身はまさしくアカデミックでした。


発表者もオーディエンスもほぼ欧米人で中にバイリンガルの日本人の

先生方がちらほらいらっしゃる、という感じ。久しぶりにこの

感じ、は10年以上前にボストンに行ったときに、わ~、有色人種は一切、

アジア人すらいない、とと思ったのと似ていました。


その状況に浸っている人には気づかない、当たり前の状態に

外部から来たものにはある種のイデオロギーが感じられる典型。




それは英語をやりはじめた子供の時に、感じていたイメージそのままの

アメリカの世界でした。そのあと、高校生の時にアメリカの中西部で一年間、

ホストファミリーとともに暮らしたので、実は、この感じとイデオロギーは

正直居心地いいんです。三つ子の魂百まで、というのはよく言ったもので、

若いころにどんな環境で影響を受けたか、というのは一生抜きがたい。





5つほどプレゼンを聞きました。はじめの二つは、repair,とかrecastなどを

量的に(と言っても母数が少ない)分析したもの、あとは日本の英語教育の歴史を

鎖国から簡単に説明したもの(なかなかえらい)、ICTの最先端codeという

概念でipadを使ってプレゼンの評価をするシステムを考案したもの(日本人女性でした)、

日本の大学でどうやって職を得るか(仲間同士の助け合い)、など。




ここで、サルトルとか談話分析とかいうのも場違いな気がしていましたが、

わりとバラエティに富んでいるので落ち着きました。あと、20分プレゼンし続け

られるか、言いたいことを少しでも受け止めてもらえるか、課題はたくさん

ありますが、とにかくやって砕けろ、という気分。いつもです。

2015年2月5日木曜日

サルトル 「存在と無II 現象学的存在論の試み」

会話分析例の理論的哲学的背景として、サルトルの短い言語論をみつけたので、
日曜日の学会で、はじめて英語で発表しようと焦っています。

日本語版を読み、それをまた英語で捜して苦心惨憺。でも時間があれば、フランス語も読みたい。なんか英語だとわかりやすすぎて軽い感じがして不安。

でもさすが巨人だけあって、びんびんきます。


とりあえず、今書き抜いたところだけ。いっぱいあります。



日本語版 ジャン=ポール・サルトル 『存在と無II 現象学的存在論の試み』松波信三郎訳 筑摩書房  

英語版 Barnes, Hazel E.(Trans.) Being and nothingness - An Essay on Phenomenological Ontology.1957. London: Methuen & Co

 
第三章 他者との具体的な諸関係
Chapter3 Concrete Relations with Others

p367
1.他者に対する第一の態度―愛、言語、マゾヒズム
  First Attitude Toward Others: Love, Language, Masochism

私にとって当てはまることは、すべて、他者にとっても当てはまる。私が他者の支配から私を解放しようとこころみるあいだに、他者は私の支配から彼自身を解放しようとこころみる。
Everything which may be said of me in my relations with the Other applies to me as well. While I attempt to free myself from the hold of the Other, the Other is trying to free himself from mine;while I seek to enslave the Other, the Other seeks to enslave me. (英語版:p364)




ここで問題になっているのは、一つの即自的対象に対する一方的な関係ではなくて、相互的変動的な関係である。それゆえ、以下の記述は、相剋(傍点)conflitのペルスぺクチヴにおいて考察されなければならない。相剋は、対他―存在の根原的な意味である。
 もしわれわれが、まなざし(傍点)としての他者の最初の顕示から出発するならば、われわれは、われわれのとらえられえない対他―存在を、所有(傍点)possessionの形でわれわれが体験するということを、認めないわけにはいかない。私は、他者によって所有される。
We are by no menas dealing with unilateral relations with an object-in-itself, but with reciprocal and moving relations.The following descriptions of concrete behavior must therefore be envisaged within the perspective of conflict.Conflict is the original meaning of being-for-others. 
     If we start with the first revelation of the Other as a look, we must recignize that we experience our inapprehensible being-for others in the form of a possesion.I am possessed by the Other.(英語版:p364)



p368
他者は、私を存在させ、まさにそのことによって、私を所有する。
He makes me be and thereby he possess me, 

意識という資格において、他者は、私にとって、私から私の存在を盗んだ者であると同時に、私の存在というひとつの存在を《そこに存する》ようにさせる者である。
By virtue of consciousnessthe Other is for me simultaneously the one who has stolen my being from me and the one who causes "there to be" a being which is my being.


次のような存在論的構造についての了解
Thus I have a comprehension of this ontological structure:

p368
すなわち、私は私の対他―存在の責任者ではあるが、しかし私は私の対他―存在の根拠であるのではない。そこで、私の対他―存在は、偶然的な所与でありながら私がそれの責任者であるような一つの所与という形で、私にあらわれる。そして他者は、私の存在が《そこに存する》という形で存在するかぎりにおいて、この私の存在を根拠づける。けれども他者は、そのまったき自由において、・・・私の存在を根拠づけるものではあるにせよ、他者は、私の存在の責任者であるのではない。それゆえ、私が、私を、私自身に対して、私の存在の責任者として開示するかぎりにおいて、私は(傍点)、私がそれであるところのこの存在を要求する(傍点)。いいかえれば、私は私がそれであるところのこの存在を、取り戻そうとする。
I am responsible for my being-for-others, but I am not the foundation of it. It appears to me therefore in the form of a contingent given for which I am nevertheless responsible; the Other founds my being in so far as this being is in the form of the "there is." Be he is not responsible for my being although he founds it in complete freedom-in and by means of his free transcendence.(英語版:p364)

p369
・・・また別の意味では、私のこの対象―存在は、私が私自身の根拠であるために私が取り戻さなければならないもの、私が根拠づけなければならないものを、指示するものとして存在する・・・
For if in one sense my being-as-object is an unbearable contingency and the pure "possession" of myself by another, still in another sense this being stands as the indication of what I should be obliged to recover and found inorder to be the foundation of myself.

p369
それゆえ、私自身を取り戻そうとする私の企ては、根本的に他人を再吸収しようとする企てである。
Thus my project of recovering myself is fundamentally a project of absorging the Other.(英語版:p364)

他人は私の存在の根拠であるから、私の対他―存在が消失するのでないかぎり、他人は、私の内に溶解されえないであろう。それゆえ、私が他者との一致を実現しようと企てることは、とりもなおさず、私が、他性としてのかぎりにおける他人の他性を、私自身の可能性として、私のものにしようと企てることである。事実、その場合、私にとって問題なのは、私に対して他人の観点をとる可能性を獲得することによって、私を存在させることである。

・・・むしろ、反対に、他人を具体的に経験的に実感的に体験する際に、私は、絶対的実在としてのこの具体的な他人を、その他性のまま、私に合体させようとする。

p370
要するに、私は、他人の「まなざしを向ける自由」を私の面前に維持するために、私の「まなざしを向けられている存在」に、全面的に私を同化させる。私の対象―存在は私と他人との唯一可能な関係であるから、ただ私のこの対象―存在のみが、他人の自由(傍点)を私のものにしようとするときに、私にとって用具として役立つことができる。

自己自身に対して他者であること―自己自身に対してこの他者(傍点)であるという形でつねに具体的にめざされる理想―は他者との諸関係の第一の価値である。

他者との合一は、事実上、実現されえないものである。・・・なぜなら、同一の超越の内に対自と他者とが同化するならば、その結果、必然的に、他者のもつ他という性格は、消滅してしまうであろうからである。


p373
他者の自由は、私にもろもろの価値を付与しもするし、私からもろもろの価値を除き去りもする。私の存在は、他者の自由から、普段の受動的な「自己からの脱出」を、受けとる。



p388

誘惑することによって、私は、私を一つの存在充実として構成し、私をかかる存在充実として認めさせ(傍点)ようとめざす。そのために、私は、私を有意味的な対象として構成する。

けれども、私の諸行為は、二つの方向において、指示する(傍点)はずである。
My acts must point in two directions:(英語版 :p372)

一方は、あやまって主観性と呼ばれている方向であるが、これはむしろ対象的な隠された存在の深さである。・・・
On the one hand, toward that which is wrongly called subjectivity and which is rather a depth of objective and hidden being;

他方、私の諸行為のおのおのは、可能―世界の最大の厚みを指示しようとし、世界の最も広大な地域に結び付けられたものとして私を提示するはずである。
On the other hand, each of my acts tries to point to the great density of possible-world and must present me as bound to the vastest regions of the world.

ただし、その場合、私は相手に世界を提示し(傍点)、私が、相手と世界とのあいだの必要な仲介者として私を構成しようとすることもあるし、あるいは、ただ単に、私は私の諸行為によって、世界に対する無限に多様な能力(金銭、権力、縁故、等々)を示すこともある。
At the same time I present the world to the beloved, and I try to constitute myself as the necessary intermediary between her and the world; I manifest by my acts infinitely varied examples of my power over the world (money, position, "connections," ect.)

第一の方向において、私は、私を、無限の深さとして構成しようとし、第二の方向において、私は、私を、世界に同化させようとする。In the first case I try to constitute myself as an infinity of depth, in the second case to identify myself with the world.


p389
それらの種々なる表現上の試みは言語を前提とする(傍点)、と言う人もあろう。
Someone may observe that these various attempts at expression presuppose language.(英語版:p372)

それらの試みが言語である(傍点)。あるいは言うならば、それらの試みが言語の根本的様相の一つである。
We shall not disagree with this. But we shall say rather that they are language or , if you prefer, a fundamental mode of language.
なぜなら、個々の(傍点)言語の存在や習得や仕様などに関しては、心理的歴史的な諸問題があるにもかかわらず、いわゆる言語の発明と言う事実に関しては、何ら特殊な問題は存しないからである。
For while psychological and historical problems exist with regard to the existence, the learning and the use of a particlar language, there is no special problem concerning what is called the discovery or invention of language.

言語は、「対他―存在」にあとから付加される一つの現象ではない。言語は、根源的に「対他―存在」である(傍点)。いいかえれば、言語は、一つの主観性が他人にとって対象として体験されるという事実である。
Language is not a phenomenon added on to being-for-others. It is originally being-for-others; that is , it is the fact that a subjectivity experiences tself as an object for the Other.


単なる諸対象の世界においては、言語は、決して《発明され》えないであろう。というのも、言語は、根源的に、他の一つの主観との何らかの関係を前提とするからである。
In a universe of pure objects laguage could under no circumstances have been "invented" since it presupposes an original relation to another subject.

しかるに、もろもろの「対他」たちの相互主観性においては、言語をあらためて発明する必要はない。なぜなら言語は、他人を認知するときに、すでに与えられているからである。
In the ntersubjectivity of the for-others, it is not necessary to invent language because it is already given in the recognition of the Other.

私が何をなすにせよ、自由に考案され実行された私の諸行為、私の諸可能性へむかってのもろもろの投企は、外に、私から脱れ出る一つの意味を、しかも私が経験する一つの意味をもっているのであるが、ただそれだけの事実からして、私は言語である(傍点)。[私は言語を存在する(傍点)]。
I am language.By the sole fact that whatever I may do, my acts freely conceived and executed, my projects launched toward my possibilities have ouseide of them a meaning which excapes me and which I experience.


その意味において―ただ、その意味においてのみ―ハイデッガーが「私は、私の言うところのものである(傍点)」Je suis ce que je dis.[Ich bin was ich sage.]と言明しているのは正しい。
It is in this sense--and in this sense only--that Heidegger is right in declaring that I am what I say.(英語版:p373)



事実、かかる言語は、人間という出来上がった被造物の一つの本能であるのでもないし、われわれの主観性の一つの発明であるのでもない。そうかといって、《現存在》Daseinの単なる《脱―自―存在》etre-hors-de-soi[Ausser-sich-Sein]に、この言語を帰してもならない。
Language is not an instinct of the constituted human creature, nor is it an invention of our subjectivity, But neither does it need to be referred to the pure"being-outside-of-self" of the Dasein.


言語は、人間的条件(傍点)condition humaineの一部をなしている。言語は、根源的には、一つの対自が自己の「対他―存在」について為しうる体験である。しかるのちにはじめて、言語は、この体験の超出であり、私の諸可能性であるような諸可能性へ向かっての、すなわち他者のとって「このもの」もしくは「あのもの」であるという私の諸可能性へ向かっての、この体験の利用である。
It forms part of the human condition; it is originally the proof which a for-itself can make of its being-for-others, and finally it is the surpassing of this proof and the utilization of it toward possibilities which are my possibilities; that is, toward my possibilities of being this or that for the Other.



それゆえ、言語は他者の存在の承認と別のことではない。私の面前における「まなざし」としての他人の出現は、私の存在の条件としての言語を、出現させる。この原初的な言語は、必ずしも誘惑ではない。
Language is therefore not distinct from the recognition of the Other's existence.The Other's upsurge confronting me as a look makes language arise as the condition of my being.This primitive language is not necessarily seduction; 


p391
われわれがさきに指摘したように、他者の面前における原初的な態度なるものは、そもそも存在しない。そこでは、二つの態度が循環的に入れ替わり、一方が他方を含む。

いうまでもないが、われわれがここで言語と言っているのは、すべての表現的現象を意味しているのであって、必ずしも口に出して言われたことばを意味するのではない。口に出して言われたことばは、派生的副次的様相であって、それの現われは歴史的研究の対象となりうるものである。ことに誘惑においては、言語は認識させる(傍点)donner a connaitreことを目指すのではなく、体験させるfaire epouverことを目指すのである。
Of course by language we mean all the phenomena of expression and not the articulated word, which is a derived and secondary mode whose appearance can be made the object of an historical study.Especially in seduction language deos not aim at giving to be known but at causeing to experience.

P392

私の表現していることが現実に他者にとってなんであるかを知るすべもないので、私は、私の言語を、私の外への逃亡という一つの不完全な現象として、構成する。
For lack of knowing what I actually express for the Other, I constitute my language as an incomplete phenomenon of flight outside myself.(英語版:p373)

他者は、言語にその意味を与える者として、つねにそこに現前しており、つねにそこに体験される。一つ一つの表現、一つ一つのしぐさ、一つ一つのことばは、私の方では、他者という他有化する実在についての具体的な体験である。《誰かが私の思想を盗む》たとえば、憑依妄想の場合のように―と言いうるのは、単に精神病者だけではない。むしろ、表現の事実そのものが一つの思想掠奪である。