2016年12月21日水曜日

なんとでもなる

昔、高校生の時に留学のチャンスがあって、行きたい一心で


自分で応募書類を書いて、試験を受けて一次二次とどんどんどんどん


突き進んでいきました。




それで受かったときに、これぐらい費用がかかるという現実を


突き付けられて、子どもなのでそれが親にとってどれぐらいの負担なのかも


わからずに、どうしよう、と思い、それほど裕福な家庭環境でも


なく、色々きりつめていたりしているのを知っていたので、


恐る恐る親に言ったところ、父がきっぱりとそれぐらいの金は


なんとでもなる、と言った一言に大きい安堵感があったのを覚えています。


今認知症が進んでいて、ぼやぼやしている父ですが、


あのときはお父さん、さすがお父さんや、と思いました。




今考えると、当時のお金で当時の国立の大学に三年分の学費くらいの


費用だったので、親にしてみると大学に進学させるだけの貯金を


前倒ししてくれたのかもしれません。




母もまったく不安がらずに、いったん合格するとすべて私を


サポートして送り出してくれました。海外など父の出張で少しロシア


に行ったことがあるぐらいなのに、あの時代、よく私を信頼して


一年も知らない国に行かせてくれたもんだと思います。


今でも母は年老いた大叔母が先行きのことを心配すると、


それは今心配してもしょうがない、なんとでもなる、と言います。




今日、娘が自分が決めようとしたことがあって、先方から


確かめられたらしく、行った先から、ママは経済的にどんな状態なの、


と心細そうに電話をかけてきました。




でも、絶対に、それはなんとでもなる、と思ったのでそう言いました。




何か人生でこれはどうしてもやりたいということがあれば、


後は絶対になんとかなる、という根拠のない確信は自分が


これまで親をはじめいろんな人にその思いを支えてもらった


からだな、と改めて感じます。




一番大きな問題は、どうしてもこれがやりたい、と思えないことです。




何があっても、娘の思いを支えることができる、とまた根拠のない確信を


持ってしまいました。




自分も、どうしてもこの考えを博士論文として結実させる、という気持ちが


なければ、自分が心から納得しなければ書くことはできないなあ、


と娘の声から改めて思いました。
また、過去から家族から後押ししてもらいました。ありがとう。



















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