2014年9月2日火曜日

W.J. オング 『声の文化と文字の文化』

 一冊の本を読んで、その書評を書く、ということをしたいのですが、

なかなかむずかしい。表題の本を、今月半ばの合宿で購読することになっていて、

読了。歴史とからんでいて、とても面白かったです。文字の浸透していない文化、

声が中心の文化、の特徴がよくわかりました。普段、子供と接しているのでその発達

段階、いわゆる系統発生が個体発生とよく通じるという話だと思いました。

 とりあえず、自分の担当、第四章前半のレジュメを用意したので、興味のある方はご参考まで。

Domesday Bookについての英文の引用は、インターネット上で英国のナショナル・アーカイヴから

です。このホームページも時間あれば、じっくり読むと面白そうです。



『声の文化と文字の文化』 W.J.オング(桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳)藤原書店

第四章 書くことは意識の構造を変える p166~209
 
それだけで独立した話しという新しい世界(p166~)
読み書きが身についた人間とは、書くという技術によって直接ないし間接的に構造化された力からその思考過程が生じているような人間である。
「コンテクストをもたない」言語(Hirsch 1977, pp21-3,26)「それだけで独立した」話し'autonomous'discourse(Olson 1980a)は、書くことによって確立した。
書物は、ある発話をその発生源、つまり、その書物をほんとうに「語った」者、あるいは書いた者からひきつぐ
 
プラトン、書くこと、コンピューター(p167~)
プラトンは『パイドロス』(274-7)『第七書簡』の中で書くことにたいして反論している。
1.現実には精神のなかにしかありえないものを精神の外にうちたてようとする点で、書くことは非人間的
2.書くことは記憶を破壊する、精神から仕事を取り去る
3. 書かれたテクストはなにも応答しない
4.書かれたものは、現実の人間どうしのやりとりのコンテクストから離れ、非現実的、非自然的な世界の中で受け見になっている
以上はコンピューターや印刷についてもあてはまる。書くことも印刷もコンピューターもすべてことばを技術化するための方法である。いったんことばが技術化されると、その技術によってなしとげられたことを批判するためにも、最先端の技術のたすけを借りるほかはなくなる。
プラトンの哲学における分析的な思考は、書くことが心的過程におよぼし始めていた影響があってはじめて可能になった。
本来話されるものであることばと、技術がことばにもたらしたすべての変容とのあいだには、いくつかの逆説がある。例えば、書くことは、死と密接なつながりをもつ。死んだテキストが、耐久性を手に入れ、その結果、潜在的には無数の生きた読者の手で、数かぎりない生きたコンテクストのなかによみがえるための力を手にいれる。
 
書くことは技術である p172~)
書くことは、三つの技術〔書くこと、印刷、コンピューター〕のうちで、ある意味で、もっとも激しい変化をもたらした。印刷術とコンピューターは書くことが始めたことを継続しているにすぎない。
書くことという技術は、たえず動いている音声を、静止した空間に還元し、話されることばがそこでしか存在できない生きた現在からことばを引き離すということである。
p174
話されることばを書かれたものに置きかえる過程は、意識的に適用される明言可能な規則によって支配されている。書くことは、人間の内的な潜在力を十分に実現するためになくてなならないものである。技術とは、たんに外的なたすけになるだけのものではなく、意識を内的に変化させるもの・・・そうした変化は向上ともなりうる。書くことは、意識を高める。
p175
技術は人工的である。人工的であることは、人間にとって自然なのである。技術も、適切な仕方で内面化されるならば、人間の生活の価値を低めはせず、反対に、それを高める。
p176
道具をみずからの一部とし、技術的なわざを学習することによって、人間が非人間的になるということはまずない。むしろ、技術の使用によって、人間のこころは豊かになり、人間の精神は広がり、その内的な生は密度を濃くすることができる。
 
「書かれたもの」ないし「スクリプト」とはなにか p176~)
記号論的なしるし、つまり、ある個体〔個人〕がそれをつくり、それになんらかの意味をあたえている視覚的なしるし、あるいは、ほかの感覚でとらえうるしるしを「書かれたもの」のなかに数えいれることも、もちろん可能である。だが、「書かれたもの」という語をこのように広い意味で用いてあらゆる記号論的なしるしづけを含ませることは、その語の意味を些末化してしまう。
新しい知識の世界への危機的で前代未聞の突入が人間の意識の内部でなしとげられたのは、たんに記号論的なしるしづけが考案されたときではなく、視覚的なしるしのコード体系が発明され、それによって、読み手がそのテクストからとりだすであろうことばをあらかじめ書き手がまちがいなく決定することができるようになったときである。
これこそ、その正確に限定した意味において、われわれが今日ふつうに「書かれたもの〔書くこと〕writing」と呼んでいるもの〔こと〕である。
 
書かれたもの〔スクリプト〕は多いが、アルファベットはただ一つ p180~)
p188
ギリシア人が母音をもった最初の完全なアルファベットを発展させたとき、かれらは、心理的に重大なことをなしとげたように思われる。
音から視覚対象へのことばのこの決定的な、あるいはむしろ、全面的な変容によって、古代ギリシア文化は、他の古代諸文化に対する知的な優位を手にいれたのである。
p191
アルファベットは、たぶんその起源は絵文字だとしても、事物としての事物とのつながりをすべて失っている。アルファベットは、音そのものを一つの事物として表示し、うつろいゆく音の世界を、静止し半永久的な空間の世界に変形する
文字文化のはじまり p193~)
ある特定の社会の中にはじめて書かれたものが持ち込まれたとき、しばしば、秘められた魔術的な力を持つ道具として考えられる。
少数の人間だけが読み書きできる社会では、書かれたものは危険であり、読み手をテクストとを仲介する導師が必要であると考えられている。また、テキストそれ自体が宗教的な価値をになっていると感じられることもある。
「職人文字文化」(craft literacy)の段階―書くことは、ある職人たちが従事する一つの職業であり彼らは手紙や記録を書くときに雇われる。
この段階がのりこえられて、ようやくプラトンの時代にギリシアでは書くことがひとびとのあいだにいきわたる。
筆記技術の低い水準(乾く前の粘土板、動物の皮革、樹皮、ロウ板、鉄筆、ガチョウの羽)←扱いには特殊な技術が必要。
「口述筆記」声の文化に由来する根強い習慣
書きながら文章を練るやりかたが現れたのは十一世紀はじめのイギリス、だが、声にだして自分が語っていると想像しながら書くというように、まだかなり声の文化をひきずった心理的枠組みの中でおこなわれた。
その後、みずからのことばを紙のうえで作者がつなぎあわせているような文章があらわれる。このとき、思考は、声の文化によって支えられた思考とは異なった輪郭をとるようになる。
 
記憶から書かれた記録へ p199~)
初期は書かれた記録に信用がおかれていなかった。
多数の人間の口頭での証言のほうがテキストよりもいっそう信用のおけるものだった。テキストは問いただしたり、反論させたりできないが、証言に対してはできる。
文字にもとづく文化の中でも遅れて発達した公証人方式でさえも、本物かどうかは、なんらかの象徴的なものによって証明されることがしばしばであった。
 
 
Domesday Book
At Christmas 1085, intent on knowing more about the land he had reigned over for
 nearly twenty years, William commissioned the survey that became known as 
Domesday Book. The survey was much more than a means to satisfy William’s fascination
 with his new kingdom. It recorded the value of land he held personally and that held
 by
 his tenants-in-chief. Where there were disputes over land it helped settle disagreements. At a time
 when England was again under threat of invasion, this time from Denmark, 
finances
 and men to support his campaigns were crucial. Domesday provided an estimate
 of 
the taxation William could expect to receive and the military service he
 could 
demand from his lords. 
 
とともに、書かれた文書の量が増大していくが、かつての声の文化に根差した精神の状態は根強く残っていた。イギリスの初期の土地譲渡証書にはもともと日付がなかった。←人びとは、自分たちの生活の一瞬一瞬が、抽象的に計算される時間のようなもののなかに位置づけられているとは思っていなかった。抽象的な暦のうえでの年数は、現実の生活にはなんのかかわりもなかった。
証書が本物かどうかはその見かけで判定され、たえず偽造された。
声の文化が機能しているところでは、人々は、過去を項目化itemizedされた領域とは感じていず、過去は祖先たちの領域であり、現在の生活への意識を更新するためにふりかえってそこから教訓をくみとる源泉なのである。
現代の生活それ自体も、項目化された領域でなく、リスト、チャート、図版はない。
表やリストのもつ認識論的な意味をグディがこまかく検討。
→一時的な声の文化においては、物語の中におかれ、ことばの累積が形成される(決まり文句を使う、ことばのつりあいを利用する)が、時間のなかで生じることがらであって「検証する(examine)」ことは不可能
→テクストは、もののように、視覚空間のなかで不動であり、「後ろ向きの通覧backward scanning」を受けいれる。(人類学者のリストは、その神話自身の生命がそこにこそあるはずの心的な世界を実際はゆがめている。)
テクストにおける垂直方向と水平方向の意味は研究する価値がある。テクストは、発話を人間身体になぞらえている。
あたまheading章chapter 人間同様の頭―ラテン語の「カプットcaput」に由来脚注footnoteテクストの「上above」「下below」を参照
リストやチャートの広汎な使用は、印刷が深くわれわれのこころに内面化されたことの結果である。



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