先日のCJP合宿の時に、話題になったのが、表題の所与性、という
ことでした。日本語の小難しい論文でも所与の何々、という言葉を
みかけることがあって、あまりよく消化しないまま来ていましたが、
この半年間、色々読ませていただいているうちになんとなくわかったような
気がします。
自分の拙い理解では、例えば、「わたし」が今こうしてこうある、というのは
与えられたもの。私個人で言えば、ジェンダー、年齢に始まり、たまたま
家に本が沢山あって読んでいた、とかこういう両親に育てられたとか、
兄弟姉妹の中の自分のポジション、大阪に生まれその郊外で育ったとか、
育った時代、見聞きしたもの、中学校に入る前にたまたまラジオを聞いて
その番組がはまって英語が得意になったとか、そういう環境、嗜好、性格
ものの見方、日本人として生まれたこと、とかすべてが所与のもので
あってそれから逃れることはできない。
研究者としても活動家としても教師としてもそれを考慮に入れる、
とかしないといけない、というようなことだったと思います。
それはもっと大きい話で、それに反論して、今この目の前に難民が
いるからなんとか助けなきゃ、所与性がなんとかとか言っている
場合ではない、という人もいましたが、まず、その難民、という概念が
そもそも所与のものなのだ、と言われていました。当事者からしたら、
難民、ではないのかもしれないし。
所与性があって、その人それぞれの現実がある、という、客観的な
現実と言うものはないのだ、という話だったと思います。
なんか、目からうろこが落ちたようなそんなきっかけになった議論でした。
あとから、メールで、すべて所与のものだ、と言われたとき、いつも
それならどうしたらいいんだ、と逆切れしていましたが、所与なら
変えてもいいんだ、と思い返したら救いがあるような気がする、
と言ってこられた人もいました。
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