2014年9月22日月曜日

所与性

先日のCJP合宿の時に、話題になったのが、表題の所与性、という

ことでした。日本語の小難しい論文でも所与の何々、という言葉を

みかけることがあって、あまりよく消化しないまま来ていましたが、

この半年間、色々読ませていただいているうちになんとなくわかったような

気がします。


自分の拙い理解では、例えば、「わたし」が今こうしてこうある、というのは

与えられたもの。私個人で言えば、ジェンダー、年齢に始まり、たまたま

家に本が沢山あって読んでいた、とかこういう両親に育てられたとか、

兄弟姉妹の中の自分のポジション、大阪に生まれその郊外で育ったとか、

育った時代、見聞きしたもの、中学校に入る前にたまたまラジオを聞いて

その番組がはまって英語が得意になったとか、そういう環境、嗜好、性格

ものの見方、日本人として生まれたこと、とかすべてが所与のもので

あってそれから逃れることはできない。


研究者としても活動家としても教師としてもそれを考慮に入れる、

とかしないといけない、というようなことだったと思います。


それはもっと大きい話で、それに反論して、今この目の前に難民が

いるからなんとか助けなきゃ、所与性がなんとかとか言っている

場合ではない、という人もいましたが、まず、その難民、という概念が

そもそも所与のものなのだ、と言われていました。当事者からしたら、

難民、ではないのかもしれないし。



所与性があって、その人それぞれの現実がある、という、客観的な

現実と言うものはないのだ、という話だったと思います。



なんか、目からうろこが落ちたようなそんなきっかけになった議論でした。


あとから、メールで、すべて所与のものだ、と言われたとき、いつも

それならどうしたらいいんだ、と逆切れしていましたが、所与なら

変えてもいいんだ、と思い返したら救いがあるような気がする、

と言ってこられた人もいました。




0 件のコメント:

コメントを投稿