2014年2月17日月曜日

ドゥルーズー解けない問いを生きる 続き


2  世界とは何か

[1]問題としての世界

 p58
ドゥルーズは、こうした未決定の力を、基本的には<差異化の運動>として描いていく。

差異化や微分をもちだすことの本質的な意味は、世界を「問題」として捉えることにある。

ドゥルーズは、問題とは解かれるものではなく、創造されるべきものであると述べる。

その都度さまざまな状況に立ち向かい、そこで適切な問題を設定することが、歴史にいける行為である。歴史が進展するならば、何らかの解答が与えられるだろう。


p61

ドゥルーズ(ベルクソン)は生命とは、問題を提起する能力のことだと考える。眼をつくりだす生命の働きとは、光に対応するための問題の創造のことだというのである。そしてその問題に答えるために、背生命は色々なかたちを模索する。できあがった眼は、問題にたいするひとつの解答であるだろう。

・・・与えられた解決(=かたちとしての眼)はいつも暫定的でしかありえない。生命の本質とは、できあがった器官=眼にあるのではない。むしろ眼という問題を設定し、状況に応じて解答を与え、なおかつ問題を発しつづけていく。その力にこそあるのである

p66

・・・進化の現場はどこにあるのだろうか。それは、進化が具体的に現れた個別の生命体ではないだろう。個別の生命体は、いわば進化の結果でしかないからだ。
 出来事としての進化は、見えない力の領域にありつづける。生成が現在という視点を避けるように、進化という出来事もまた現在という定点からは逃れている。それは、いまだ分化せず、何ものとも規定できない卵のなかでうごめいている。

・・・いわば出来事とは、そうした未決定性のなかから、かたちへと向かっていく動きが生じてくることではないか。

p67 
 ドゥルーズは、出来事を論じるときに、とりわけライプニッツに言及する。

 
 ライプニッツは、モナドロジーという独自の多元論的哲学をつくりあげた、十七世紀の思想家である。


 ライプニッツの業績を考えるときは、ドイツ観念論の思想家であるヘーゲルが大きな参照項になるだろう。

p68

 ・・・ドゥルーズは、ヘーゲルをあっさりと退けるのとは正反対に、ライプニッツの議論を、いわばアイデアの宝庫として積極的に評価する。

 
 ライプニッツはこう考える。現実がいまあるあり方とは、それがありうる唯一の姿ではない。私は何かの行為をしたが、それをしなかったこともありうる。それをしなかったべつの世界があって、それが現実であってもよかったはずだ。・・・だからこの世界の現実とは、さまざまな世界の多元性のなかで、ある世界が選びとられたものである。

・・・ライプニッツは、世界の多元性を認めながら、それを共立可能性(矛盾せずに多様な事象が存立するあり方)や最善(多元性のなかでもっとも価値的な評価の高いものをえらぶこと)という仕方でひとつのあり方に収斂させようとする。

p70
 ドゥルーズによれば、・・・現在から逃れ、真偽の枠組みを超えた問題の力をとりだすためには、矛盾のない共立可能性によって支えられる世界ではなく、そこへまとめられていく以前の、ありのままの力の様態を描かなくてはならない。

 たとえばそれは、ルイス・キャロル的なパラドックスに充ちた世界である。つまり、アリスが同時に大きくもなり小さくもなるような、パラドックスの世界である。

・・・生成に触れるとき、われわれに見える世界の一歩下には、こうした不条理性が渦巻いている。だがこうした不条理性は、世界の無意味さを露呈させるためのものではない。逆に世界が先に進んでいく力のような、多様なものの共存をあばきたてるためのものである。

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(これは活動の中の矛盾に通じるものがあるのでは?  ri)


[3] 個体化と分化のプロセス

p72

・・・卵は潜在的な力を引き受けながら、ある形態へと自己展開するのである。それは、潜在的な見えない力が、見えるものになっていく分化の過程のことである。
こうした事情は、差異化する力が分化を果たしながら、感性的に現出するプロセスとして記述される。

p73
 ドゥルーズによれば、分化において現れてくるもの(=<かたち>であるもの)は「種」と「有機体の諸部分」である。・・・「種」とは、たとえばある生命が「人間」であること、そのような仕方での一般性・・・「諸部分」とはそうした「人間」としてのかたちをとった、個別的に述べられる生命の諸器官のすがた・・・<私>や<自我>という存在もまた、ドゥルーズによれば、分化の果てに見いだされるものである。

p74
システムと個体

世界をシステムとしてとらえること・・一般的に・・拒絶的な意見

つまり、個体をシステムの展開において把握するならば、それはシステムに従属するだけのものとなり、個体としての価値を失うのではないか、というものである。



・・・これに対し、個体をはじめからシステムに絡めとられない中心とみなす発想もあるだろう。全体的なシステムに抗して、その固有性をきわだたせるのが個体であるという着想・・・
 しかし、それもまた危険な考え方であるだろう。


 ドゥルーズの論じる個体とは、それぞれが差異を表現することにおいてシステムの個体である。

p77
特異的なものである個体

一枚として同じ葉はないし、一滴として同じ海の水はない。一人として同じ<私>はいないのである。それは、葉や水滴や私が、はじめから独自な中心をなしているからではない。それらすべては、システムがもつ生成を、それぞれに表現する個体だからである。問題に対して、それぞれの答えをそれぞれに探っている個体だからである


               
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                (わかった!なるほど、そういうこと!! ri)


・・・同一の本質など、どこにもない。ドゥルーズの描くイデアの世界は、同一の本質を消し去る生成の世界である。・・・それぞれが固有の問題の引き受け方であるために、それぞれの葉は、それぞれが何かの葉という理念=問題を、積極的に担うのである。誰もが差異をもつ異なった個人であるがゆえに、そのひとりひとりの個人が、われわれとは何かという理念をつくりあげるのである。
 特異な個体が未決定的なシステムを支えていく、そうしたシステム論が描かれなくてはならない。多様に分散し、それぞれが異なった個体によって、世界がつくりあげられていることを肯定する存在論が構想されなければならない。

p79

3 時間と何か

 三つの時間とは、つぎのようなものである。

 第一の時間は、拡がりをもった現在である。それは点としてのいまが、過去と未来とを有機的に結び付け、それを一繋がりのものとして組織しながら、生き生きとした連携を繰り拡げる現在の時間のことである。

 第二の時間とは過去である。それは、現在の拡がりを支える純粋な過去の存在であるが、最終的にこの時間は、現在と過去とが依存しあう円環のように描かれていく。

 第三の時間は、未来の時間である。ドゥルーズは、生成にかかわるこの時間を、蝶番のはずれた時間とも、亀裂の入った時間とも表現する。・・・こうした直線的な時間の姿を、ドゥルーズは空虚な形式の時間と記述しもする。



では、第三の時間とは何なのか。・・・
 この時間をドゥルーズは、先の二つの時間と対比させながら、蝶番のはずれた時間、狂った時間、脱根拠の時間であると記述していく。それは、・・・現在という中心への連関も、、、、、現在と過去とがもつ相互依存的な円環をも破棄しながら、ひたすら先に突き進む時間の姿である、・・・

 空虚な形式としての時間、直線としての時間とは、ひたすら無限に伸び拡がり、回帰することのない時間のことである。つぎつぎと新たなものが現れて、どこにもまとまっていくことのない、そうした生成のなまなましさをあらわす時間のことである。そこで直線や順序とは、無限を一気に見通しうること、無限の流れを一挙につかみながら、生成のなかに潜在的に入り込んでいくことの、ひとつの表現・・・


p85

時間と情動

ドゥルーズは、<感じる>ということに、つまりは情動性というテーマに特別な価値を置いていく。<私は感じる>という情動のあり方が、俯瞰のなかに投げ込まれ、生成を生きることの具体的な内容をなすというのである。


・・・第一の時間と第二の時間とは、あくまでも、こうした分化の場面にある<私>を描くことに収まっていく。
 ところが未来の時間であり、予見不可能な生成をあらわにさせる第三の時間とは、まさに、こうした同一性を突き崩すためにもちだされる時間である。

・・・生成の中に入り込むこととは、いつも予見不可能な新しさとの出会いにさらされることでもあるからだ。しかしそもそも新たなものとは、はじめから何かとしても知覚しえないし、真偽も規定できないものである。そこでは、視点である<私>は突き崩されてしまい、<私>の内容をなす既存の枠組みも揺るがされていく。
 だから、第三の時間で描かれる状況をいいあらわそうとするならば、それは、ひたすらに見ること、ひたすらに感じることとしか表現できないだろう。与えられるものに対して、刺激―反応系(=週刊化された働き)に収まるような、適切な応答をとれないこと、そこで審議も内容も描けない新しさを、ただ受動的に被ること、未来という時間性が切りひらくこの場面は、まさに受苦という訳語すらあてはめうるような、パッション=情動の位相なのである。

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            (ヴィゴツキーのいわゆるペレジバーニャ心的体験?  ri)

 ・・・引き裂かれた<私>、直接流れにされされてある<私>とは、まさに生成を引き受ける個体そのもののこと・・・

・・・個体は、それに与えられた独自な力を示すというよりも、この世界を成立させる流れのなかで、自己同一性をあらかじめ設定することもなく、特異に浮かびあがるものである。

 圧倒的な生成の流れを、まさに中心的な現在を欠くように生ききる個体であること。それは、流れをひたすら被りつづける受動的な情動として描かれる。


Ⅲ <私>ではない<個体>が生きること 結論に代えて

p90
ドゥルーズの倫理

ドゥルーズから導かれる倫理(行為と生き方の原理を論じること)・・・差異や多様性を肯定すること。主体の同一性にとらわれず、さまざまな方向に分散する生をきらめかせること。

・・・―内在の存在論を外にひらいていき、哲学以外の言説とリンクさせるドゥルーズ―

p91
 『アンチ・オイディプス』は、精神分析批判からはじめて、無意識の心的システムを描く議論を、世界史的な国家の成立にまで引き延ばしていく拡がりをもつ。『千のプラトー』になると、地質学、生命科学、人類学、言語学すべてを包括する、まさにコスモロジックな記述がたたきつけるようになされていく。

p92

個体と生

ドゥルーズの個体の議論には、率直に考えて、倫理についてのメッセージがはらまれている・・・

・・・<私>とは、出来事を引き受ける個体を前提にして、それが分化した位相にすぎない。

・・・<私>とは何か、<私>はどうあるべきか、という議論は意味を失う・・・

・・・個体の倫理を考えるためには、つぎの二つのことに減収しなければならない。

 ひとつには、個体が生成に深く結びついていることである。

・・・個体は、<私>のように、あらかじめ設定された同一性や中心をもつものではない。個体には、そのあり方を支える固有性や、無前提的に独自のものとして設定される内面性はないのである。
 しかし他方、個体とは、それ自身として特異なものと記述される。

p94
 ドゥルーズの述べる個体とは、あくまでもシステムの個体である。それが特異であるのは、個体の存在が、それぞれ偏った仕方でシステムのあることを支えるからである。<私>のかけがえのなさなど、流れていくシステムへとすっかり溶け込ませてしまえばよい。


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  (これは、あまりにも冷たい、あたたかみのない、人間味や情のない言い方ではないか?ドゥルーズそれでいいのか? ri)


p95

 共同体の倫理、間主観性の倫理、他者(を歓待すること)の倫理、死に向かう倫理・・・これらは確かに、<私>ではないものの倫理を示そうとする。そこでは<私>という中心性や固有性は排除されている。だが、それらはいずれも、ドゥルーズからみいだされる個体の倫理とは、鋭い対比をなすものでしかない。

p96

 非人称的な決定項(共同性・間主観的なシステム)があって、個体はそれに従属するのではないのである。

ドゥルーズが描くのは、あくまでも個体の分散する世界である。個体の特異性において、全体として想定されがちなシステムを支えるような世界である。・・・価値は分散した個体の側からしか生じない。

個体の倫理は、共同性も他者も死も中心化しはしない

p97

ドゥルーズのポジティヴな議論において、他者の他性や死という、否定的であることにより力を与えられる対象は、生成の原理としてもちだせない…

極端な自己中心性と徹底した他者中心性、揺るぎない利己主義と無償の利他主義、これらはほとんど同じ構造をもつ・・・

 死についても同じようにいえる・・・死そのものがもつ不在の強さ(脅し)を利用して、そこに〈私〉の中心性を投影するものにしかなりえない。
   利己的な言説と利他的な言説、自己への固執を述べる倫理と死の方向から照らしだされる倫理とは、奇妙にも似通い、ほとんどかさなりあってしまう。単純にいえば、それらは純粋性という観点から酷似するのである。

純粋に倫理的な主張ほど(そしてそれが正義に基づくといわれればいわれるほど)、とめどない暴力の源泉になりはしないか。


p100

個体の倫理と生命

「人間」のパラダイムが崩壊しても、依然として〈ひと〉は生きつづける。

…生命であるかぎり、…ハイブリッドさをもちあわせ、不定に漂うもの…

…諸科学が、生命の多様性や進化を検討するなかで、むしろそうした不定さやハイブリッドさに直面し、そこに逢着せざるをえない状況が露呈されていくならば、それは〈ひと〉の個体の生にとって、どのような意味をもつのだろうか。

p101

生命の政治的思考

『性の歴史』において〈生ー政治学〉という権力の新たな図式を示すフーコーは、生命のように流動的な、権力の存立様式を描いていく。

 あらゆる行為は、幾分かは権力的であり、幾分かは反権力的である。言説を利用し、権力の空間にいる誰もが権力者であり、誰もが非権力者である。

抑圧とは、抑圧に反抗するというポーズをとれば自分が正義であると居直れるものにとって、都合のよい語り方にすぎないとすら述べられる。

 フーコーは『監獄の誕生』で〈非行性〉というカテゴリーを記述するが、それは一見、権力に反抗するようにみえながら、実際には権力がもっとも巧みに味方につけるものとして描かれる。

・・・生ー権力において、権力が果たすべきことは、殺さずに生かしつづけることである。

まさにアメーバのように、融通無碍にかたちをかえながら細部にまで浸透していく、生命そのものの姿に密着した権力の思考。


トラウマや抑圧から歴史や政治を語らないこと。しかしそこにおいてこそ、差異の政治学のあるべき姿を描きだしていくこと。

p105
個体とは偏ったものである。

中心的な軸を欠きながら、異種のものともさまざまに結びつく生。そこでは、守ろうとして固執する貧相な自己はない。神経症的に発動させる正義もない。驚嘆すべき他者も神も、他界のヴィジョンも要請されることはない。それ自身が多種多様に、姿を変えながら生きつづけるもの。倫理の議論は、個体を描くこの水準に根ざさなければならない。

ひとつひとつの存在は・・・普遍(理念)に属しながら、それぞれに問題を設定し、それぞれに問題を解くものであるから特異な唯一無比である。
 正しい問いの解き方はない。本当の〈私〉も、モデルとなる理想の葉もない。そんなものはどこにもない。〈私〉であることそのものが、きまりきった分類からいつも逸れていくからだ。

  個体とは・・・揺らぎであり、不純であり、偏っていて、幾分かは奇形であること。だからこそ、世界という問いを担う実質であるもの。


・・・包括的なシステムとしての視界が要請されるこの時点において、議論を狭い視野に閉じこめないためにも、諸領域を動きまわりながら、しかしあくまでも原則的な言葉を投げつけることは不可避ではないか。それができるのは哲学だけだろう。

◎註

『意味の論理学』      ルイス・キャロルをひとつの題材になされる議論

『シネマ』 〈運動イマージュ〉
                    〈時間イマージュ〉イタリアのネオ・レアリズモ、日本の小津、オーソン・ウェルズ、フランスのヌーベルヴァーグの映画を題材に論じられていく

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