学内の発表会の質疑応答のときに、指導教官に質問されたことに充分に応えられなかったのが、
残っていましたが、この本を半分読み進めて、関連した事が出てきました。
あ〜、もう早く修論の書き直しを終了してしまいたい。でも書き終わりたくない、とも
思っていて、進路が決まるまであと一週間あるので複雑です。
以下、長いですが、いつも通り感想なく、抜粋のみ。
「ドゥルーズー解けない問いを生きる」 檜垣立哉 2002. NHK出版
I はじめに ー解けない問いがあらわになってくること
p19
まず、情報にせよ、生命にせよ、それらは従来の「人間」に依拠するリアリティーとは明らかに異質の現実感を喚起する。哲学が、身体的な匿名性や間主観性(自他の区分以前に、その両者が共に動いている状態)、あるいは言語論的転回や記号論的転回(意識や主体に対する、言語や記号の先行性をとく主張)といったスローガンを振りかざし、こむずかしく論じたてていた事柄は、現在の情報空間のなかでは、むしろ感覚的にあたりまえですらある。
p21
まず第一にドゥルーズは、はじめからはっきりと<生命の哲学者>である。それは、彼の思考の基本的なアイデア(差異・多様性・異質性・分化)が、ベルクソンという二十世紀はじめに活躍した思想家の、<生の哲学>(認識や真理というよりも、衝動や情動の側から世界のリアリティーや成り立ちを捉えていく発想)の議論を受け継ぐことによって形成されていることからもわかる。
p24
いまや生命に関する知は、実証的あるいは実験的な成果を引き受け、理論的に問いつめることにより、従来の自然科学が想定してきた強固な決定論を払拭しつつある。これまでの要素還元主義では対処しきれない、かといってそのアンチテーゼのようなホーリズム(有機的な全体論)には回収されえない議論が、つまりカオス・内部観測・複雑系などの諸理論が、まさに現時点で生みだされつつある。
p25
まず考えるべきは、この時代とは、解けない問いに直面して何ができるのかを考える時代であることである。ついでそれが、解けない問いを前に立ちどまることなく、むしろ解けないことについての実践をなしつづけ、そこで現れてきてしまう新たなテクノロジーを、積極的かつ前向きに捉える必要に迫られている場面だということである。
Ⅱ 世界とは解けない問いであるードゥルーズの<哲学>素描
1 世界はどのようにとらえられるのか
[ 2] 定点をもたないことー現象学的ではないドゥルーズ
p42
現象学とは、フッサールに始まり、さまざまな方向に分岐していった、二十世紀思想のひとつの潮流である。それは、<事象そのものへ>というスローガンを掲げ、事実をありのままに記述する企てとして、大きなまとまりをなしている。
数学や論理学の基礎づけという問題から出発し、知が根づく生活世界という地盤を見いだしていくフッサール。ギリシア以来の伝統的な存在論の潮流に現象学の試みを結びつけていくハイデガー。独自の身体論を展開し、生ける身体をとりだしていくメルロ=ポンティ。彼らは、。。。われわれが生きる根源的な場面をとり戻すという、同様の方向性をそなえていた。
現象学とは、思考の基盤が失われ、問いが解けなくなったこの時代の不安を引き受ける、ひとつの仕方でもあるだろう。
。。。形式的にいえば、現象学が<意識の哲学>の流れを引き継いでいることに。。。それに対してドゥルーズは、ベルクソン的な<自然の哲学>という系譜を自覚的にたどるのである。
<意識の哲学>は、世界を捉えるときに、世界を正しく認識する意識のあり方から検討をはじめるだろう。しかし<自然の哲学>の系譜は、世界を認識する系譜もはじめからそこに含まれる、自然の生成力に論点を置いていく。
不安の意識にさいなまれ、根拠を求める現象学が目指したことは、世界と自己(意識)とが実質的に触れあう定点を回復することであった。現象学の探求のすべてが、こうした、生き生きとした基盤の取り戻しという衝動にとりつかれている。
p45
場の総体をめくるめくように俯瞰することがドゥルーズの哲学のヴィジョンと一致する。
「俯瞰」とは、拠点 を求める現象学が、とりわけ身体の世界への根付きを重視してきたメルロ=ポンティが、厳しく批判してきた態度である。
p46
現象学がなすように、現在というひとつの視点から流れを記述すると、そこで設定される定点が現れを根拠化してしまう。。。。。。新しいものの生成を見てとることはできなくなる。
。。。まずは切り離されない流れにそっくり内在し、分割できない流れの洗剤的な無限性(=理念生)に即応することが、生成をみるためになされるべきなのである。
視点なき世界と生成
私は動き成長する。私は無限に流れへとひらかれている。そこで私は流れに内在している。内在していることを自覚するときに、私は私をとりまくさまざまなもののあいだで、私の位置を限定し、かくして私が、何であるかを知る。
[3] 視点のなさは不在を意味しないーデリダ的ではないドゥルーズ
p48
ドゥルーズのいうリアルとは、むしろ新たなものが現れつづけることにさらされる、剝き出しのなまものである。
p49
。。。ポストモダンのさまざまなスローガンー根拠の解体、差異の強調、多様性の擁護などーは、デリダもドゥルーズも共有する。
ドゥルーズは、デリダが議論の軸にすえるような、<到達できない他者>という発想をもつことはない。デリダは間違っても、ドゥルーズ的な「理念」や「内在」を認めることはないだろう。
。。。デリダの議論のかなめは。。。。西洋形而上学そのものへの批判、エクリチュールの議論を中心に展開される記号論やメディア論、他者をめぐる正義や歓待の倫理学、ユダヤ神秘主義との連関など、きわめて広域的な主題を含んでいる。
現在の純粋性は、現在でない何か(非現前的な情報としてのエクリチュール、あるいは私の意識に不在でしかありえない他者)にあらかじめ汚染されてしか示されない。
。。。デリダの主張は、定点の<不在>を、その不在というあり方を引き立てながら議論を進める点に特徴がある。
ドゥルーズでは、<生ける現在>を溢れだす力をそのまま肯定し、そこにどのように内在するかが問題になる。
デリダでは、<生ける現在>の不可能性を明らかにし、その純粋性を「外部」にさらしていく否定性が主張のかなめになっている。
ドゥルーズでは、世界は解けないものであるために、新しいものの産出が肯定的に語られる。
デリダでは、解けないことは一種の迷宮。。。際限のない彷徨が描かれる。
p52
デリダの戦略とは、記号や言語、あるいはそれらを媒介とした解釈という仕方で世界に切り込むときに、結局は踏みいらざるをえない方向ではないかと思われる。。。。世界は、複数の読まれ方を、どうしようもなくはらむ。。。
ドゥルーズは完全に生命系。。。ドゥルーズは、この世界の解けなさを、未決定的なポテンシャリティー(潜在力)であると捉えるが、それは、いつも新たなものの産出をあらわにするためである。
[4] ポジティヴィストとしてのドゥルーズーフーコーとの共振
ドゥルーズの姿勢に共鳴するほとんど唯一の思想家は、フーコー
p54
フーコーには、自身の方法論を示した『知の考古学』という著作があるが、ここで彼は、自ら「幸福なポジティヴィスト」と名のっている。
フーコーは、エピステーメーという述語を導入して、歴史を連続的な単一体ではなく、断絶や転換に充ちたものと捉えていく。
p55
プルーストは、回復し得ない過去への郷愁をかき立てる、ノスタルジックな小説家と思われがちだ。また、カフカのイメージをつくりあげるのは、『城』や『審判』における、茫漠とした待機と迂回の描写である。
しかしドゥルーズは、これらの一般的な読みを真っ向から崩していく。
。。。記憶をも、失われた過去に埋め込むのではなく、未来に向けての創造という方向から論じていくのである。
またカフカ論でもドゥルーズは「否定神学」や「不在の神学」、さらには「法の超越性」や「罪の内面性」といったテーマによってカフカを読むことをはっきりと避けていく。
これらの議論からドゥルーズがとりだしたいことは、生産するテクストとしての文学機会という概念である。無数の仕方で解釈される、寓意(=アレゴリー)としてのテクストではなく、それ自身が生命のように機能しながら、偶然の出会いや結びつきを果たし、いくつもの徴候(=シーニュ)を未来に向けてきらめかせていく、テクストの運動性の提示である。
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