2014年2月20日木曜日

ターナー展 感想



知人にこの美術展に行った事を話していたら、知ってる、風景画を描く人でしょう、

と。

初めてターナーの絵を本でみたのは大学生の時。英語の購読の授業で

なぜか美術の原書を読まされて、高校まで美術が苦手だったのでなんで

こんなん読まなあかんねん、私は英語の勉強が好きなのに、と不満たらたらで

読んでいたらいつの間にかその評論に引き込まれてしまいました。

その時テキストに載っていた絵は憶えていないのですが、彼の特徴的な靄と霞、光の交錯

する絵、この有名な絵の類いのものだったと思います。http://stephan.mods.jp/kabegami/kako/GreatWestern.html



それから、たまたま英国本社の会社で働くことになり、同僚が東京出張中に

バーンズコレクションを見に行ったら他の同僚にバッタリ会った、という話を

聞いて、ふーん、美術館に行くという時間の使い方もあるんだと思い、

次の出張で上野美術館にテートギャラリー展を見に行ってターナーの絵幾つかに

逢いました。


そして、ロンドンのナショナルギャラリーでは、大きな迫って来る蒸気機関車に

圧倒され。




でも、昨日観たターナーの生涯は、漠然と思い描いていたイメージと全く違いました。



幼い頃からお父さんの店先で絵を描いて周りの人を驚嘆させ、建築の勉強をして物凄く

精緻な絵を描き、300年前のラファエロとその宮殿や古代ローマをまるで

見てきたように描き、フランスとの戦争の間はイギリスの田舎に引き籠り、

風景画だけを静かに描き、王に戦勝の祝いの絵を依頼されて民が苦しんでいる

絵を描く。



現在有名な靄っとした数々の絵は、同時代の画家たちからは石鹸の泡、と

誹られ続けたそうです。それでも援護射撃してくれる人はいて、なんかもう、

すごく元気づけられました。がんばろう。


2014年2月17日月曜日

ドゥルーズー解けない問いを生きる 続き


2  世界とは何か

[1]問題としての世界

 p58
ドゥルーズは、こうした未決定の力を、基本的には<差異化の運動>として描いていく。

差異化や微分をもちだすことの本質的な意味は、世界を「問題」として捉えることにある。

ドゥルーズは、問題とは解かれるものではなく、創造されるべきものであると述べる。

その都度さまざまな状況に立ち向かい、そこで適切な問題を設定することが、歴史にいける行為である。歴史が進展するならば、何らかの解答が与えられるだろう。


p61

ドゥルーズ(ベルクソン)は生命とは、問題を提起する能力のことだと考える。眼をつくりだす生命の働きとは、光に対応するための問題の創造のことだというのである。そしてその問題に答えるために、背生命は色々なかたちを模索する。できあがった眼は、問題にたいするひとつの解答であるだろう。

・・・与えられた解決(=かたちとしての眼)はいつも暫定的でしかありえない。生命の本質とは、できあがった器官=眼にあるのではない。むしろ眼という問題を設定し、状況に応じて解答を与え、なおかつ問題を発しつづけていく。その力にこそあるのである

p66

・・・進化の現場はどこにあるのだろうか。それは、進化が具体的に現れた個別の生命体ではないだろう。個別の生命体は、いわば進化の結果でしかないからだ。
 出来事としての進化は、見えない力の領域にありつづける。生成が現在という視点を避けるように、進化という出来事もまた現在という定点からは逃れている。それは、いまだ分化せず、何ものとも規定できない卵のなかでうごめいている。

・・・いわば出来事とは、そうした未決定性のなかから、かたちへと向かっていく動きが生じてくることではないか。

p67 
 ドゥルーズは、出来事を論じるときに、とりわけライプニッツに言及する。

 
 ライプニッツは、モナドロジーという独自の多元論的哲学をつくりあげた、十七世紀の思想家である。


 ライプニッツの業績を考えるときは、ドイツ観念論の思想家であるヘーゲルが大きな参照項になるだろう。

p68

 ・・・ドゥルーズは、ヘーゲルをあっさりと退けるのとは正反対に、ライプニッツの議論を、いわばアイデアの宝庫として積極的に評価する。

 
 ライプニッツはこう考える。現実がいまあるあり方とは、それがありうる唯一の姿ではない。私は何かの行為をしたが、それをしなかったこともありうる。それをしなかったべつの世界があって、それが現実であってもよかったはずだ。・・・だからこの世界の現実とは、さまざまな世界の多元性のなかで、ある世界が選びとられたものである。

・・・ライプニッツは、世界の多元性を認めながら、それを共立可能性(矛盾せずに多様な事象が存立するあり方)や最善(多元性のなかでもっとも価値的な評価の高いものをえらぶこと)という仕方でひとつのあり方に収斂させようとする。

p70
 ドゥルーズによれば、・・・現在から逃れ、真偽の枠組みを超えた問題の力をとりだすためには、矛盾のない共立可能性によって支えられる世界ではなく、そこへまとめられていく以前の、ありのままの力の様態を描かなくてはならない。

 たとえばそれは、ルイス・キャロル的なパラドックスに充ちた世界である。つまり、アリスが同時に大きくもなり小さくもなるような、パラドックスの世界である。

・・・生成に触れるとき、われわれに見える世界の一歩下には、こうした不条理性が渦巻いている。だがこうした不条理性は、世界の無意味さを露呈させるためのものではない。逆に世界が先に進んでいく力のような、多様なものの共存をあばきたてるためのものである。

    ↓↓
(これは活動の中の矛盾に通じるものがあるのでは?  ri)


[3] 個体化と分化のプロセス

p72

・・・卵は潜在的な力を引き受けながら、ある形態へと自己展開するのである。それは、潜在的な見えない力が、見えるものになっていく分化の過程のことである。
こうした事情は、差異化する力が分化を果たしながら、感性的に現出するプロセスとして記述される。

p73
 ドゥルーズによれば、分化において現れてくるもの(=<かたち>であるもの)は「種」と「有機体の諸部分」である。・・・「種」とは、たとえばある生命が「人間」であること、そのような仕方での一般性・・・「諸部分」とはそうした「人間」としてのかたちをとった、個別的に述べられる生命の諸器官のすがた・・・<私>や<自我>という存在もまた、ドゥルーズによれば、分化の果てに見いだされるものである。

p74
システムと個体

世界をシステムとしてとらえること・・一般的に・・拒絶的な意見

つまり、個体をシステムの展開において把握するならば、それはシステムに従属するだけのものとなり、個体としての価値を失うのではないか、というものである。



・・・これに対し、個体をはじめからシステムに絡めとられない中心とみなす発想もあるだろう。全体的なシステムに抗して、その固有性をきわだたせるのが個体であるという着想・・・
 しかし、それもまた危険な考え方であるだろう。


 ドゥルーズの論じる個体とは、それぞれが差異を表現することにおいてシステムの個体である。

p77
特異的なものである個体

一枚として同じ葉はないし、一滴として同じ海の水はない。一人として同じ<私>はいないのである。それは、葉や水滴や私が、はじめから独自な中心をなしているからではない。それらすべては、システムがもつ生成を、それぞれに表現する個体だからである。問題に対して、それぞれの答えをそれぞれに探っている個体だからである


               
                                  ↓↓↓

           

                (わかった!なるほど、そういうこと!! ri)


・・・同一の本質など、どこにもない。ドゥルーズの描くイデアの世界は、同一の本質を消し去る生成の世界である。・・・それぞれが固有の問題の引き受け方であるために、それぞれの葉は、それぞれが何かの葉という理念=問題を、積極的に担うのである。誰もが差異をもつ異なった個人であるがゆえに、そのひとりひとりの個人が、われわれとは何かという理念をつくりあげるのである。
 特異な個体が未決定的なシステムを支えていく、そうしたシステム論が描かれなくてはならない。多様に分散し、それぞれが異なった個体によって、世界がつくりあげられていることを肯定する存在論が構想されなければならない。

p79

3 時間と何か

 三つの時間とは、つぎのようなものである。

 第一の時間は、拡がりをもった現在である。それは点としてのいまが、過去と未来とを有機的に結び付け、それを一繋がりのものとして組織しながら、生き生きとした連携を繰り拡げる現在の時間のことである。

 第二の時間とは過去である。それは、現在の拡がりを支える純粋な過去の存在であるが、最終的にこの時間は、現在と過去とが依存しあう円環のように描かれていく。

 第三の時間は、未来の時間である。ドゥルーズは、生成にかかわるこの時間を、蝶番のはずれた時間とも、亀裂の入った時間とも表現する。・・・こうした直線的な時間の姿を、ドゥルーズは空虚な形式の時間と記述しもする。



では、第三の時間とは何なのか。・・・
 この時間をドゥルーズは、先の二つの時間と対比させながら、蝶番のはずれた時間、狂った時間、脱根拠の時間であると記述していく。それは、・・・現在という中心への連関も、、、、、現在と過去とがもつ相互依存的な円環をも破棄しながら、ひたすら先に突き進む時間の姿である、・・・

 空虚な形式としての時間、直線としての時間とは、ひたすら無限に伸び拡がり、回帰することのない時間のことである。つぎつぎと新たなものが現れて、どこにもまとまっていくことのない、そうした生成のなまなましさをあらわす時間のことである。そこで直線や順序とは、無限を一気に見通しうること、無限の流れを一挙につかみながら、生成のなかに潜在的に入り込んでいくことの、ひとつの表現・・・


p85

時間と情動

ドゥルーズは、<感じる>ということに、つまりは情動性というテーマに特別な価値を置いていく。<私は感じる>という情動のあり方が、俯瞰のなかに投げ込まれ、生成を生きることの具体的な内容をなすというのである。


・・・第一の時間と第二の時間とは、あくまでも、こうした分化の場面にある<私>を描くことに収まっていく。
 ところが未来の時間であり、予見不可能な生成をあらわにさせる第三の時間とは、まさに、こうした同一性を突き崩すためにもちだされる時間である。

・・・生成の中に入り込むこととは、いつも予見不可能な新しさとの出会いにさらされることでもあるからだ。しかしそもそも新たなものとは、はじめから何かとしても知覚しえないし、真偽も規定できないものである。そこでは、視点である<私>は突き崩されてしまい、<私>の内容をなす既存の枠組みも揺るがされていく。
 だから、第三の時間で描かれる状況をいいあらわそうとするならば、それは、ひたすらに見ること、ひたすらに感じることとしか表現できないだろう。与えられるものに対して、刺激―反応系(=週刊化された働き)に収まるような、適切な応答をとれないこと、そこで審議も内容も描けない新しさを、ただ受動的に被ること、未来という時間性が切りひらくこの場面は、まさに受苦という訳語すらあてはめうるような、パッション=情動の位相なのである。

              ↓↓↓
            (ヴィゴツキーのいわゆるペレジバーニャ心的体験?  ri)

 ・・・引き裂かれた<私>、直接流れにされされてある<私>とは、まさに生成を引き受ける個体そのもののこと・・・

・・・個体は、それに与えられた独自な力を示すというよりも、この世界を成立させる流れのなかで、自己同一性をあらかじめ設定することもなく、特異に浮かびあがるものである。

 圧倒的な生成の流れを、まさに中心的な現在を欠くように生ききる個体であること。それは、流れをひたすら被りつづける受動的な情動として描かれる。


Ⅲ <私>ではない<個体>が生きること 結論に代えて

p90
ドゥルーズの倫理

ドゥルーズから導かれる倫理(行為と生き方の原理を論じること)・・・差異や多様性を肯定すること。主体の同一性にとらわれず、さまざまな方向に分散する生をきらめかせること。

・・・―内在の存在論を外にひらいていき、哲学以外の言説とリンクさせるドゥルーズ―

p91
 『アンチ・オイディプス』は、精神分析批判からはじめて、無意識の心的システムを描く議論を、世界史的な国家の成立にまで引き延ばしていく拡がりをもつ。『千のプラトー』になると、地質学、生命科学、人類学、言語学すべてを包括する、まさにコスモロジックな記述がたたきつけるようになされていく。

p92

個体と生

ドゥルーズの個体の議論には、率直に考えて、倫理についてのメッセージがはらまれている・・・

・・・<私>とは、出来事を引き受ける個体を前提にして、それが分化した位相にすぎない。

・・・<私>とは何か、<私>はどうあるべきか、という議論は意味を失う・・・

・・・個体の倫理を考えるためには、つぎの二つのことに減収しなければならない。

 ひとつには、個体が生成に深く結びついていることである。

・・・個体は、<私>のように、あらかじめ設定された同一性や中心をもつものではない。個体には、そのあり方を支える固有性や、無前提的に独自のものとして設定される内面性はないのである。
 しかし他方、個体とは、それ自身として特異なものと記述される。

p94
 ドゥルーズの述べる個体とは、あくまでもシステムの個体である。それが特異であるのは、個体の存在が、それぞれ偏った仕方でシステムのあることを支えるからである。<私>のかけがえのなさなど、流れていくシステムへとすっかり溶け込ませてしまえばよい。


                   ↓↓↓
  (これは、あまりにも冷たい、あたたかみのない、人間味や情のない言い方ではないか?ドゥルーズそれでいいのか? ri)


p95

 共同体の倫理、間主観性の倫理、他者(を歓待すること)の倫理、死に向かう倫理・・・これらは確かに、<私>ではないものの倫理を示そうとする。そこでは<私>という中心性や固有性は排除されている。だが、それらはいずれも、ドゥルーズからみいだされる個体の倫理とは、鋭い対比をなすものでしかない。

p96

 非人称的な決定項(共同性・間主観的なシステム)があって、個体はそれに従属するのではないのである。

ドゥルーズが描くのは、あくまでも個体の分散する世界である。個体の特異性において、全体として想定されがちなシステムを支えるような世界である。・・・価値は分散した個体の側からしか生じない。

個体の倫理は、共同性も他者も死も中心化しはしない

p97

ドゥルーズのポジティヴな議論において、他者の他性や死という、否定的であることにより力を与えられる対象は、生成の原理としてもちだせない…

極端な自己中心性と徹底した他者中心性、揺るぎない利己主義と無償の利他主義、これらはほとんど同じ構造をもつ・・・

 死についても同じようにいえる・・・死そのものがもつ不在の強さ(脅し)を利用して、そこに〈私〉の中心性を投影するものにしかなりえない。
   利己的な言説と利他的な言説、自己への固執を述べる倫理と死の方向から照らしだされる倫理とは、奇妙にも似通い、ほとんどかさなりあってしまう。単純にいえば、それらは純粋性という観点から酷似するのである。

純粋に倫理的な主張ほど(そしてそれが正義に基づくといわれればいわれるほど)、とめどない暴力の源泉になりはしないか。


p100

個体の倫理と生命

「人間」のパラダイムが崩壊しても、依然として〈ひと〉は生きつづける。

…生命であるかぎり、…ハイブリッドさをもちあわせ、不定に漂うもの…

…諸科学が、生命の多様性や進化を検討するなかで、むしろそうした不定さやハイブリッドさに直面し、そこに逢着せざるをえない状況が露呈されていくならば、それは〈ひと〉の個体の生にとって、どのような意味をもつのだろうか。

p101

生命の政治的思考

『性の歴史』において〈生ー政治学〉という権力の新たな図式を示すフーコーは、生命のように流動的な、権力の存立様式を描いていく。

 あらゆる行為は、幾分かは権力的であり、幾分かは反権力的である。言説を利用し、権力の空間にいる誰もが権力者であり、誰もが非権力者である。

抑圧とは、抑圧に反抗するというポーズをとれば自分が正義であると居直れるものにとって、都合のよい語り方にすぎないとすら述べられる。

 フーコーは『監獄の誕生』で〈非行性〉というカテゴリーを記述するが、それは一見、権力に反抗するようにみえながら、実際には権力がもっとも巧みに味方につけるものとして描かれる。

・・・生ー権力において、権力が果たすべきことは、殺さずに生かしつづけることである。

まさにアメーバのように、融通無碍にかたちをかえながら細部にまで浸透していく、生命そのものの姿に密着した権力の思考。


トラウマや抑圧から歴史や政治を語らないこと。しかしそこにおいてこそ、差異の政治学のあるべき姿を描きだしていくこと。

p105
個体とは偏ったものである。

中心的な軸を欠きながら、異種のものともさまざまに結びつく生。そこでは、守ろうとして固執する貧相な自己はない。神経症的に発動させる正義もない。驚嘆すべき他者も神も、他界のヴィジョンも要請されることはない。それ自身が多種多様に、姿を変えながら生きつづけるもの。倫理の議論は、個体を描くこの水準に根ざさなければならない。

ひとつひとつの存在は・・・普遍(理念)に属しながら、それぞれに問題を設定し、それぞれに問題を解くものであるから特異な唯一無比である。
 正しい問いの解き方はない。本当の〈私〉も、モデルとなる理想の葉もない。そんなものはどこにもない。〈私〉であることそのものが、きまりきった分類からいつも逸れていくからだ。

  個体とは・・・揺らぎであり、不純であり、偏っていて、幾分かは奇形であること。だからこそ、世界という問いを担う実質であるもの。


・・・包括的なシステムとしての視界が要請されるこの時点において、議論を狭い視野に閉じこめないためにも、諸領域を動きまわりながら、しかしあくまでも原則的な言葉を投げつけることは不可避ではないか。それができるのは哲学だけだろう。

◎註

『意味の論理学』      ルイス・キャロルをひとつの題材になされる議論

『シネマ』 〈運動イマージュ〉
                    〈時間イマージュ〉イタリアのネオ・レアリズモ、日本の小津、オーソン・ウェルズ、フランスのヌーベルヴァーグの映画を題材に論じられていく

2014年2月16日日曜日

ドゥルーズー解けない問いを生きる


学内の発表会の質疑応答のときに、指導教官に質問されたことに充分に応えられなかったのが、
残っていましたが、この本を半分読み進めて、関連した事が出てきました。

あ〜、もう早く修論の書き直しを終了してしまいたい。でも書き終わりたくない、とも
思っていて、進路が決まるまであと一週間あるので複雑です。

以下、長いですが、いつも通り感想なく、抜粋のみ。




「ドゥルーズー解けない問いを生きる」 檜垣立哉 2002. NHK出版

I   はじめに ー解けない問いがあらわになってくること
 

p19

まず、情報にせよ、生命にせよ、それらは従来の「人間」に依拠するリアリティーとは明らかに異質の現実感を喚起する。哲学が、身体的な匿名性や間主観性(自他の区分以前に、その両者が共に動いている状態)、あるいは言語論的転回や記号論的転回(意識や主体に対する、言語や記号の先行性をとく主張)といったスローガンを振りかざし、こむずかしく論じたてていた事柄は、現在の情報空間のなかでは、むしろ感覚的にあたりまえですらある。


p21
まず第一にドゥルーズは、はじめからはっきりと<生命の哲学者>である。それは、彼の思考の基本的なアイデア(差異・多様性・異質性・分化)が、ベルクソンという二十世紀はじめに活躍した思想家の、<生の哲学>(認識や真理というよりも、衝動や情動の側から世界のリアリティーや成り立ちを捉えていく発想)の議論を受け継ぐことによって形成されていることからもわかる。

p24

いまや生命に関する知は、実証的あるいは実験的な成果を引き受け、理論的に問いつめることにより、従来の自然科学が想定してきた強固な決定論を払拭しつつある。これまでの要素還元主義では対処しきれない、かといってそのアンチテーゼのようなホーリズム(有機的な全体論)には回収されえない議論が、つまりカオス・内部観測・複雑系などの諸理論が、まさに現時点で生みだされつつある。


p25

まず考えるべきは、この時代とは、解けない問いに直面して何ができるのかを考える時代であることである。ついでそれが、解けない問いを前に立ちどまることなく、むしろ解けないことについての実践をなしつづけ、そこで現れてきてしまう新たなテクノロジーを、積極的かつ前向きに捉える必要に迫られている場面だということである。

Ⅱ   世界とは解けない問いであるードゥルーズの<哲学>素描

1  世界はどのようにとらえられるのか

[ 2]  定点をもたないことー現象学的ではないドゥルーズ

p42

現象学とは、フッサールに始まり、さまざまな方向に分岐していった、二十世紀思想のひとつの潮流である。それは、<事象そのものへ>というスローガンを掲げ、事実をありのままに記述する企てとして、大きなまとまりをなしている。

数学や論理学の基礎づけという問題から出発し、知が根づく生活世界という地盤を見いだしていくフッサール。ギリシア以来の伝統的な存在論の潮流に現象学の試みを結びつけていくハイデガー。独自の身体論を展開し、生ける身体をとりだしていくメルロ=ポンティ。彼らは、。。。われわれが生きる根源的な場面をとり戻すという、同様の方向性をそなえていた。

現象学とは、思考の基盤が失われ、問いが解けなくなったこの時代の不安を引き受ける、ひとつの仕方でもあるだろう。

。。。形式的にいえば、現象学が<意識の哲学>の流れを引き継いでいることに。。。それに対してドゥルーズは、ベルクソン的な<自然の哲学>という系譜を自覚的にたどるのである。


<意識の哲学>は、世界を捉えるときに、世界を正しく認識する意識のあり方から検討をはじめるだろう。しかし<自然の哲学>の系譜は、世界を認識する系譜もはじめからそこに含まれる、自然の生成力に論点を置いていく。


不安の意識にさいなまれ、根拠を求める現象学が目指したことは、世界と自己(意識)とが実質的に触れあう定点を回復することであった。現象学の探求のすべてが、こうした、生き生きとした基盤の取り戻しという衝動にとりつかれている。

p45

場の総体をめくるめくように俯瞰することがドゥルーズの哲学のヴィジョンと一致する。


「俯瞰」とは、拠点 を求める現象学が、とりわけ身体の世界への根付きを重視してきたメルロ=ポンティが、厳しく批判してきた態度である。

p46

  現象学がなすように、現在というひとつの視点から流れを記述すると、そこで設定される定点が現れを根拠化してしまう。。。。。。新しいものの生成を見てとることはできなくなる。

。。。まずは切り離されない流れにそっくり内在し、分割できない流れの洗剤的な無限性(=理念生)に即応することが、生成をみるためになされるべきなのである。

視点なき世界と生成

 私は動き成長する。私は無限に流れへとひらかれている。そこで私は流れに内在している。内在していることを自覚するときに、私は私をとりまくさまざまなもののあいだで、私の位置を限定し、かくして私が、何であるかを知る。

[3]   視点のなさは不在を意味しないーデリダ的ではないドゥルーズ

p48

ドゥルーズのいうリアルとは、むしろ新たなものが現れつづけることにさらされる、剝き出しのなまものである。

p49

。。。ポストモダンのさまざまなスローガンー根拠の解体、差異の強調、多様性の擁護などーは、デリダもドゥルーズも共有する。


ドゥルーズは、デリダが議論の軸にすえるような、<到達できない他者>という発想をもつことはない。デリダは間違っても、ドゥルーズ的な「理念」や「内在」を認めることはないだろう。

。。。デリダの議論のかなめは。。。。西洋形而上学そのものへの批判、エクリチュールの議論を中心に展開される記号論やメディア論、他者をめぐる正義や歓待の倫理学、ユダヤ神秘主義との連関など、きわめて広域的な主題を含んでいる。


現在の純粋性は、現在でない何か(非現前的な情報としてのエクリチュール、あるいは私の意識に不在でしかありえない他者)にあらかじめ汚染されてしか示されない。

。。。デリダの主張は、定点の<不在>を、その不在というあり方を引き立てながら議論を進める点に特徴がある。

ドゥルーズでは、<生ける現在>を溢れだす力をそのまま肯定し、そこにどのように内在するかが問題になる。

デリダでは、<生ける現在>の不可能性を明らかにし、その純粋性を「外部」にさらしていく否定性が主張のかなめになっている。

ドゥルーズでは、世界は解けないものであるために、新しいものの産出が肯定的に語られる。

デリダでは、解けないことは一種の迷宮。。。際限のない彷徨が描かれる。

p52

デリダの戦略とは、記号や言語、あるいはそれらを媒介とした解釈という仕方で世界に切り込むときに、結局は踏みいらざるをえない方向ではないかと思われる。。。。世界は、複数の読まれ方を、どうしようもなくはらむ。。。

ドゥルーズは完全に生命系。。。ドゥルーズは、この世界の解けなさを、未決定的なポテンシャリティー(潜在力)であると捉えるが、それは、いつも新たなものの産出をあらわにするためである。

[4]  ポジティヴィストとしてのドゥルーズーフーコーとの共振

ドゥルーズの姿勢に共鳴するほとんど唯一の思想家は、フーコー

p54

フーコーには、自身の方法論を示した『知の考古学』という著作があるが、ここで彼は、自ら「幸福なポジティヴィスト」と名のっている。

 フーコーは、エピステーメーという述語を導入して、歴史を連続的な単一体ではなく、断絶や転換に充ちたものと捉えていく。

p55

プルーストは、回復し得ない過去への郷愁をかき立てる、ノスタルジックな小説家と思われがちだ。また、カフカのイメージをつくりあげるのは、『城』や『審判』における、茫漠とした待機と迂回の描写である。

しかしドゥルーズは、これらの一般的な読みを真っ向から崩していく。

。。。記憶をも、失われた過去に埋め込むのではなく、未来に向けての創造という方向から論じていくのである。

  またカフカ論でもドゥルーズは「否定神学」や「不在の神学」、さらには「法の超越性」や「罪の内面性」といったテーマによってカフカを読むことをはっきりと避けていく。

  これらの議論からドゥルーズがとりだしたいことは、生産するテクストとしての文学機会という概念である。無数の仕方で解釈される、寓意(=アレゴリー)としてのテクストではなく、それ自身が生命のように機能しながら、偶然の出会いや結びつきを果たし、いくつもの徴候(=シーニュ)を未来に向けてきらめかせていく、テクストの運動性の提示である。


 






2014年2月14日金曜日

The End of Knowing


卒論修論発表会も終わり、明日から何します?

という会話が飛び交っていましたが、とりあえず一ヶ月の
猶予を頂いて、修論の書き直しのためにNewman Holzmanをじっくり
読んでいます。

めちゃくちゃ面白い。読みながら書いているメモです。


p47 

3   Radically reforming modern epistemology

reform と revolution の 違い
現代の認識論を 急進的に改革しようとする人は沢山いる
人間の創造性と発明を制限するもの
エリート主義と辺境化の過程

しかし、我々はそれをしようとしている訳ではない


発展するコミュニティーの継続的な創造と、伝統に位置づいている社会批評への従事との弁証法を探索するのは、価値のあること

Gergen 1994

社会構築主義は、「表象の危機」を再構築的な方法で扱える可能性がある

彼は、言語の表象主義者的な見方、客観的な知識の正当性を調べるために、
様々なポスト構造主義者、ポスト経験主義者、ポストモダン派の思想家たちを、イデオロギー批評、文学ー修辞学批評、社会批評に分けた


それは、何を真実であるとするか、言語とは何であるかについてそれぞれ異なっているということからである


イデオロギー批評ーフランクフルト学派、マルクス主義批評、フェミニスト理論の多く、the ideological biases and moral and political purposes of seemingly objective accounts of the world世界を客観的に説明できそうなのは、イデオロギー的な偏りと道徳的政治的意図 (true claims)


文学ー修辞学批評ーポスト構造主義者、脱構築主義者、推論的な歴史に焦点(true claims), 言語は主に人を説得するためのもの、隠喩的なもの、指示的というよりも遂行的なもの


社会批評ー科学的思考の社会的起源を暴こうとする
マンハイムの著作、ウェーバー、クーンの「科学革命の構造」1962, バーガー、ルックマンのThe social construction of reality 1966,  科学研究、科学的知識の社会学、真なるものは社会的過程から来るとみなす。科学的知識は、複雑な社会的関心や相互作用で決定する。科学は基本的に社会的なもの
社会的ーsocietal

Gergenの懸念
これらは、prevailing assertions of truth に依存している

彼はこの三つの伝統の構築主義的枠組みの中に、統合体を提案している。

彼の主要な関心は、individual knowledge への現代的な概念にこういう批評がどうやってチャレンジしようとしているか、ということ。

我々の関心は、knowing of any kind

 しかし、彼の分類法を使うのは有効


Discourse, text, conversation, and analysis

著者のバックグラウンド

Newman  科学哲学
Holzman   発達心理学、心理言語学、社会言語学


自分たちの仕事は、知的追求そのものとしては合理性や正当性があるようだが、人間の生活を変革するアプローチとしては、完全に的を外している。
もし、
(1) 我々が言語(会話、談話、対話、ナラティブ)を通じて生活を構築して(社会活動を達成したり、現実を創造したりなどして)いる

(2)構築された生活が我々を拘束し、大幅に改善可能である

われわれは、人々が新しい言語を創造するのを助けるような仕事をするべきではないのか?

Austin(1962)の公式とそれに続くものは、また新たな二元論的道具的概念を呈している


ポストモダン哲学、社会科学、カルチュラルスタディーズの多くを特徴付ける言語学的転回は、またもう一つの認識論的な途へ我々を導いてゆくのではないのか?

言語学的枠組み転回は、心理学、人類学、歴史学、社会学を再特徴付け、実践の新しい方法を(たとえば、サイコセラピー、教育学など)生み出した

心理学の言語学的転回は、外部からの影響によってやって来た。、主にウィトゲンシュタインの影響を受けた分析哲学、科学哲学、エスノメソドロジー、ポスト構造主義の歴史家、哲学者、カルチュラル理論家の著作、レフ・ヴィゴツキーとミハイル・バフチンの復活



 










 

2014年2月10日月曜日

備忘録 入学試験

昨日の試験は、論述試験の英文和訳が楽しかった。




下書きの紙は持って帰ってよい、と言われたので、なくす前にここに記録しておきます。


出典をメモするのを忘れました、残念。




用語などまちがっているかもしれませんが、意味はだいたいとれていると思います。




「十八世紀と十九世紀の西欧思想においては、個人性という概念が私的財産所有の権利と結びいて進化してきた。個人性は心を養成するためにとどめられ、”大衆”の身体性に対する知性を暗示するものである。この意味では個人のアイデンティティは普遍的な特性ではなく、エリートのメンバーシップ(成員資格)とともに人々が得るものである。十九世紀の、
たくましく、男性的で自立した個人は、この個人性という形態の認識である。これは、選択された個人が”大衆”から抜け出ることを許す自己教育と結びついている。一般的にいえば、その主体性は大衆には相容れないものであった。個人の主体は集団的行為を通じてのみ、効力を発していた。


(ここから下線部を訳しなさい)


この歴史はポストマルクス主義者の社会志向的理論が、なぜ個人の主体という概念に不信をいだいているのか、ということを概ね説明している。西欧思想においては、個人主義とエリート主義の間に明確な歴史的連携がある。しかしながら、二十世紀後期と二十一世紀初めの社会的過程の特徴は、社会的アイデンティティの伝統的枠組みが外れ、より多くの人々がより多くの人生の文脈における個人として行為することを求められる異なった種類の”個人化”の加速である。世界の多くの場所で、個人のアイデンティティの所有が社会的特権にとどまっており、それはその地域で支配的な第二言語または国際語としての外国語の使用能力としばしば結びついている。第二言語または外国語学習を通じて人はより”個人”になる、という考えは、言い換えると、世界の多くの場所で社会的、そして地理的な移動において第二言語と外国語の増大する権利に関連する明白な現代的な考えなのである。」


もう一問は、これまでに読んだ研究文献の中で一番自分に影響を与えたものを一つ紹介して、


それがどのような影響を与えたのか英語で書きなさい、というもの。過去問と若干ずれるので、


一瞬あせりましたが、書いているうちに熱くなって気が付いたらもう終了10分前のコールが


聞こえました。28人の受験者全員、かりかりと最後までやっていて、早めに終わって席を


立つものは一人もなし、でした。





2014年2月8日土曜日

<語り>と出会う 能智正博編、ドゥルーズ 檜垣立哉


口頭試問が終わりました。

いざ、前に立つと意外とプレゼンはすんなりできて、

終わったあと先生方暫し、沈黙。やっぱり伝わらないか〜、と

覚悟していたら、そこからどんどん、内容、形式、方法、ありと

あらゆることにご指摘と質問、改善点の提案がありました。


文献が少ない、先行研究を活動理論に限らず、もっと哲学的な

観点からの理論を調べて其処から絞って行った形にするように、との

泉先生からのご指導に沿うのが一番頑張りどころかも。

直前の方が文献リストが十数枚に比べて、四枚は少ないそうです。


あと、コードのマップは、はっきり言って内容が薄い、関連性が

ないと予想通りの指摘。自分で分かっている不備は全部

お見通しで、流石、先生方の目は免れません。結論ももっと

詳しく書くように、と後10枚位は追加で書かねば。辛い〜。


嬉しかったのは、児玉先生が廊下で英語が読み易かった、

流れが良かった、と誉めて下さったり、受験する事、

勉強を継続する事を励まして下さって、泣きそうでした。

認知言語学の身体論やトマセロに近い、と試問中に仰り、

レイコフを読んだらと勧めて下さいました。西本先生からは

論理空間の所が面白かった、ウィトゲンシュタインの名前

も出したらいいねん、とご指導。泉先生はお部屋でみっちり、

微に入り細に入りご指導、子供たちに忍耐強く接していますね、

とレッスンの苦労とデータ起こしの膨大さをよく理解して

下さり、心から嬉しかったです。




表題の能智正博先生は、質的研究の会で紹介され、多くの著書が

ありますが、この本は、

「現代の人文・社会科学が" 語り"に代表されるような自然な

言葉と出会って、それに対してどのように切り結んで

いるのか」が書かれているのだそうです。「語り」の緻密な

定義から始まり、「ことば」「話す」「述べる」「告げる」

「となえる」とどう違うのか、と分かりやすく書かれていて

面白い。


「ドゥルーズー解けない問いを生きる」は、現象学の

こともまとめて紹介しつつ、それに批判的なドゥルーズの

立ち位置、現代の哲学の動向が分かりやすい。檜垣立哉は

阪大の人間科学部の先生。入試対策で読みかけています。

2014年2月6日木曜日

クロスワード、テスト対策と映画


今日は、質問が飛びかう対話に満ちたレッスンでした。

中1女子三人。おしゃべりがしたくてたまらないので、集中させるのに苦労するのが、今日はあっという間に、レッスン時間を大幅に超過して、お互いにびっくりしました。

はじめに、英語と絵だけのクロスワードパズル。Crowther, J., 1980. Elementary Crosswords. Oxford University Press, 
をコピーして使っています。クロスワードパズルの効用を改めて感じました。

文字数、絵、意味のある文、既に分かった単語からの文字と何種類かのヒントがある〜解いていくことで自分でヒントを増やす、という主体性がある〜目的が明確

三人でやる事で、互いの知識とアイディアを出し合いながらやれて、知らない単語でも、絵や文から意味を推測~音声を与える~スペルを推測~あたる~やった!とうれしい。弾みが出ます。


実テ対策してほしい、という事で、日本語で教科書本文の意味を言う〜生徒がノートに英文を書く 、ということをやってみました。

するとやっている間に沢山質問が出て、未消化の事項が外言化して来るんです。一つ一つ解決しているうちに、文法用語がパッと解決することがあるんだな、と分かりました。

これまで、文法用語は生徒に負担がかかり過ぎるし、文法をふりまわして意味を捉えようとしないタイプの生徒になってほしくないこともあり、出来るだけひかえていました。


でも、細かいミスに悩む子に、ぽんと  固有名詞 という用語を投げかけたり、 日本語にひきずられる時に現在形は習慣、と一言説明すると後はもう分かった、とどんどんやりながら理解していきます。

ニーズのない時は、説明しすぎたりかんで含めるように教えても、心からすべり落ちていくのですが、ある程度受け入れる用意が出来ていて、状況がごちゃごちゃしている時に、文法概念ですっと整理できる事がある。

テスト対策はいつも味気ない、と気が進まなかったのがやり方次第で、お互いにいい学びになってよかったです。

                                    
大学生のレッスンでは、この間からみていた映画Australiaが終わったので、Rabbit Proof Fence という映画と比較して、娯楽映画 の特徴を考えてみる、という事をしました。ついでに  Crocodile Dundee  も観てみました。        

 
                

         

2014年2月4日火曜日

対象性と未来と人格



口頭試問、入試、学会と学内発表を控えて、色々読み返しています。



中でも思うのが、活動理論と人格との関係です。


人格というのは、いわゆる日常的にあのひとは人格者だ、というような

徳の高い人というのではなく、その人を生物学的な個体や、過去現在

未来を越えてその人という存在をあらしめているもの、というんでしょうか。


ここ二、三年のうちに亡くなった小松左京さんの書かれたSFにも

そんな小説がありました。自分というものは死んだのに、宇宙に浮遊

するというか、宇宙そのものであるような意識。でも、誰か、自分、

の意識。




レオンチェフのロシア語のオリジナル、1975年度の日本語訳1980年度

版「活動と意識と人格」を、改めて読み返してみると、やっぱり英語で

すらすらーと説明しているときはわかったような気がしても、なんか

浅い、というのが感覚的にわかります。


その中で、人格というのは、それを対象とする未来をも含む、という

一節。たとえば、子どもが自分は絵がきらい、描くのもいや、上手に描ける

友達と比べて明らかにへたなので、図画工作の時間が苦痛でたまらない

とします。まあ、自分がそういう子どもでした。


そのときに先生が、一言、この色使いはいいよ、とか、貴方は

美術の感性がすぐれている、みたいなことを言ってくれたら、

もしかしてそれほど、図画工作や美術の授業は苦痛でなかったかも

しれない。しかも、絵はへたでも美術評論家、とか美術を鑑賞できる人、

を紹介してくださったらそこに対象性ができ、先生がほめてくれた自分

を未来の自分の人格に組み込んで、そこに自分の存在を

布置できたかもしれない。


子どもはほめて育てろ、というのは、テクニックの問題ではなく、

ほめることによってその子の人格に未来を組み込むことになる

ということではないのでしょうか。


ちょっとうまく整理できないので、また戻ってきます。

2014年2月2日日曜日

東京都知事選他


よそのことなのでよくわからないですが、自分なりの印象は、

宇都宮さんは、かつてNHKのプロフェッショナルで拝見した限り、

正義感と誠実で勇気のある人。

無知で過剰債務に陥ってしまい、ホームレスになってしまった人を一人ひとり訪問して、

悪徳ローン業者や暴力団から弱者を救ってくれるすごい人。

でもテレビや公で演説することに慣れていないので、知らない人がみると弱弱しい

印象しかないし、いい人すぎて、大きな組織の上に立つと私利私欲で利用しようとする

人たちに振り回されてぼろぼろになりそうな気がします。ファンが多いので

かつぎだされたんだろうけど、東京都知事はやめたほうがいいと思います。



細川さんは、かつて沢山の期待を担って首相になったにもかかわらず、突然、何の

理由もなく、やめた人。安倍さんと一緒で、お坊ちゃんで、精神的にも弱すぎて

信用できないし、年寄りすぎ。



知名度と安定感からいって、升添さんかな~、後の人は知らないな。



ところで、久々にテレビドラマドラマ見始めました。「黒田官兵衛」五回目だけど、

脚本、演出、俳優ともにバランスがとれている気がします。いつもこの三点に

不備があると途中でいやになって挫折するのですが、

今回は、なかなかいい感じ。

NHKも若手俳優の実力を見極めて、若者をひきつけるだけの単なるアイドルの起用は

やめるようになってきたので、かなり安心感があります。

一年間見続けられたら

うれしいですが、

さてさてどうなることやら。