先日、京都教育大の卒論・修論発表会に今年も行ってまいりました。
科目等履修生を含めると5回目の拝聴になります。
午前中は、言語学と文学の卒論、午後は教育、文化、文学の修論で
仕事の都合で残念ながら午後のみの参加。
発表は階段教室である大講義室の前方、大スクリーンで行われます。
15分に論文の内容を詰め込むのは、大変。皆さん、それぞれに発表も
レジュメも濃い内容でした。教育では、卒論でも量的質的いろいろな手法を
盛りだくさんに使いいろんな角度から検討している論文があって、
感心しました。
卒論、修論に限らず、英語で書かなくてはいけないので自分のことを
顧みても、行き絶え絶えだったので本当にみなよくやったなあ、と。
毎年、こういう厳しい課題を課す先生もすごい。
全部の発表が終わったあとに、学生たちが先生方の講評を聞こうと前方から、
階段教室の上部に座っておられる先生の方をざっと振り向き、真剣な顔で
注視するあの光景は、何度見ても鳥肌が立ちます。
深い学識に対する畏怖の念、敬意を払う態度、というのは
もう日本には数少なくなっているのではないでしょうか。
こういう雰囲気はなかなか欧米の教育者には理解できないだろうし、
アジアにしか特に儒教に影響を受けた国にしか
わからないことだろうと思います。逆にそれが日本の
強みになっているのかもしれない。
ちょっと辛口のコメントで申し訳ないのですが、
大事なタイトルとかキーワードの単語の発音が間違って
いるのに、びっくりしました。誰も何も言わないのだろうか。
あと、英語教育では、卒論が量的研究に偏っているのが
やっぱり気になります。研究の基礎を学ぶ、ということでは
よいのかもしれないのですが、数十名の参与者の
アンケートの比較をして有意差があるとかないとかいうのは
あまり意味がないのではないかと思えてなりません。
それならば、限られたデータでもっと質的方法を厳密に
つきつめてもよいのでは。
卒論全体のクオリティは私も気になりました。落とし所が浅いなぁと。院生さんはそれぞれ流石の内容でしたが。あと師匠のゼミに今年vocabularyの論文が出なかったのが寂しかったです。師匠の良さを全然引き出せてませんでした。
返信削除コメントありがとうございます。師匠の良さ、というのは興味深いですね、直接指導いただいた学生、院生しかわからない世界なのでしょうか?またいつかご指南お願いいたします。量的研究のことはわからないのですが、専門の方が浅い、と仰るなら自分の直感もちょっと当たっているのかなあ、と思います。
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