思いはじめて論文を読んでいましたが、道なき道に入ってしまい、
断念しそうです。
その矢先にUCLAに出したアブストラクトが落選の通知が来て、
ますますエネルギーが低下、でもようやく昨夜夜中にASIA TEFLの
発表申し込みは出しました。
研究なので、実証性を求められる。でももともとがウェットな思いから
始まっているので、論文を読んだりそれなりの書き方をしようとすると
どんどん乾いていくような気がして、ことばの豊かさを失っていくような
気がしてなかなかバランスが取れないです。
ことばで表せないものをことばで表すことについて、鈴木大拙に関する
本を一日読んでいました。ちょっとだけ、わかったような。どうせことばでは
表わせない、が人に伝えるためにはことばで表すのもまた、一つのまた
唯一の方法であるからやむを得ない、そうしてその体験が社会性と
透明性を帯びてくるのだ、と稚拙な理解ではありますが、そういう
ことなんだろうか。以下、ことばに関する部分だけ抜き書きしました。
堀尾 孟(1997)「鈴木大拙における思想」in 『禅と現代社会』上田閑照・堀尾孟編 禅文化研究所 pp274-307
p276 大拙は、盤珪禅師が「不生」の二字をもって彼の禅体験を言い表わしたとき、その「不生禅」は盤珪の「哲学」であったと言っている。しかしまた同時に、「盤珪は不生を概念としたが、それは哲学者の概念ではなかった」とも述べている。これと同質の、しかも自覚的に一層徹底された事態が、大拙の立場に窺える。
p282
大拙は「禅宗本来の面目」は不立文字にあると言う。不立文字とは、「言説分別の真妄相交りて分ち難きを捨て」、言詮の道を断って、「人生の実地」に「実地に徹底」した立場の意であり、これが「禅宗の事実」であると言う。しかしなぜに斯く捨て斯く断たねばならぬかと言えば、「智慮分別なるものこそ、人間をして万物の霊長たらしむるもの」とは言え、智慮分別は、「われは畢竟これ何ものぞ、われ果たして何れより来り何れに去らんとするか」という「人生の真趣」についての「千古の疑問」に対しては、全く無力なるが故である。一般に「宗教の本義」はまさに斯る疑問を根本的に解決して、「人間存在の真義を発揮せしむる」ところにある。
p277 彼は、「哲学者と宗教者とをどこで区別するか」と自問して、「両者とも同じ問題を取り扱ふが、一は知に傾き一は体験を重んずる。一は概念的分析を主とせんとするが、一は直感的表現を好む」と各々の特質を見渡し、「宗教家の最も特異な点は、すべてが慈悲を推進力・展開力として居るところである」と結論付けて、「慈悲の本願から唱へ出したのが不生禅である」と述べている。
p278 すなわち、その「概念」はただ真理の立場に於いてではなくて真実の立場に於いて成立しており、ただ生きた概念ではなくて救う働きの概念、絶対知の概念ではなくて魂の概念であるということである。大拙はこのような概念、このような哲学を明らかにしようとした。これが「文字も亦道」と宣揚されたときの他の面である。
大拙の「禅思想」は悟境の内に張りわたされてある原理を看破しつつ、それを「命題」として普遍的理知の域に開示しようとした点において、不立文字教外別伝の界を破り出て、禅および仏教の伝統とその歴史に新たなページを開くとともに、それがまさに「禅思想」であるという点において、つまり、媒介的に自己を完結する理知の立場が根底から破られ、「言語同断」の界から、「慈悲の本願」として唱えだされた「命題」の解明であるという点において、・・・・新たなページを開くものであったと言える。
この独自性は、「文字も亦道」という「禅思想」の立場が、言語を超えた禅の立場と言語に基づく哲学の立場との中間に位置するというものでないことを明らかにしている。
それは、棒喝のもとに働いている自覚的原理そのものが自らの構造を明晰に露呈した事、換言すれば、禅体験が体験として有する限りでの主観性の域を脱却して、体験の事の内に張りわたされている構造に透明となった、そういう仕方で成立する体験的事実構造自体の自覚的な思想表現(明晰化)である。大拙は盤珪について、「不生禅は実に彼が成熟しある体験をよくよく反省して、しかる後為人の一句として吐き出されたものである」と述べているが、
斯る体験自体の深化成熟が「為人の一句」に結実し、「慈悲の本願」から「不生」という「概念」が吐き出されてくるということは、体験の事自体が体験者の域を超えて、事が構造的に有しているその普遍的性格が透明にしてくるということである。斯る事を指して大拙は「体験が社会性を帯びて来る」という。
p282
大拙は「禅宗本来の面目」は不立文字にあると言う。不立文字とは、「言説分別の真妄相交りて分ち難きを捨て」、言詮の道を断って、「人生の実地」に「実地に徹底」した立場の意であり、これが「禅宗の事実」であると言う。しかしなぜに斯く捨て斯く断たねばならぬかと言えば、「智慮分別なるものこそ、人間をして万物の霊長たらしむるもの」とは言え、智慮分別は、「われは畢竟これ何ものぞ、われ果たして何れより来り何れに去らんとするか」という「人生の真趣」についての「千古の疑問」に対しては、全く無力なるが故である。一般に「宗教の本義」はまさに斯る疑問を根本的に解決して、「人間存在の真義を発揮せしむる」ところにある。
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