2015年10月22日木曜日

「英語ができる」言説

後期は、ほとんど授業をとっていないのですが、

動機付けの研究があまりにも盛んなため、英語教育が

専門とうたっているからには、いくら量的研究はやってません、と

いえども、日本のmotivation研究の主な流れは知っておかないと恥ずかしい、

ということで、西田理恵子先生のMの授業を聴講しています。

輪読しているのは、これです。会話分析の文献に比べ、とても読みやすい。

(といっても統計は一般的なもの意外は理解困難)

Language Learning Motivation in Japan
Edited by: Matthew T. Apple, Dexter Da Silva, Terry Fellner

http://www.multilingual-matters.com/display.asp?K=9781783090495


西田先生も章を1つ担当されています。

授業中に、自己決定理論をどのように実践に応用するか、2、3人ずつで

話し合う、という場面があり、そのときに出てきたのが表題の

フレーズです。


グループの中国人留学生から、英語ができるってどういうこと

ですか、中国にはそんな表現はない、ただ上手か下手か

っていうだけです、という発言。彼女ともう一人の院生と

私は同じぐらいのレベルで英語で議論できる3人でしたが、

そうだね、考えてみたら英語ができるって変な言い方だよね、

としばらくその意味を話し合っていました。


この本の第四章には日本の理系の学生の英語学習に関する

モチベーションの研究が出てくるのですが、確かに阪大の理系の

学生もおおむね読み書きはできても話すのは自信がなく、

読み書きができても、自分は英語ができない、と思っている

ようです。


ということは「英語ができる」という言説には話すか聞くか

必ずどちらかがふくまれる。これは日本特有なのかなあ、とか

追及していったら面白いかもしれませんね。

0 件のコメント:

コメントを投稿