2015年5月31日日曜日

人間はどこからきたのか

今日のレッスンが終わりに近づいて、高2の男子二人と

英語と日本語のちゃんぽんで色々雑談をしていたら、

T君がいやあ、なんか、最初に人間ってどうやってできたんやろ、

っと思うんすね、と言い始めてそこから、

人類の母と言われるアフリカで見つかった化石のイブって

いうのがあるんやんか、という話とか、

もう一人の科学者の卵的なM君と三人で

意識と言うのは物質なのか、とか宗教の話とか

とてもいい話になりました。



どんどんつきつめていくと、結局人類はサルから

生まれた、というならサルはどこから来たのか、

微生物から進化したなら、たんぱく質がないと

微生物もできないし、じゃあ、たんぱく質は

どうやってできたのか、偶然の産物ではないのか、

色々な条件が整ったなら、じゃあ地球ができたのは、

宇宙ができたのはどういうこと、なのか、

結局何も答えはない、ということになり、

どんな分野であれ、学問の究極は、わたし、というのは

何なのかということにつきるんだよね、とまとめて

しまいました。


小学生から来ているこの子たちとこんなに

深い話ができるようになったんだと感慨深いです。


いい問いを投げかけてくれてありがとう。

2015年5月30日土曜日

epistemological engine

最近読んだ会話分析の論文にepistemic engineという

話が出ていました。

会話分析の授業や研究会でepistemicなんちゃら

(epistemic status  とか epistemic right)

という用語がよく出ていてなんのこっちゃ、と思っていましたが、

どうもその状況で話されている内容に関連する知識を

もっている人と持っていない人のことを表しているらしい。


自分の修論の一節にontologyとepistemologyという大きすぎる

概念を入れてしまったがために、ずっと認識論の

話かと思い込んでいて、混乱していましたが、

それほど大きな話でもないらしいです。


epistemic engineというのは自分なりの理解では、

話されていることの内容についてお互いに知っている

ことに差があるために、返ってその差を埋めようとして

会話が進む、との推進力になる、ということだと思われます。


違っていますか?違っていたらコメントよろしくお願いします。


それを先に進めて今の自分の研究の推進力になるのは、

epistemological engineではないのかなあ、と考えました。


バフチンの対話原理と会話分析の哲学、という二人の

師匠のあいだをいったりきたりしているわけですが、

学べば学ぶほど、この二つは認識論的には

ほぼ同じだと思えてはならないのです。


先日のバフチンカフェで師匠と話したときに、それは

人間を先にして言語を考えるか、言語を先にして人間を

考えるかの違い、だと言われてちょっとすっきり。


つまり、それは言語の存在論の話ではないでしょうか?

かなり納得。あとは自分の仕事は、認識論的には

一致している、ということを論文に書けばいいのかな、

と思いました。


ここまで読んで下さった方、ありがとうございました。

なんのことかわかりませんよね。わかるようにどこかで

ちゃんと書いて発表したいと思っています。


また出たら読んでくださったらありがたいです。




先生ってすごい

4月にM1の合宿に行かせていただたいたのですが、

その後、気になっていたM1の女の子にたまたま

PC室であったのでどうなった、と一言聞いたら、

ああ、もう180度考えが変わってすっきりしました!と

表情が明るくなっていたのでよかったなあ、と思いました。



親が教師なので、教師には絶対なるまい、と思っていたのですが、

大学院の授業に出て自分には研究なんてできない、

とかフランスに留学に行かないといけない、と

いうのがぱーんと吹っ切れました、というのです。


大学院の授業で、君は研究者には向いていないので

教員採用試験を受けなさい、と言われたそうです。

そのあと、人生でどん底になるくらい落ち込んだのですが、

2,3日たってああ、自分は教師になってもいいんだ、

と思ったそうです。


それからとても楽になって大学院の授業がどれも

楽しくなったんです、と、私が最近見たときの暗くて

思いつめた表情とは別人のような、

可愛くて女性らしい明るい顔をしていました。


先生ってすごいです。


2015年5月25日月曜日

少しずつ少しずつ

共同プロジェクト2014が終盤にさしかかり、また今年度も

リサーチアシスタント(RA)として、メンバーに加えていただけることになりました。


初校を見せていただき、表紙や目次に先生方に混じって

自分の名前があるのは、内容の浅さをつきつけられるようで、

顔から火がでるほど恥ずかしいです。が、何度も原稿を直して

いただき、それでも懲りずに今年も誘っていただいた

担当の先生に感謝、感謝です。



ちょっとほっとしたので、だらだらしていた自分に活を入れるべく、

テンプル大学への投稿論文にかかっています。英語で文章を

書くのは、修論と昨年末のアカデミックライティングの集中講義

以来なので、なかなか進まない。アウトラインもできたつもりなのに、

見直してみると、なぜこれが一貫性があると思ったのかさっぱり

わからない。明日副査の先生とお話しするので、今ばらばらと書き進めて

いますが、どうなることやら。ちゃんとした論文になるのかは

五里霧中な状態です。


全国英語教育学会の研究大会への発表準備も同時に進めて

います。予稿集の締め切りが6月半ばで、こちらは主査の先生に

相談していますが、これまたどうなることやら。



なんで、もう少し頭が明晰にならないんだろう、と情けない。

あちこちに意識や興味がどんどん拡大して、収拾が

つかなくなっていきます。論文を書くには、一本筋が

通ったものがないといけないのに。


とりあえず、少しずつ少しずつ進んでいっています。




2015年5月23日土曜日

プロジェクト型授業

ipad授業の話を書いたので、もうひとつTAをしている

プロジェクト型授業の話も新鮮なうちに書いておこうと

思います。



これは、会話分析の先生が立命館大学で教えていらしたときに

同僚の先生方と開発された授業だと思います。


阪大の理系の学部生の授業なのですが、はじめて見学

したときには、驚愕しました。


なにしろ、内容がすごい。英語はおそらく話した経験が

ないので腰がひけるとは思いますが、インターネットで

検索して次々と自分の興味のある内容を英語で

まとめてきて、発表する。はい、はい、と次々と

手があがって時には競合したり。


どんな魔法をつかって学生をこのようにもっていくのかと

思いました。


あとから先生の授業のプレゼンをみて、なるほど、

と納得しました。



若くてエネルギーにあふれる先生だからこそ、こういう

授業ができるのかな、と思います。プランニングと

モニタリングがかなりしんどそうですが。


こんな授業を自分もしてみたい。現役の先生方にも

みてもらいたい。

ipad 授業

久々に、京都教育大の元院生仲間と会うことができました。

といっても、最後にあったのは、2月の修論発表会でしたので

それほどたってはいませんが。滋賀県のベテランの高校の先生、

今年から高槻市の高校の先生になったばかりの語彙の研究者、

京都市で小学校で教えている、絵本やヴィジュアルで修論を

書いた先生です。


皆の近況も聞きたかったし、自分の近況を伝えてどういうことが

現場の先生の力になれるのか、反応をみたかったのですが、

皆さんバランスよく話したり聞いたりできて、とても充実した時間でした。


書きたいことは山ほどあるのですが、一つにはICTがどこまで

現場に浸透しているのかな、と思い、今TAをしている授業の

話をしてみたところ、みんな興味をもってくれて手ごたえを

感じました。



以前書いたと思いますが、ドイツ語の学部の授業のTAなのです。

先生が懸念されたほどさぼったりする学生はなくて、

ドイツ語の復習がてらお手伝いさせていただいています。



これがipadを使った授業です。すごく面白い。




教室を改造してipadが使えるようにテクノロジーを整えている

ipad部屋という新しい教室で行われています。


私ともう一人中国からの留学生と二人のTAは早めに

教室に行き、可動式の机と椅子を動かして、

3~5人のカフェスタイルになるように整えます。

ぼちぼち来る学生にも声をかけて手伝ってもらい、

ipadをしまっているこれも可動式の倉庫の鍵を

開け、次々と学生に貸し出して名前、学生番号、

ipad番号を書いてもらいます。



先生が来られると、出席チェックのところにログインして

それぞれのipadから名前、学生番号、そして先生が

口頭で言われたドイツ語のキーワードを入れて送信

します。それが出席チェックになります。

ある程度時間が経つと、先生が締め切りをされるので

もうログインはできないようになっています。


ipad部屋は、教室の4面全体がスクリーンとして使えるように

なっているので、例えば先生が読んで訳してくるように、と

宿題として出したアウシュビッツの記事に関連した

写真を出すと教室のどこからでも鮮明に見えます。


そして、先生がドイツ語で元気ですか?というのに答えてね、

と言われて全員のipadをお絵かき送信状態にすると、

ドイツ語で答えられる学生は手書きで元気です、と

書いたり、できない学生は絵文字などで答えたり、

それぞれの個性に応じて白板に書くように書いて

送信します。


先生のipadでは全員の答えをみて、それをスクリーンに

映し出すこともできるし、これはいい答えだ、と思った

学生の答えだけを映し出すこともできます。


私よりもたぶんかなり年配の女性の教授ですが、

ICTはお好きらしく、すごく使いこなせておられます。


でも、思ったのは、ipadは気分転換にはなるけれど、

学生からは細かい文法の解説をしてほしい、という

要望があるらしく(ドイツ語の文法はものすごく難解)、

じゃあ説明するね、と説明をされ始めるとみんなついて

いくのに必死。


宿題のニュース記事を学生に読ませるとどうしても

英語の発音になってしまうので、それも先生は

不満らしく、(そりゃそうです)、発音がだめだと

命にかかわるのよ、とご自分がベルリンで国境に

近づいた時に西ドイツの友人たちを拘束された

お話をされてそれがものすごく面白く、ipadやなんやかや

テクノロジーよりも先生の経験や見識、哲学の

魅力にまさるものはないなあ、と改めて思いました。







2015年5月18日月曜日

国際英語?

国際英語の授業を聴講させていただいています。

感じたことは山ほどあって書ききれません。が、色々思います。


先生は私よりも年配の方です。国際英語という銘打ってはいるものの、

なんか感覚が古い。なにかというとアメリカと日本、もしくは、アメリカとアジア、

という二項対立の思考方法も今ひとつ。ヨーロッパ知らんな、と思う。



Japanese Englishとか、日本を打ち出すのであれば、もっと深い

宗教的、歴史的、哲学的な思考もあってしかるべしであると思うのですが、

それはあまりない。英語では色々言われていますが、あまり

授業では伝わってこない。


日本もしくは日本文化に関する考察が表面的すぎて

私は物足りないです。かといってアジアのそれぞれの国の

宗教、文化、哲学、歴史にに関する知識もそれほどあるとも思えません。

多様な英語を学ばせるために色々な国の政治的なニュースを

取り上げるのであれば、それなりの国際メディアやジャーナリズムの

専門知識がないと学生を誤って誘導してしまう危険があるのでは

ないかと思ったり。



その先生にあこがれ、影響を受けた、優秀な学生のプレゼンはすごい。

英語はすごく、流ちょうで品格があって論理的でさすがだと

感じました。ただ、なんか、内容が浅い。その先生の考えが表面的

なので、それに影響されてしまっていて、せっかく日本人で英語の

説得力があるのに若いうちにプレゼンの形式が完成されてしまって

いるのがもったいないと感じました。



若い時はもっともっと、バランスが悪く、葛藤してぶつかって

苦悩したり、嫉妬したりされたりする方がいいのではないでしょうか?

そうでないと、人生を深く考える機会を逸してしまうのでは?


私の生意気な時代をみた大人もきっとそういうふうに

感じて、聞く耳もなかった未熟な私の可能性に、

色々忠告してくださったはず。



若者と年配者の遭遇をまのあたりにみると、

そういうことをまた懐古的に色々感じるのでした。










JALT Pan SIG 2015

この週末、表題の学会に参加しましたが、すごく楽しかったです。


やっぱり自分は英語でディスカッションするのが大好きだということを

再認識しました。


会話分析について、本場の先生方の声も聞けたし、何よりも自分の

ついている先生の賢さ、英語力、プレゼン能力、論理、考えの深さなど、

総合的な実力がすごい、ということをわかってますます尊敬しました。


こんな研究者のコミュニティの周辺でほそぼそでも入れるなら生きていけるかも、、

と安心しました。認められるような論文を書かないと。


来年は沖縄だそうです。来年発表できるような自分になっていたい。

できるかな。できると信じます。

2015年5月15日金曜日

テストの時期

中2がいつものごとく、テスト直前の仕上げにやってきました。

その間はいつものレッスンを中止して、教科書をディクテーション

したり、質問に答えたりします。



教科書や問題集のあちこちから、子供たちがめんどくさがる

細かい字でかいてあるポイントを拾って、解説したり、

理解したか言わせてみます。



たとえば、few, a few, little, a little, many, much, some,

 not any, noがばらばらに問題集の中に例文で出てきているので、

彼女たちには、さっぱりわけがわからない。塾や授業で

教えられてはいるんだろうけれど、その時どういう状況だったのか、

認識の度合いもちがうだろうから、断片的におぼえては

いても自分で整理するのは困難の極み。



説明してほぐしてあげたり、整理して理解したのを確かめるのは

好きなんだけれど、文法中心、雑多な知識中心の学校の

テストにふりまわされるといつもなんだかな~と、虚しく思っていました。


数えられないもの、を説明するのに、今日初めて、「概念」と

いうことばをつかってみました。water, coffee, teaは一つ二つと数えられない、

a glass of water, a cup of coffeeは数えられる、というのは理解。

ただ、food, moneyを説明するのに、「概念」とジェスチャーで色んなものを

囲んで(説明にもなっていませんが)理解をたしかめると、「わかった、

グループ?」「それ、きらい、そのがいねん、っていうの」「fishも一緒?」

「fishはちがう」「fishは一匹とか数えられるやん」「日本では数えられる

か数えられないとか区別せえへんのに」とかそれなりに反応して

考えようとするのが面白かった。


先日読んだ、『ベストプロフェッサー』 (ケン・ベイン著 邦訳2008年 玉川大学出版部)

には、「気にかけることが重要である」「人はその答えを気にかけている

重要な質問がなされたとき、あるいは到達したい目標を決めたときに、

もっともよく学習する」(p40)とあります。


優れた学習効果を上げるためには、学習者は、

(1)彼らのメンタル・モデルが機能しないような(すなわち、何かを

   説明したり行動したりするのに役立たない)状況に直面しなければならず、

(2)直面している課題を中止したり取り組むためには、十分に機能しない

  ことを気にかけ、

(3)長い間信じていたことに挑戦することで生まれる感情的苦痛に対処
  
  しなければならない、

そうです。(p36)



まさに昨日の瞬間はこれだったなあ、と思いました。テスト対策、も

つかいよう、でした。




 










2015年5月10日日曜日

研究について

最近、研究ってなんなんだろう、なんで自分がここにいるんだろう、

と悩むことが多いです。


たまたま、ドクター課程に在籍していますが、指導教官のゼミに

出席してもなんか釈然としない。他のドクター課程の院生の発表を

聴いてもこんなんでいいの?こんなレベルで博論を書くの?と

思います。先生がええやん、とにこにこしておられるのを

見てもまったく釈然としない。


質的研究についても各先生方の考え方があまりにもばらばらで

よくわからない。




一昨年、ヴァルシナーが立命館大学に来られたときに聴きに

いったのですが、そのときにやまだようこ先生と一緒に壇上に

立たれていたサトウタツヤ先生という名前が印象に残っていました。



娘が、自分の資料を整理していてママ、これ読んだらいいよ、

とくれたPPTのコピーを見て、そうだ、サトウタツヤ、と

捜したらこんなのがありました。自分は素人だけど、追求したいことは

確かにある、がんばろう。


http://www.ic.nanzan-u.ac.jp/~urakami/in.html#i15


2015年5月9日土曜日

大学受験

自宅塾の生徒はもうとらないようにしてるので、

小学生の時からのつきあいの子だけが来ています。


ちょっと今高校生の子の顔色が気になります。


素直で勉強もよくできる気持ちのまっすぐな優しい子なのですが、

進学校で、あこがれの大学があるので受験は彼にとっては正念場。

連休前までは好きな科学の話などやクラブの話も笑顔で

話せましたが。GW明けの顔を見ると、ちょっとくらい。


だいじょうぶかなあ。


塾と理系に特化したクラスなので、友達の発言と

もちろん相互に影響しあうし、先生への批判があるのは

若者として当然。ただ、気になるのは、あの先生のやり方だと

伸びない、という友達同士の会話です。受験=点数の競争=

いい先生は点数を伸ばしてくれる先生、という考え方。


そりゃそう、科学者になりたい、あこがれの科学者がいる大学に

行きたい、それには我慢して細切れの知識を意味なくても無理矢理に

つめこまないといけない、効率、効率、効率が大事。


それでも、週一回英語をしゃべりに来てくれる。うちはそれほど

効率的なレッスンはしていないのですが。



彼のいいところがそういう効率主義で損なわれているのが

痛ましい。でも、人生どこかでそんなことで苦しまなければ

ならないのであれば、大学受験でひと時その洗礼を

受けるほうがまし。



もっともっと人生には辛いことがある。彼が大きくなれば、

また優しさを取り戻して沢山の人に貢献する科学者になるはずだと

思う。


がんばれ、まーくん!

グローバル人材

ゴールデンウィークが終わりましたが、色々できなかったことを

したり、会えなかった人たちと会えてよかったです。


本当は、その数日間にもっと研究をすべきだったのかもしれませんが。



かなり前にあったきりの友人に再会しました。プロの国際ジャーナリスト

である彼女と話したことで印象に残ったことが二つ。


今更なんで日本はグローバルと言っているのか、と不審がって

いたということと、本当にグローバルな人材なんていらないんだよね、

ということ。



一つ目は、今更、ということばを使うということは、彼女がその概念は

古いととらえていることだと思います。確かに自分も英国の航空会社

に勤めていたときには斬新なイメージがあったけど、世界的には

グローバル、というのは、もう、ださいんだな、と感じました。


二つ目は、彼女のように高校でアメリカに留学し、

日本の大学を出てアメリカでジャーナリズムを勉強し、仕事で

ロンドン、カンボジア、タイ、ミャンマー、ニューヨークと

十年以上海外で勤務していた本当の意味でグローバル人材と

いう人がそう感じる、ということの日本社会の病理という

ものを感じました。ほしいのは「グローバル風」な日本人なんだよね、

という。


自分たちの感覚を逆なでするような論理を身につけて

しまったグローバルな日本人なんていらない、ということなんでしょうか。