2014年9月27日土曜日

第17回外国語教育質的研究会

3月以来、久しぶりに行ってきました。

色々嬉しいことがありました。

まず、何よりも昨年質的研究の右も左もわからない自分を受け入れて下さり、

輪読や発表の機会を与えて下さった恩人の先生方(と勝手に思っている)

にまたお会いできたこと。



そして、無謀にも、関西でぜひしてください、とお願いしたのが実現したこと。

今回は、立命館大学でしたが、今後名古屋、関東、関西色々なところで

やりましょう、というような話もあったので、機会があればぜひわが大阪大学でも

やれたらよいな、とひそかにちいさい野望を燃やしました。



改めて思うのは、高木先生はじめ、メンバーの皆さんのcritical thinkingに学ぶところが

大きいということです。


前半は、Benson, P.(2013). Narrative writing as method:second language identity development in study abroad についてのディスカッション

後半は 和光大学の千田誠二先生の研究発表

「大学生の英語学習不安に関する質的研究」

と立命館大学の上條武先生が提示された量的研究と質的研究をミックスした

論文についてのディスカッションでした。

対象となった論文はこちら。

田中博晃 (2014).「特性レベルの内発的動機づけを高める授業と有用性の
欲求」英文タイトル Motivational Intervention and Satisfying Learners'
Need for Competence JALT Journal, 36, 91-123.


Bensonの論文については、narrativeは自分がとったデータを自分が書くことが多いが

あえて人のとったデータを第三者が書く、ということに意義があるのではないか、という

意見が出ていました。ただ、Findingsが短く、単なる紹介で、これをモデルにするのは

質的研究者は納得できないかもしれない、と言われていました。



千田先生の発表については、理論の整合性にこだわることは好きではない、

あくまでもことばを大切にして人間性のある質的研究にこだわりたい、と

おっしゃっていることが印象に残りました。先生の持っておられるクラスは

大学生であっても、小文字のb、dが区別がつかない、student, learnという

単語も知らない、というレベルでほぼ9割が初級者レベルで特殊な例かも

しれない、ということです。実践を重視したい、ということで、みなさんからは

これからは、実践報告、よりも実践研究というのも論文で増えてきているし、

そのようなスタンスでやればいいのでは、というアドバイスもありました。


一番、批判が多く、盛り上がったのは最後の田中論文です。それについてはまた。




手ごたえ

昨日、小1のときから教えているかしましい中二女子三人の

レッスンでなんとなく気づいたこと。


この子たちは、ほんとにこましゃくれていて、小学生の時には

なかなか手におえなかった。でも三人三様個性があって、

面白い。もちろん、小学一年生から来たのは自分の意志ではなく、

親の意志。いくら正しい発音や、フレーズを教えて、自然な英語を

身につけさせようとやっきになってこちらがしても、おいそれと

従わない。ずっと反抗的。それはそれで面白くて、何か、自分と

違う文化の人間としゃべっているのが面白かったので、10数年も

自宅塾をやってきたんだと思うのです。


ずっとずっと私の教える発音や言い方に反抗し続けてきた

彼女らが、今年に入ったくらいからなんか態度が変わってきました。

英語なんか日本人やんし、使わへんし、と言い続けてきたり、

せっかく通じる発音もわざとカタカナ英語みたいにいったり、

この塾にくるのは息抜き、おしゃべりできるから、という態度を

あからさまに見せていた彼女たち。


なんか、イントネーションと、強弱に気を付けて真似しなさいね、

というとその通りにがんばって真似してリピートする。そうそう、

それでいいからじゃあ、今度は、長~くのばすところと急いで

短くいうところと意識してリピートしてみて、というと素直に

やる。なに?なんでこの子たちはこんなに素直になったんだろう?


ちょっとその前の雑談を思い返してみると、どうやらロールモデルに

なっているような帰国子女っぽい女の子がいるらしい。


やっと、私が多少なりとも価値のあるレッスンをしているという

ことがおぼろげにわかったらしい。


女の子って可愛いですね。




2014年9月25日木曜日

教育復興フォーラム、Daniel Everett講演会

秋は学会の季節なのか続々案内が来ます。

1 教育復興フォーラム


 東京都板橋区で開催されるそうです。

https://sites.google.com/site/eduforumdhb/upcoming-seminars 
 
 
【教育復興フォーラム 1回公開セミナー】
『グローバル化と外国語教育の役割:学習者自律を考える』
日時:20141026
時間:930分~1200
場所:板橋区グリーンホール502会議室(参加費無料、事前申込不要)
パネリスト:佐藤洋一・中竹真依子・佐竹幸信

2.Daniel Everett 講演会

  あした25日も、阪大の言語文化研究科で13時から、めったに会えない

  この海外の研究者の講演が
  
  あるそうです。なんでも、アマゾンのある部族に宣教師として入って、

  結果キリスト教の進行を捨てて、言語学者になったとか。そのアマゾンの言語

  を身につけて、チョムスキーの普遍文法を否定して世界をあっと言わせた

  有名な方、ということです。


  案内のPDFを貼り付けようと思ったのですが、このブログに添付の機能がなくて

  残念、ご存じの方はフェイスブックにあげておきますので、見て下さいね。

  フェイスブックがわからない方はコメントでおたずねください。コメントを公開せず、

  メールアドレスに直接お送りいたします。




 

2014年9月22日月曜日

所与性

先日のCJP合宿の時に、話題になったのが、表題の所与性、という

ことでした。日本語の小難しい論文でも所与の何々、という言葉を

みかけることがあって、あまりよく消化しないまま来ていましたが、

この半年間、色々読ませていただいているうちになんとなくわかったような

気がします。


自分の拙い理解では、例えば、「わたし」が今こうしてこうある、というのは

与えられたもの。私個人で言えば、ジェンダー、年齢に始まり、たまたま

家に本が沢山あって読んでいた、とかこういう両親に育てられたとか、

兄弟姉妹の中の自分のポジション、大阪に生まれその郊外で育ったとか、

育った時代、見聞きしたもの、中学校に入る前にたまたまラジオを聞いて

その番組がはまって英語が得意になったとか、そういう環境、嗜好、性格

ものの見方、日本人として生まれたこと、とかすべてが所与のもので

あってそれから逃れることはできない。


研究者としても活動家としても教師としてもそれを考慮に入れる、

とかしないといけない、というようなことだったと思います。


それはもっと大きい話で、それに反論して、今この目の前に難民が

いるからなんとか助けなきゃ、所与性がなんとかとか言っている

場合ではない、という人もいましたが、まず、その難民、という概念が

そもそも所与のものなのだ、と言われていました。当事者からしたら、

難民、ではないのかもしれないし。



所与性があって、その人それぞれの現実がある、という、客観的な

現実と言うものはないのだ、という話だったと思います。



なんか、目からうろこが落ちたようなそんなきっかけになった議論でした。


あとから、メールで、すべて所与のものだ、と言われたとき、いつも

それならどうしたらいいんだ、と逆切れしていましたが、所与なら

変えてもいいんだ、と思い返したら救いがあるような気がする、

と言ってこられた人もいました。




2014年9月20日土曜日

会話分析、バイリンガリズムの研究会など色々

1.今月27日に立命館大学衣笠キャンパスで会話分析の研究会(データセッション)があります。

残念ながら、同じ日に外国語教育質的研究会が立命館大学びわこキャンパスであり、

そちらの方に参加するので、今回は不参加。

 興味のある方は次の研究会HPをご覧ください。
https://sites.google.com/site/appliedcagroup/


2.外国語教育質的研究会のご案内は青山学院大学の高木先生の

ホームページから見れます。できれば、次回関西で開催の折にはもっと近場で

(たとえば、阪大の豊中キャンパス、とか、あくまでも希望です)できればいいのですが。

http://akikotakagi.jimdo.com/%E5%A4%96%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E6%95%99%E8%82%B2%E8%B3%AA%E7%9A%84%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A/



3.来月19日に立命館大学大阪梅田キャンパスでバイリンガリズムの研究会があります。

神戸大のTim Greer先生の「相互行為におけるバイリンガル・アイデンティティ」という

テーマの講演があると教えてもらいましたので、参加することにしています。

興味のある方はこちらをご参照ください。
https://sites.google.com/site/bilingualismasa1stlanguage/di10hui-yan-jiu-hui


4.同じく来月の23日の大阪大学言語文化学会第46回大会に発表を申し込んだところ、

アブストラクトが審査に通り、承認されてしまいました。

ああ~、自信がない、緊張する!頑張ってたたかれて勉強させていただきます。












2014年9月17日水曜日

Critical Japanese Pedagogy 合宿

表題の合宿に行ってきました。


修士課程のときから「合宿」ということばにあこがれてていたところ

このたび、指導教官の先生からMゼミ、Dゼミにお誘いがあって行ってきました。

もうひとつpedagogyという言葉について、長年英語を教えていた(つもり)にもかかわらず、

大学院で科目履修するまで見たこともきいたこともないことばでした。

学部生にどういう意味?と聞くと、なんで知らんねん、という目つきで

「教育、と、いうことだと思いますが。。。」と教えてもらったのを思い出します。



指導教官からは、日本語教師ばっかりやから、あまり合わんのと違うか、と言われて

ちょっと逡巡していたのですが、行って本当によかったです。


オングの著書の輪読会、自分の担当も精いっぱいでき、(肩に力が入りすぎていたかも)、

研究発表も言語政策や、日本語教育のコーディネートを含め、英語教育との共通項も

あり、カリキュラムを改革する必要があるという自然体の責任感、のようなものが

いいなあ、と思いました。


英語教育はあまりにも巨大すぎて、制度を変えるとか、教科書を変えるとか、そういうことは

一介の自宅塾のせんせいである自分には手に負えないし、そもそも教員免許をもって

いない自分に何ができるんや、という疎外感とあきらめ、でがんじがらめになっていたので。


でも、別の意味で自分なりに何か戦う形をさぐることができるのかなあ、と

なんとなく思っていて、この合宿では同じ師匠のもとで学び、議論し、巣立ち、

言語教育から派生した色んな場面で社会貢献をしている先生方と出会うことができました。


まだまだ、社会的に自分にはできることがあるかもしれない、と勇気づけられた三日間でした。

2014年9月13日土曜日

Discourse and cognition 他

5月の始めにこの本のことをちょろっと書いたと思いますが、

それからまったく進んでいなく、やっと第三章を読み終わりかけです。

なんせ、真剣に読んでいると今までの自分の五臓六腑をひっつかんで

ひっくり返しかねないような世界観と人生観のパラダイム転換を強いるような

感じです。




進めてくださった先生は、アメリカの大学院でこれまでの人生で一番勉強と

研究に没頭したという若い方なので、英語に関しては太刀打ちできるはずもなく、

さっと読めるでしょう、と渡された本のことごとくが時間がかかるかかる、

しかも内容が深いし。先生はどういう読み方をなさっているのですか、と

おたずねすると、最初はとにかく線もひかず一冊ざっと読み、概要を頭に

入れてから精読される、とのこと。まず、線も引かず概要を頭に

入れる、という時点から自分にはもう無理。亀のように、鉛筆を引き、

気を失いそうになりながら、書きこみ、辞書引き、書きだすという作業

が自分にとって読む、ということなのです。


とにかく、書きださないと読んだことを全部忘れてしまいます。


今日久しぶりに院生室であったM1君に夏休みなにしてたの、と聞くと、親が

ハワイにいっていたので、ひたすら午前中洗濯、掃除、ご飯をつくって残りの

時間は論文を読んでいました、と言う。それも後期とりたい授業の先生の

前期の論文を全部読み終えた、と。それって、前期、めっちゃ四苦八苦しながら

Mたちと読んだやつやし。


なんか、頭のいい人たちってスケールが違いすぎる。そんな環境で

勉強させてもらえるというのは、幸運と言うかありがたいというに尽きます。


さあさ、あさってから合宿。がんばろう。

2014年9月5日金曜日

話しことばの言語学ワークショップ

終わってからで申し訳ないのですが、表題の研究会を少しだけお手伝い。


https://sites.google.com/site/discbasedling/workshops/ws-9


ことばにこだわっているマニアックな研究者の集まりで面白かったのでした。

ただ物足りないとおもったのは、皆さんこれだけ専門知識と表現力があるにも

かかわらず、無難な研究にとどまって満足しているのはなんなんだろう、と。

今の日本社会やメデイア、組織、権力を批判することもできるはずなのに。

週刊読書人

たまたま、大学時代の友人が産経新聞なので、同窓会の折に

購読を頼まれたのです。実家はずっと朝日新聞、結婚してからは

旦那と二人で仕事で必要なので日経。仕事をしていた10年余りは

とても日経がわかりやすかったので好きでした。経済に特化していましたので。


産経新聞を購読しているうちに、その上方文化の思い入れにどんどん

のめりこんで行きました。めっちゃいいんです。文楽に、上方歌舞伎に、

上方落語に、座敷舞の優雅な旦那文化が。関東大震災から逃げてきた

谷崎潤一郎を読み進めるほどに特に「細雪」にのめりこみ、色々勉強になり、

学友も文化畑なのでとても感謝しています。


でも!

でも!


このところの政治、憲法、安全保障、とかのあまりにも右寄りの思想に、

色々ついていけなくなってきました。しかもこのところは、朝日新聞をたたく、

上げ足をとる、悪口合戦にしか思えない。といったところで、この数日の

池上さんの事件。


大手メディアはもう、どちらも読む気にもなれない。


何を信じていいかわからなくなっていたところで、表題の新聞を大学図書館で

読みました。ちょっとほっとしました。ある程度、公正に誠実に報道しようとなさって

いるような気がします。


明日、大学の国際政策専門の院生たちと飲みにいくことになっているので、

できるだけいい質問をして、納得して帰ってこれたらいいな、と思います。

2014年9月2日火曜日

W.J. オング 『声の文化と文字の文化』

 一冊の本を読んで、その書評を書く、ということをしたいのですが、

なかなかむずかしい。表題の本を、今月半ばの合宿で購読することになっていて、

読了。歴史とからんでいて、とても面白かったです。文字の浸透していない文化、

声が中心の文化、の特徴がよくわかりました。普段、子供と接しているのでその発達

段階、いわゆる系統発生が個体発生とよく通じるという話だと思いました。

 とりあえず、自分の担当、第四章前半のレジュメを用意したので、興味のある方はご参考まで。

Domesday Bookについての英文の引用は、インターネット上で英国のナショナル・アーカイヴから

です。このホームページも時間あれば、じっくり読むと面白そうです。



『声の文化と文字の文化』 W.J.オング(桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳)藤原書店

第四章 書くことは意識の構造を変える p166~209
 
それだけで独立した話しという新しい世界(p166~)
読み書きが身についた人間とは、書くという技術によって直接ないし間接的に構造化された力からその思考過程が生じているような人間である。
「コンテクストをもたない」言語(Hirsch 1977, pp21-3,26)「それだけで独立した」話し'autonomous'discourse(Olson 1980a)は、書くことによって確立した。
書物は、ある発話をその発生源、つまり、その書物をほんとうに「語った」者、あるいは書いた者からひきつぐ
 
プラトン、書くこと、コンピューター(p167~)
プラトンは『パイドロス』(274-7)『第七書簡』の中で書くことにたいして反論している。
1.現実には精神のなかにしかありえないものを精神の外にうちたてようとする点で、書くことは非人間的
2.書くことは記憶を破壊する、精神から仕事を取り去る
3. 書かれたテクストはなにも応答しない
4.書かれたものは、現実の人間どうしのやりとりのコンテクストから離れ、非現実的、非自然的な世界の中で受け見になっている
以上はコンピューターや印刷についてもあてはまる。書くことも印刷もコンピューターもすべてことばを技術化するための方法である。いったんことばが技術化されると、その技術によってなしとげられたことを批判するためにも、最先端の技術のたすけを借りるほかはなくなる。
プラトンの哲学における分析的な思考は、書くことが心的過程におよぼし始めていた影響があってはじめて可能になった。
本来話されるものであることばと、技術がことばにもたらしたすべての変容とのあいだには、いくつかの逆説がある。例えば、書くことは、死と密接なつながりをもつ。死んだテキストが、耐久性を手に入れ、その結果、潜在的には無数の生きた読者の手で、数かぎりない生きたコンテクストのなかによみがえるための力を手にいれる。
 
書くことは技術である p172~)
書くことは、三つの技術〔書くこと、印刷、コンピューター〕のうちで、ある意味で、もっとも激しい変化をもたらした。印刷術とコンピューターは書くことが始めたことを継続しているにすぎない。
書くことという技術は、たえず動いている音声を、静止した空間に還元し、話されることばがそこでしか存在できない生きた現在からことばを引き離すということである。
p174
話されることばを書かれたものに置きかえる過程は、意識的に適用される明言可能な規則によって支配されている。書くことは、人間の内的な潜在力を十分に実現するためになくてなならないものである。技術とは、たんに外的なたすけになるだけのものではなく、意識を内的に変化させるもの・・・そうした変化は向上ともなりうる。書くことは、意識を高める。
p175
技術は人工的である。人工的であることは、人間にとって自然なのである。技術も、適切な仕方で内面化されるならば、人間の生活の価値を低めはせず、反対に、それを高める。
p176
道具をみずからの一部とし、技術的なわざを学習することによって、人間が非人間的になるということはまずない。むしろ、技術の使用によって、人間のこころは豊かになり、人間の精神は広がり、その内的な生は密度を濃くすることができる。
 
「書かれたもの」ないし「スクリプト」とはなにか p176~)
記号論的なしるし、つまり、ある個体〔個人〕がそれをつくり、それになんらかの意味をあたえている視覚的なしるし、あるいは、ほかの感覚でとらえうるしるしを「書かれたもの」のなかに数えいれることも、もちろん可能である。だが、「書かれたもの」という語をこのように広い意味で用いてあらゆる記号論的なしるしづけを含ませることは、その語の意味を些末化してしまう。
新しい知識の世界への危機的で前代未聞の突入が人間の意識の内部でなしとげられたのは、たんに記号論的なしるしづけが考案されたときではなく、視覚的なしるしのコード体系が発明され、それによって、読み手がそのテクストからとりだすであろうことばをあらかじめ書き手がまちがいなく決定することができるようになったときである。
これこそ、その正確に限定した意味において、われわれが今日ふつうに「書かれたもの〔書くこと〕writing」と呼んでいるもの〔こと〕である。
 
書かれたもの〔スクリプト〕は多いが、アルファベットはただ一つ p180~)
p188
ギリシア人が母音をもった最初の完全なアルファベットを発展させたとき、かれらは、心理的に重大なことをなしとげたように思われる。
音から視覚対象へのことばのこの決定的な、あるいはむしろ、全面的な変容によって、古代ギリシア文化は、他の古代諸文化に対する知的な優位を手にいれたのである。
p191
アルファベットは、たぶんその起源は絵文字だとしても、事物としての事物とのつながりをすべて失っている。アルファベットは、音そのものを一つの事物として表示し、うつろいゆく音の世界を、静止し半永久的な空間の世界に変形する
文字文化のはじまり p193~)
ある特定の社会の中にはじめて書かれたものが持ち込まれたとき、しばしば、秘められた魔術的な力を持つ道具として考えられる。
少数の人間だけが読み書きできる社会では、書かれたものは危険であり、読み手をテクストとを仲介する導師が必要であると考えられている。また、テキストそれ自体が宗教的な価値をになっていると感じられることもある。
「職人文字文化」(craft literacy)の段階―書くことは、ある職人たちが従事する一つの職業であり彼らは手紙や記録を書くときに雇われる。
この段階がのりこえられて、ようやくプラトンの時代にギリシアでは書くことがひとびとのあいだにいきわたる。
筆記技術の低い水準(乾く前の粘土板、動物の皮革、樹皮、ロウ板、鉄筆、ガチョウの羽)←扱いには特殊な技術が必要。
「口述筆記」声の文化に由来する根強い習慣
書きながら文章を練るやりかたが現れたのは十一世紀はじめのイギリス、だが、声にだして自分が語っていると想像しながら書くというように、まだかなり声の文化をひきずった心理的枠組みの中でおこなわれた。
その後、みずからのことばを紙のうえで作者がつなぎあわせているような文章があらわれる。このとき、思考は、声の文化によって支えられた思考とは異なった輪郭をとるようになる。
 
記憶から書かれた記録へ p199~)
初期は書かれた記録に信用がおかれていなかった。
多数の人間の口頭での証言のほうがテキストよりもいっそう信用のおけるものだった。テキストは問いただしたり、反論させたりできないが、証言に対してはできる。
文字にもとづく文化の中でも遅れて発達した公証人方式でさえも、本物かどうかは、なんらかの象徴的なものによって証明されることがしばしばであった。
 
 
Domesday Book
At Christmas 1085, intent on knowing more about the land he had reigned over for
 nearly twenty years, William commissioned the survey that became known as 
Domesday Book. The survey was much more than a means to satisfy William’s fascination
 with his new kingdom. It recorded the value of land he held personally and that held
 by
 his tenants-in-chief. Where there were disputes over land it helped settle disagreements. At a time
 when England was again under threat of invasion, this time from Denmark, 
finances
 and men to support his campaigns were crucial. Domesday provided an estimate
 of 
the taxation William could expect to receive and the military service he
 could 
demand from his lords. 
 
とともに、書かれた文書の量が増大していくが、かつての声の文化に根差した精神の状態は根強く残っていた。イギリスの初期の土地譲渡証書にはもともと日付がなかった。←人びとは、自分たちの生活の一瞬一瞬が、抽象的に計算される時間のようなもののなかに位置づけられているとは思っていなかった。抽象的な暦のうえでの年数は、現実の生活にはなんのかかわりもなかった。
証書が本物かどうかはその見かけで判定され、たえず偽造された。
声の文化が機能しているところでは、人々は、過去を項目化itemizedされた領域とは感じていず、過去は祖先たちの領域であり、現在の生活への意識を更新するためにふりかえってそこから教訓をくみとる源泉なのである。
現代の生活それ自体も、項目化された領域でなく、リスト、チャート、図版はない。
表やリストのもつ認識論的な意味をグディがこまかく検討。
→一時的な声の文化においては、物語の中におかれ、ことばの累積が形成される(決まり文句を使う、ことばのつりあいを利用する)が、時間のなかで生じることがらであって「検証する(examine)」ことは不可能
→テクストは、もののように、視覚空間のなかで不動であり、「後ろ向きの通覧backward scanning」を受けいれる。(人類学者のリストは、その神話自身の生命がそこにこそあるはずの心的な世界を実際はゆがめている。)
テクストにおける垂直方向と水平方向の意味は研究する価値がある。テクストは、発話を人間身体になぞらえている。
あたまheading章chapter 人間同様の頭―ラテン語の「カプットcaput」に由来脚注footnoteテクストの「上above」「下below」を参照
リストやチャートの広汎な使用は、印刷が深くわれわれのこころに内面化されたことの結果である。