2014年12月26日金曜日

集中講義 アカデミックライティング

修士のときに受講はしたのですが、ここの大学はどんなレベルで教えて

いるのかと気になり、3日間1限~5限の表題の授業を受けてきました。



まず、キャンパスが豊中、吹田、箕面と3つあるということを失念していて、

1限に間に合うよういつもの豊中に行ったのが大失敗。そこから箕面に

移動するのに2時間近くかかり、(学内バスが運休中)もうだめだ、お詫びだけ

して受講をやめようと思って入っていくと、数人の生徒がしーんとした教室。

とてもお年寄りのアメリカ人の教授が、Hi!とにこやかに対応して下さり、

授業の場所をシラバスで特定してないから迷っている人が数人いて申し訳ない、

とおっしゃり、So far, I have explained these. They are working on this.と

なんとなく、入っていけてそのまま、3日間無事終了。


シラバスにも日本語の資料もちこみ禁止、授業は全部英語で、と

あったので、そのつもりでいったのですが、本当に海外の大学の授業を

そのまま再現したような、出入り自由、時間中はほとんど自分のエッセイに

集中、自分のPC,ipad,携帯を駆使して調べものをしつつどんどん書いていく、

調べ足りなければ、図書館に行きます、といっても良いし、遅刻も

早退も先生に言えば問題なく、なんというかのびのびしつつ、でも、書かないと

いけない、というプレッシャーがある意味厳しい授業でした。


1日目の終わり面白かったのは、先生が、今日はリラックスして、もう

家では書かないように、と(クリスマスイブだからか?)と注意された

ことでした。


1日目はなんてゆるい授業だろう、やっぱり外国人の先生だなあ、

と思い、午後から映画を見せます、ということだったので、ふ~ん、と

Black Diamond は見たなあ、となめてかかり、15分鑑賞してから、

先生がどんどんこの映画に表出する社会問題を黒板に書き連ね、

okay, you choose one of these issues and start writing、と言われてからが

本格的に始まったようなものでした。



自由に書く、ということがこれほど集中力を醸成し、興味をかきたてる、

というとは思いもよりませんでした。また、教師はfacilitatorだという

ことや、アメリカ式のいわゆるどんな意見であっても自分の意見を、

という思想、書いている最中に先生が周りの生徒とその内容に

ついて意見を交わしているのを漏れ聞いているうちになんとなく

わかること、面白かったです。


今日は最後に、書いたところまでプリントアウトしてきて、

お互いに読みあって意見をいう、そして先生とディスカッションする、という

ことで早く終わった人から帰っていいということで、

それぞれのテーマを読ませてもらってとても感心しました。

英語もうまいし、言いたいことも引用もロジカルで学部生、院生の留学生、

社会人の色々な立場から、関心のありようが多様で目のつけどころが

面白かったです。私が読ませてもらったのは、南京大虐殺についての

中国の解釈の変遷、アメリカの黒人の南北戦争への参加について、

イランへのアフガニスタン難民問題について、でした。


ちなみに、自分の書いたのは日本のグローバル化と難民受け入れの矛盾

についてでした。調べながら書いていてとても面白かったです。


いい3日間でした。でも疲れた!









2014年12月22日月曜日

会話分析による応用言語学研究会

土曜日、自分としてはとても勉強になった充実した時間でした。

発表される先生のトランスクライブもさせていただき、

こんなふうに料理するのか、という視点も面白かったし、


M2の優秀な院生の切り口も面白く、でも帰国子女なりに

こういうところが日本人の視点とちがうなあ、と思ったり、


オーストラリアの大学で博士号をとられた先生の

ストーリー、量的質的研究のバランス、ジェンダー研究の微妙さ、

などなど。


帰宅途中の電車でばったりあった、院生に感想をきいてみると、

厳密に会話分析でなかったのがかなり不満であったようで、

難しいなあ、と改めて思いました。


会話分析というのは、その会話の参与者の性別や背景知識は

問わず、会話のシークエンスから純粋に読み取れる要素だけで

分析するものなので、一年間みっちり勉強してきた人には

会話分析の真髄を見れると期待してきたのに、結局全部談話分析だった、

というのが許せなかったようでした。


まあ、それもわかる。だったら、質問したらよかったのに、と云いましたが、

3時間に4つの発表で、質疑応答の時間がなかったため、、

スケジュール的な問題もあったかもしれません。

2014年12月20日土曜日

2014年 D1今年最後の授業でした

まだ明日も、会話授業研究会があるのですが、

とりあえず、今年の授業は今日の会話分析とドイツ語の授業で終わり。

4月から沢山勉強させていただきました。



1月2月のスケジュールを整理してみると、レポート、発表、報告書

盛りだくさんで年末年始ゆっくりしている暇もないだろう、というような

感じなのですが。


とりあえず、大学からこの博士課程の一年間何をやったかという研究報告書を

一月下旬に出すことになっているので、それをまず最優先にして書こうと思っています。


周りの人に聞くと、適当に一年間勉強したことを書けばいい、と

いうことなのですが、おそらく指導教官はそんな適当なことを許してくれる

はずもないので、こちらは徹底的に、言語、哲学、バフチン、そして今自分が

関心のある他者性について書こうと思います。



あと、二月に申し込んだ発表のアブストラクトが承認されれば、それにむけて

発表の準備、これは外資系の大学なので、すべて英語でやらなくてはならない、

でも英語を書くのも話すのも好きなので楽しみです。ただ、これは会話分析の

先生の紹介なので、かなり会話分析のルールと哲学に則ってやらなければ

ならない。ヴィゴツキーの内言など、表面的に出ないものは一切許さない、

という世界なので、難しい。でも、とりあえず、この世界にいったんひたって

徹底的に英語で客観的にやってみようと思っています。



どうなることやら。見当もつきませんが、がんばります。






2014年12月14日日曜日

再び「現実の社会的構成」バーガー+ルックマン

またまた来週のレジュメの順番が来てしまいましたが、

この本から示唆されることが多く、読んでいるうちに生きる力を

もらいました。レジュメができたので、貼り付けておきますね。



現実の社会的構成―知識社会学論考 P.バーガー+T.ルックマン
部 客観的現実としての社会 
1章 制度化 e 制度化の範囲とその様式121140

■p122 諸制度の歴史的変形
問い:制度化が及ぶ範囲はどのようなものであるか=一定の集団における社会的行為全体のなかで、制度化が及ぶ範囲はどのようなものであるのか→制度化の及ぶ範囲を決してする要因はなんであるのか

■それを決めるのは有意性構造の一般性
大部分の有意性構造が一般的に共有されている社会 ⇔ ごく一部しか共有されていない社会

極端な事例モデル:
・第1の類型 制度化が生活の前面に及んでいる社会
複雑で高度に様式化された儀式をたえず行っているような生活となる。すべての役割はすべての行為者にとって同等の優位性をもつ状況のなかで遂行される。役割に特殊な知識の配分はまったく存在しない。

・第2の類型 ただ一つの共通の問題しか存在せず、制度化もこの問題と関係のある行為に関してのみ生じる社会
共通の知識在庫はほとんど存在せず、知識は役割に特殊なものとなる

■p124 上記の発見学的仮説はそれらの接近を促進する諸条件を明らかにするのに有益
・最も一般的な条件 制度の分化を伴う分業の発達程度
分業が進む→→→第1の類型から離脱していく
・もう一つの一般的な条件 経済的余裕の存在
経済的余裕ができる→一定の個人もしくは集団の特殊化された活動への従事が可能になる
→共通の知識在庫における専門化と分節化をもたらす→<純粋理論>が可能になる
→<理論的生活>をもつようになる

■p125 「脱制度化」また制度化された行為の領域は小さくなることもある

■さまざまな制度間の相互関係はどのようなものとしてあるのか

■P126 制度的意味の所与性に加わる重大な修正
・制度的秩序の分節化←ある一定タイプの人間だけが一定の行為を遂行する
・知識の社会的配分←その結果一定タイプの人間だけが所有する役割に特殊な知識
社会全体のなかにおける意味の包括的統合に関してあらわれる客観的な問題
つまり、これまで共有してこなかった有意性構造が悩みの種になる
・例:男―女―レズビアンという三者関係において個々の制度的過程は、全体的な統合が欠けていても共存しつづけることは可能、しかし、バラバラな有意性構造とそれらに伴う習慣化の過程をつながりをもった一つの意味のある全体へと統合することを望む

■P127 例えば、新しい神話という理論図式を語り聞かせ、それを受け入れさせることに成功し、いくつかの行為が大きな社会を維持していくうえでともに役立つということを<知る>ならば、この<知識>は状況に影響をおよぼす。

■p128 また、社会科学によって<パーソナリティ体系>、<社会体系>の経済的部門それぞれから見て機能的統合の合理的産物である、という理論を宣伝することに成功すれば、この<知識>も行動をなんらかの形で統制する。

■p129 巨視社会的なレベルでは、社会の全体を包括し、個人の分節化された社会的経験と知識に対し客観的意味の全体的文脈を提供する、統合的な意味の提示という問題に導かれる
・あるタイプの行為者が遂行する制度的行為を他の諸々のタイプの行為者に対して正当化することの必要性、という問題も起こってくる

■p130 社会的に隔離された意味の下位世界の成立可能性
・さまざまな基準(性、年齢、職業、宗教的傾向、美的趣好など)をもとにして社会的に構成される。
・たえず当の意味を生み出し、これらの意味が客観的現実性をもつある特定の集団によって<担われ>なければならない。
・こうした集団の間には、たえず対立抗争があり、経済的余裕をもつ発達した産業社会に
 おいては、あらゆる種類の会世界の間で多元的な競争が繰り返すことはあたりまえにな
 っている。

■p132 意味の下位世界が確立されると視座が多元化
・社会全体を蓋う安定した象徴の天蓋の確立という問題がきわめて切実なものになる。
・それぞれの視座はそれをもっている集団の具体的な社会的利害と結びつく。
・だが、利害からかけ離れることも可能、例えば科学上の意味の世界はそれ自身の社会的
 基盤に対して極めて大きな自律性を獲得しうる。

■知識体系というのは、それを生み出した集団に逆にはたらきかける力をもつ
・存在基盤からの知識の離脱←社会的行為が新しく獲得された視座の結果、変化すること
 もある。
・知識とその社会的基盤との間の関係は弁証法的なもの、つまり知識は社会の産物である
 と同時に、社会変動の一つの要素でもある。

■p133下位世界の自律性にともなう、部外者と関係者の双方に対する自己の正当化の問題
・より大きな社会からさまざまな特殊な特権や承認を得ることを必要とする場合、
 部外者を閉め出すと同時に、こうした手続きの正当化を認めさせなければならない。
・内部の人間にはは、これを引き留めておくための実際上の手続きや理論的な手続きが
 必要となる。
・すべての正当化機制は、たとえば素人は素人にとどまり医者は医者であり続ける、
 というような形で、双方がともに平和的にそうした状態を保つように機能する。
■p135 制度と下位世界の変化の速度が異なる場合、制度的秩序の全面的正当化と、特定の制度ないしは下位世界の特殊な正当化との双方が困難になる。
・こうした条件下では、いくつかの正当化機構の活動がとりわけ急を要するものになる。

■制度的秩序はいかにして対象化されるのか、という問題
・これは社会的現実の物象化に関する問題である。
・物象化とは、人間的な諸現象をあたかもモノ=非人間的、超人間的なものとして理解
 すること。
・また、人間が人間的世界に関して彼自身がその作者であるということを忘れ去ることが
 できるということ。
・物象化とは疎遠な事実性である。
・自己の作品(opus proprium)ではなく、他人の作品(opus alierum)として経験される。

■客観的な社会的世界がつくり出されるや否や、物象化の可能性が常につきまとう。
どのように客観化されたものであろうとも、社会的世界は人間によって作りだされたものである―それゆえに人間によってつくり変えられることができる―という意識を、人間がいぜんとしてもちつづけているかどうか、ということが決定的な問題。
・客観化された世界は人間的企画としての理解可能性を喪失してしまう。
・たとえ物象化的な仕方によって世界を理解していようとも、人間はやはり世界を創造し続。=人間は自己を否定するような現実を創造することができる。
■p137 物象化は意識の全理論的な段階と理論的な段階の双方のレヴェルにおいて可能
・普通の人の意識のなかに存在している物象化こそ、実際的にはより大きな意味をもつ。
・物象化を意識の一つのあり方として理解するということが、相対的な意識の脱物象化に
 支えられている。

■p138 全体としての制度的秩序も、その諸部分も物象化された形で理解されることがある。
・制度を物象化する<処方>→制度に人間的活動と意味づけから独立した一つの存在論的な地位を与える
・特殊な物象化は、こうした一般的な図式を基礎にして成立するその変種である。
・物象化は理論的な面でも起こり売れば、全理論的な面でも起こりうる。
・制度の世界は物象化されることによって自然の世界と混じり合ってあらわれる。

■p139 役割も、制度と同様の仕方で物象化されることがある。
・役割の中に対象化された自己意識も同時に、個人が責任を放棄する「運命」となる
「この問題に関して私には選択の余地はない。私は自分の立場上、こうするより仕方がないのだ」という論法
・アイデンティティそのもの(自我の全体)までもが物象化されてしまうことがある。
・個人と社会的に割り当てられた類型の人間以外の何ものとしても理解されない。
・たとえば<ユダヤ人>としての現認は、反ユダヤ主義者にとってもユダヤ人にとっても
 双方での物象化は、自我の一部を対象化したものにすぎない類型図式に、存在論的で全
 面的な地位をあたえてしまう。

■p140 物象化の分析は重要な意味をもっている。
・理論的思考一般および特殊的には社会学的思考にみられる、物象化的な傾向を改めるための有効な手段として役立つ。
・人間が行うことと人間が考えることの関係を取り扱う際、非弁証法的な考え方に陥ることを防ぐ。

2014年12月11日木曜日

博士論文研究報告会と審査会

四日間連続で、言語文化研究科のD2の研究報告会とD3の博士論文審査会も

あと一日を残すのみになりました。今年は、一年目なので、とにかくひさすら

全部見ようと思って参加しています。来年、再来年のイメージトレーニングと

いうか。



言語学はひたすら違う世界なのでわからないし、文学も中国、ロシア、台湾と

様々、言語教育も日本語教育が多いですがたまに英語教育もあります。

ドイツの少数民族について、とか、留学生のネットワーク構築、とか

中国と日本のの変身譚の比較とか、チェーホフとか(これは力尽きて耳に入らず)、

とにかく多岐にわたっています。



昨日特に印象に残ったのは、聾学校で英語を教えて7年、と言うD2の方の

主張で、日本語、国語、というイデオロギーのために、ろうの生徒が

口話法という方法を長年押し付けられて、手話がないがしろにされてきたが、

手話もアイヌ語や沖縄語と同じく、日本の中の多様な言語のひとつで

ある、という話でした。秋に合宿に行った時に、文学科の人にそういう話を

聞いていたので、よく理解できました。では、その方の生徒にとって

英語はなんなのか、が聴きたかったですが、博士論文の後半部分なので、

まだ来年の完成をまたなければ聞けず、残念。




留学生とくに中国人の留学生がものすごく緻密な報告をやっているし、

頭いいんだな、と思う反面、あれ、と思うものもあり、一つ一つに

先生方や司会の方が丁寧なコメントを述べられていて、とても勉強に

なります。問題意識の持ち方、論の進め方、用語の定義、色々な立場が

あり、一概にこうすればいいというものでもないですが、自分を真っ白に

してひたすら傾聴。



なるほど、と思ったのは、日本の職人文化の台湾の大衆文化への

影響を報告していたD2に、記号、とか表象、とかの言葉の定義が

あまい、と厳しい指摘があったことでした。その人の参考文献を見ると

一般書が多く、学術論文が少なかったし、それも社会学で自分が

調査したい分野に限られていて、哲学や現象学関連のものは

などは皆無だったので、

なるほど、こういうものを読んでいるとあまくなるだろうなあ、と

納得もし、緊張し、中途半端な理解で言葉を使っては

こういうことになる、と思いました。




2014年12月8日月曜日

次の発表

初めて、英語での学会発表にプロポーザルを出しました。

わりとハードル低いので出してみてください、と副指導教官に

教えて頂いて、アブストラクトを書いて送りましたが、

どの先生にもご指導を頂く時間も相談もする時間がなかったのでドキドキ。。。



先生方の手が入っていない生の自分のプロポーザルが受け入れられるのか、

またまたチャレンジの上に、英語の論理で自分の考えが伝えられるのか。

日本語と英語を往還しつつ、異言語の習得と疎外された自己の他者性

の回復が結びつくのか、やってみたいと思います。


中学校と高校の英語の先生方にこれだけ大切な仕事をされているんだという

こと、子どもたちに今学んでることは自分の存在に関わる大事なことなんだ

ということ、お話する機会があれば胸を張って言えるような

そんな研究ができるように。一歩一歩。





日本現象学・社会学会

今日、表題の学会に午後だけ行ってきました。

昨日と今日の二日間だったので、本当は二日まるまる行きたかったのに、

週末になるとダウンしてしまい、情けない。



ということで今日の午後の師匠の参加されるシンポジウムだけ、拝聴。


思ったのは、師匠はいつもながら凄いなあ、と思うし、バフチンを徹底的に

理解しておられてどんな質問がどんな角度からきても堂々と答えられる、

それは実践でちゃんとされているという自信とバフチンとの対話を

貫いておられる、という覚悟があるからだと思う。



昨日と今日の午前中のレジュメが残っていたので、

頂いて読むと、過労、フーコー、ハイデガー、「死」について、

フクシマやその母子避難について重いトピックばかりでした。


きっと今の自分には受け止めきれなかっただろうと思います。

2014年12月7日日曜日

ゴフマン、相互作用としての儀礼

最近、大学で勉強したことを還元できていなく、申し訳ないのですが、
 
ちょっと前に話題にしたゴフマンのレジュメを載せておきます。

授業の担当の先生からは、たいへんだったと思うがよくがんばった、と

言っていただき、Mの授業にお邪魔させていただいているDとしては

面目躍如で、ほっとしました。
 
 
あと、言語文化学会で発表したレジュメを読みたい、といって頂いた方が

何人かあり、お送りして感想もいただいています。ほんとうに嬉しい、

研究者になって論文を発表するというのはこんな喜びがあるんだ、と

ありがたく思いつつ、それに対してちゃんとした解答ができていません。

申し訳ありません、この年末年始にブログに書きたいと思っています。
 



 
ではゴフマンです。
 
 
 
On Face-Work in Interaction Ritual
By Erving Goffman
 
An Analysis of Ritual Elements in Social Interaction
p5すべての人は社会的な出会いの世界に生き、対面的なまたは媒介された接触の中に巻き込まれ、ラインと呼ばれる行為をしている。
・ライン=状況についての自分の見方を表現する言語的または非言語的行為でこれを通じて参与者特に自分自身についての評価を表現する。
p5
・フェイス=特定の接触の間、その人がとっているとみなされるラインによって効果的に主張される積極的な社会的価値、承認された社会的属性の見地から表わされる自己イメージ
p6人はフェイスに即時の情動的な反応を経験し、その人の「感情」はフェイスに結びついている。
・特定のフェイスへの結びつきが、なぜ人は他者との接触に参加することは係わり合い(commitment)であると感じるのかという理由を提供する。
・その人自身のフェイスと他者のフェイスは同じ秩序の構築物である。どれくらいの感情をフェイスに対して持っているのか、関与するフェイスの間でどのようにその感情が配分されるのか、を決めるのはその集団の規則と状況の定義である。
p6人は自分がとるラインが自分のイメージを提示するときに、フェイスを持っている、とかフェイスの中にいるとか、フェイスを維持しているなどという。それは他の参与者が伝える判断や証拠によって支持され、状況における非人間的なものが伝える証拠によって確認される。
p7他者との接触の間、人が維持するラインは正統的で制度化したものになりがちである。
既知の可視化した属性をもつ相互行為者は、ある特定のフェイスを維持することを期待され、それが道徳的に適切だと感じる。彼に開かれているラインの選択は狭いものである。
p7フェイスへの関心はその人の注目を現下の活動に集める一方、フェイスを維持するためには背後にある社会的世界での自分の場所を考慮に入れなければならない。
p8
・誤ったフェイス=その人が維持しているラインに統合できないような社会的価値についての情報が前面にでるときにいう。
・フェイス外=当該の状況で期待されるラインがないときに他者との接触に参加している場合にいう。
p8
・フェイスを保っていると感じるのは、その人が信頼と確信の感情をもって反応しているときである。
p8誤ったフェイスに陥ったりフェイスがないというときは、その出来事の表現する布にうまく織り込まれない出会いであるからである。判断の支持がないと感じると、その人は後退し、混乱し、相互行為者として一時無能となる。
・沈着さ(poise)=他者との出会いの間に自分の恥を抑えて隠すことのできる能力
p9欧米社会では、
・面子を失う(lose face)=誤ったフェイスに陥ったり、フェイスがない、また恥じ入ること
・面子を救う(save one's face)=他者が面子を失うことのないように他者の印象を維持する過程
・面子を与える(give face)=人がよりよいラインがとれるようにすること
p9人は、維持しなければならないフェイスを与えられる状況に入ると、出来事の流れに対して守りの立場に立つという責任をとる。
・表現の秩序=出来事の流れを制御し、表現されるすべてがフェイスと一貫性をもつようにすること。
p10人は、他者の感情やフェイスを救済することを期待され、しかも進んで自発的にそうするように期待される。それは他者やその感情との情動的一体感(emotional identification)
があるからである。
p11自尊のルールと思いやりのルールが組み合わさった効果は、出会いのあいだ、人は自分のフェイスと他の参与者のフェイスの両方を維持しようと行為することに現れる。
p12フェイスの維持は、相互行為の条件であって目的ではない。人はなぜ自分がコードに従うかということも知らず、フェイスが表現する自己イメージに付与した情動のためにそのフェイスを救済したいというだけなのである。
p13フェイスワーク=フェイスを貫くために人がしている行為。フェイスワークは、フェイスを脅かす出来事に対抗するためになされる。しばしば習慣となり、標準的な行為となる。
p13すべての社会的集団の成員は、フェイスワークについてなにがしかの知識とその使用についての経験(戦術、社交術、外交術、社会的スキル)を持っていることが期待される。
p14人は、自分のフェイスを救済するための防衛的な志向と他者のフェイスを救済するための保護的な志向という二つの観点を同時にもつであろう。
p14フェイスを脅かすものに対する自分の行為が作りだす三つのレベルの責任がある。
1.無邪気に見えるように行為をする
2.無礼を働く者は、公に侮辱をする意図をもって、意地悪く行為をする
3.偶発的に無礼をはたらく
The Basic Kinds of Face-Work
The avoidance process
p15自分のフェイスを脅かされそうな接触を避けることが最も確実に脅威を防ぐ方法である。
p16出会いの中で防御する方法は、自分が維持しているラインと一致しない情報の表明につながりそうな話題や活動を避けるということである。自己に関する主張はなんであれ、抑えた謙虚さ、強固な資質、気軽さをともなってなされる。
p16一定の擁護術が共通にみられる。人は義務であれば、他人に対してはいかなる儀礼的な扱いも欠かさないように、敬意と礼儀正しさを示す。
p17万が一うっかりと失敗してしまった場合は、フェイスへの脅威が起こらなかったというふりを試みることができる。一般的には、このような如才ない盲目は、フェイスに対する脅威を感知し解釈できる出来事にのみ、使うことが可能である。
p18より重要な如才のない見逃しは、その出来事に脅威となる表現が含まれている出来事としてではなく、その出来事が起こったことをオープンに知らせるというやり方である。
p18表情のコントロールできないとき、別の回避が起きる。参加者が出来事を見過ごすことができず、行動を隠すことができなくなると、フェイスが維持できなくなるその人の困難を避けようと他者の側が動くことが可能になる。
The corrective process
p19維持されていた社会的価値判断と合致しないような出来事が起こるのを防ぐことができず、その出来事を見過ごすことができない場合、その出来事は公的な注意を払うに値する脅威とみなされ、修正が試みられる。
p19その出来事がフェイスへの脅威と認められると、一連の行為が開始され、儀礼的均衡が改めて成立すると終了する。(=やりとりinterchange)には二つ以上のムーヴと二人以上の参与者が含まれる。
p20ムーヴ1 挑戦challenge 参与者は過ちに注意をひくという責任をひきうけ、脅威を起こした出来事が、確かに存在し、ラインに入れられなければならないことを示す。
p20ムーヴ2 申し出offering 参与者、典型的には無礼をはたらいた者がその無礼の訂正と表現の秩序を回復する機会を与えられる。
p21無礼な行為を再定義するという戦略の補足もしくは代わりとして、
 1.傷つけた相手に補償を提供する
 2.自分に罰、贖罪を負わせる  という二つの手順を踏むこともできる。
p22ムーヴ3 申し出を受けた人は、表現の秩序と、この秩序によって支えられるフェイスが回復されるに足る十分な手段としてこれを受け入れる。
p22最終ムーヴ 許しを受けた者は、その寛大さへの感謝のしるしを、許しを与えた相手に伝える。 
p22この訂正の過程→挑戦、申し出、受け入れ、感謝という相互作用儀礼行動のモデル
しかし、暗示的な方法でこれから逸脱するモデルもあるかもしれない。
p22 挑戦を受けた無礼者が警告を受けるのを拒否して、無礼な行為を続ける場合、標準的な訂正のサイクルから大きく逸脱するというムーヴシフトがおこる。これには、無策な暴力的な報復や、撤退という古典的なムーヴの道も開かれている。
p23情動が、応答のサイクルにある役割を果たしているのは明らかである。情動はムーヴとしての機能があり、儀式ゲームの論理にまさにぴったりと当てはまっている。自発的に表出された感情は、巧みに仕組まれた感情よりも、儀式的なやりとりにはより優雅でふさわしい。
Making Points-The Aggressive Use of Face-Work
p24安全に得られるもののために、脅威が意図的に導入されることがある。ある特定の脅威を中和するフェイス救済の行為はすべて、その可能性に向かって開かれている。
p24自らが行うものとしてface-workを扱わず、他者がとり行うか受け入れるものとして扱う場合は、出会いや企ての場は戦いの場となる。
p25攻撃的なやりとりにおいては、勝者は自分にとって有利な情報と他者にとって不利な情報を導きいれるだけでなく、相互行為者として敵よりもうまく自分を扱えるということを示すことになる。
The Choice of Appropriate Face=Work
p26無礼を受けるという事故が起こると、フェイスを脅かされた人は一つの戦略を用いて儀礼秩序を回復しようとするが、相手は別の戦略が用いられることを望んだり予測したりするかもしれない。無礼を働いた人が事故に気付かないようにふるまうか、冗談とみなすか、ほかのフェイス救済の行動を用いるかは、誰にもその瞬間はわからないため、ほかのものは恥ずかしく感じる。
Cooperation in Face-Work
p27フェイスが脅かされた者、無礼を働いたもの、あるいは単なる目撃者がフェイスワークをするのかは、二次的な重要性しかない。一人の努力が欠けていると、他の者の補償的な努力を誘うことになる。
p29それぞれの参与者が異なった理由で、自分のまたは他者のフェイスを救済することにかかわるため、無言の協力が自然に生まれる。
・自分のフェイスと他者のフェイスを守るだけではなく、他者がフェイスワークを用いやすくするように行動する。
p30
・フェイスワークの操作は、ほのめかしの言葉、あいまいさ、適切に配置されたポーズ、注意深く言葉を選んだ冗談などのヒントの言葉を通じた暗黙の了解に依存している。暗示のコミュニケーションは、否認可能のコミュニケーションであり、現下のラインがフェイスの喪失につながることを警告している。
・互恵的な自己否定も暗黙の協力として多くの社会で用いられている。他者を喜ばせたり、褒めたりしているときに、自らを貶めることで、他者に褒められたり喜ばせてもらったりできる。
p31
人がフェイスワークの遂行によって社会化されていなければ、殆どの社会と状況は感情やフェイスにとって危険いっぱいの場所になるだろう。フェイス救済ゲームに頼らない人が、トラブルを起こすもととなるのも不思議ではない。
The Ritual Roles of the Self
p31ここでは、自己を二重に定義してきた。
・出来事の流れの表現的な暗示から組み合わされるイメージとしての自己
・状況の偶発性と、高潔にも下劣にも、そつなくもまた下手にも、儀礼ゲームのなかで闘うプレイヤーとしての自己
・良い評判であれ悪い評判であれ、一度得た評判はフェイスの一部となり、それは維持すされなくてはならない。
p32自己の二つの役割が分離されると、この二つの役割がどう関係しているのかを学ぶためには、フェイスワークの中で暗示される儀礼コードに注目することができる。
p32ある限度までは、自分の大切なイメージへの無礼は許す権利がある。小さな無礼であれば、我慢強く見逃すこともできるし、いささか大きな傷であれば相手の詫びを受け入れる立場に立てる。
Spoken Interaction
■出会いには直接(immediate)の接触と媒介された(mediated)接触(書きものや仕事の記録など)がある。媒介された接触における儀式的な要因は極端なかたちであらわれる。
■・身体をつかって話しをするという相互作用がある場合は、メッセージの流れを導き系統立てる実践の体系、因習、手順上の規則が必ずある。
・会話の様相(state of talk)=話すコミュニケーションの目的のためにお互いを公的にオープンにすると宣言し、言葉の流れを維持することをともに保証している
■接触場面では、焦点を一つにした思考、注視、一筋の話の流れが維持され、正当化される。
・正規や非正規な終了の合図、フロアを保つ時間と頻度についての理解、適切なジェスチャー、制御をともなうさえぎりや沈黙、礼儀正しい同調、一時的なリップサービス、などの規則が、一つの話題から別の話題に滑らかに移る場合に見られる。
■話の規則は、自然な拘束単位としてのトークや相互作用のエピソードという一つの出来事に付随する。
P36自己の構造と会話(spoken interaction)の構造の間の機能的関係を示すものを見つけると、どのように会話のメッセージが流れるかという問題の解決となる。
■社会的相互行為の行為者は、儀礼的な気遣いをしつつ、会話において意識的にまた無意識に一瞬一瞬をどのように行動するかを決定する。
P37自己と会話の関係は、儀式的なやり取りを検討すれば更によく示されている。
■人がどんなささいなメッセージであれ、自ら提示するということは、自分自身とメッセージを送る相手を危険にさらすことになる。
p38儀礼上の均衡にとって脅威となるかもしれないので、他の参加者は、メッセージが受け取られ、その内容は関係者ずべてに受け入れられるということを示すよう義務づけられる。
■人は自己イメージに潜在する象徴的意味を試すことによってどのように行動するかを決定する。
p39しかしながら、ある問題を解決するメカニズムや機能的な関係が、それ自体ほかの困難を引き起こすということはあり得る。
p40儀礼コードそのものは、繊細なバランスを必要とする。感受性が低すぎたり、機転がきかなすぎたり、プライドや思いやりがなさすぎる人は、他者に必要以上に気を遣わせるし、社交的すぎる人も長期的にどう調整すればいいかどんな立場で接すればいいかという感情を人に起こさせる。
■会話の体系にはこのような固有の「病理」があるにもかかわらず、社会化された人と会話の間の機能的な一致は、実行可能で実践的なものである。
Face and Social Relationships
p41人が媒介されたまたは即時の出会いをするとき、すでにある種の社会関係の中での立場に立つことが期待される。関係が変化の過程にあれば、その接触は満たされて閉じる。この観点は挨拶をよく説明している。
p42多くの社会関係の特徴的な義務は、それぞれの成員が所与の状況においてほかの成員のフェイスを支持すると保証することである。
The Nature of the Ritual Order
p42儀礼秩序は調和的なラインにのって組織されているようである。もし、人がある特定のイメージを保持したければ、信頼されるために懸命に働かなければならない。
■人は、そうありたい自分であるためには自分自身を、盲目と、部分的な真実、幻想と理論的説明で囲まなければならない。
■人が守り防ぎ、自分の感情を向けているのは、自分自身についてのある考えである。儀礼秩序の主要な原則は、正義ではなくフェイスであり、無礼を働くものがこうむるのは自分自身がゆだねたそのラインを支えるものである。
結論
p44文化的な差異の下では、あらゆる場所で同じであるということが示唆されてきた。あらゆる社会は、その成員を、社会的出会いにおいて自己規制をしている参加者として動員させなければならない。その一つの方法が儀礼である。
■普遍的な人間の性質は、あまり人間的ではない。人間は、内部の心理的特性ではなく、外部から押し付けられた道徳的規則から構成されているある種の構造物である。