2016年2月27日土曜日

JALT Pan SIG

 UCLAの会話分析の学会の発表申し込みは見事に落ちて、

昨年のラフバラ大学のCAdayの発表も落ちたので、

自力でちゃんとわかってもらえる英語のアブストラクトを書くのは

自分には無理なんだろうか、と思っていたところ、

先日表題の国際学会からと担当者から両方から条件付きの承認みたいな

ものがきました。


 しかも査読者二人からきっちりと読んでくださった上での

コメントつき。ありがたいやら嬉しいやら。


 担当者からは社交辞令なのかもしれませんが、査読者は二人ともあなたの

発表はこの学会に貢献する内容だと認めている、ついては

英語がへんだったりするので査読者のコメントに沿って

ちゃんと書き直して送ってくれればだいじょうぶ、ただし、

送る前にネイティブスピーカーにチェックしてもらってね、という。


 国際学会全体の担当者からはあなたのアブストラクトは条件付きで

受け入れました。ただ、査読者の提案にしたがってちゃんと直して改めて

提出するように、気に入らなかったらやめてもいいよ、それはあなたの

自由、ということでした。


 もうほくほくして査読者の提案に従って書き直し、エディテージに

送って校正をお願いし、あともう一回エディテージの校正者と

やりとりして、パンと送りました。


 発表の内容はまだまだなので、これから5月までにがんばって詰めに詰めようと

思います。これは博論の大きな部分になるかな。まだわかりませんが。



 せっかくなので、頑張ります。

非常勤教員連絡会

はじめての非常勤先の大学で上記のイベントが

あるので、興味津々で行ってきました。


ちょっと面接の時とか大学の方針には正直反発していたところが

あったのですが、なんか色々考えて納得したりもしました。


ただ申し訳ないのですがこれは本物の「大学」ではないな、と。

経営者の方々もそれはよくわかっているようで、まあ

専門学校の延長のような、職業大学のような「学校」である

組織であって、学問をめざしてはいない。社会人として

通用する一人前の人間力を要請して送り出すことを目標にしている、と

いうことで社会の(経済界の)要請に答えるべく頑張っている。


就職率は非常に高くて、この大学淘汰の時代に入学者が

どんどん増えているという、経営戦略的には正しい道筋を行っている。


偏差値偏重、学歴偏重の風潮にあって、あまりお勉強に向いて

いない若者に社会に通用するような人間力をしっかりつける、という方針を

貫いているのでそれもありかな、と思わされました。



ただ、もうこういう大学には学問はいらないようでした。


それはそうです。みんな食べていかなくてはならないのだから。

でも、わかるけど殺伐とした思いを禁じ得ない。













2016年2月19日金曜日

卒論コメント バフチン

先日、Keles(関西英語教育学会)の感想をここに書いたのですが、

それについてお問い合わせがありましたので、改めて。


吉田先生のコメントですが、対話(発話)は先行する発話と後続する発話に

影響を受け、自己と他者の間で限りなくとりかわされる対話である、

と発表の中でありましたが、ご自身は発話を卵型のイメージ、その中に

話し手と聴き手が一体になっているというイメージがある、と

仰っておられました。


また、きく、という漢字は聞く、聴く、訊くという三つの漢字があって

きくということで、それぞれに音声として受け止める、傾聴する、

たずねる、というように人はいろいろなことをやっている、ということ。


また、教育学の佐藤学先生の学びの共同体「ききあう関係をつくりましょう」

ということも連想する、ということでした。



同じ卒論に対して、京都教育大の発表会では、西本有逸先生のバフチンの

ダイアロジズムとはどういうことなのか、という貴重なコメントがありました。


西本先生によれば、バフチンは決して同調したり、相手とかかわること、

意気投合することがいいとは言っていない。そこがダイアロジズムの

落とし穴である、と。バフチンは、絶対的な他者を認めている、それは

絶対的な自立ということ。多様性diversityは一つに収れんしてはいかない、

世界は未完であって、他者と同調しない、agreementは許していない、

というお話でした。


さすが、師匠は深い。。。。





母校卒論・修論発表会

先日、京都教育大の卒論・修論発表会に今年も行ってまいりました。

科目等履修生を含めると5回目の拝聴になります。


午前中は、言語学と文学の卒論、午後は教育、文化、文学の修論で

仕事の都合で残念ながら午後のみの参加。


発表は階段教室である大講義室の前方、大スクリーンで行われます。

15分に論文の内容を詰め込むのは、大変。皆さん、それぞれに発表も

レジュメも濃い内容でした。教育では、卒論でも量的質的いろいろな手法を

盛りだくさんに使いいろんな角度から検討している論文があって、

感心しました。


卒論、修論に限らず、英語で書かなくてはいけないので自分のことを

顧みても、行き絶え絶えだったので本当にみなよくやったなあ、と。

毎年、こういう厳しい課題を課す先生もすごい。



全部の発表が終わったあとに、学生たちが先生方の講評を聞こうと前方から、

階段教室の上部に座っておられる先生の方をざっと振り向き、真剣な顔で

注視するあの光景は、何度見ても鳥肌が立ちます。


深い学識に対する畏怖の念、敬意を払う態度、というのは

もう日本には数少なくなっているのではないでしょうか。


こういう雰囲気はなかなか欧米の教育者には理解できないだろうし、

アジアにしか特に儒教に影響を受けた国にしか

わからないことだろうと思います。逆にそれが日本の

強みになっているのかもしれない。


ちょっと辛口のコメントで申し訳ないのですが、

大事なタイトルとかキーワードの単語の発音が間違って

いるのに、びっくりしました。誰も何も言わないのだろうか。


あと、英語教育では、卒論が量的研究に偏っているのが

やっぱり気になります。研究の基礎を学ぶ、ということでは

よいのかもしれないのですが、数十名の参与者の

アンケートの比較をして有意差があるとかないとかいうのは

あまり意味がないのではないかと思えてなりません。


それならば、限られたデータでもっと質的方法を厳密に

つきつめてもよいのでは。


2016年2月15日月曜日

不立文字

会話分析に、リズムとか声質とか、プロソディ―欠かせないのでは、と

思いはじめて論文を読んでいましたが、道なき道に入ってしまい、

断念しそうです。



その矢先にUCLAに出したアブストラクトが落選の通知が来て、

ますますエネルギーが低下、でもようやく昨夜夜中にASIA TEFLの

発表申し込みは出しました。



研究なので、実証性を求められる。でももともとがウェットな思いから

始まっているので、論文を読んだりそれなりの書き方をしようとすると

どんどん乾いていくような気がして、ことばの豊かさを失っていくような

気がしてなかなかバランスが取れないです。



ことばで表せないものをことばで表すことについて、鈴木大拙に関する

本を一日読んでいました。ちょっとだけ、わかったような。どうせことばでは

表わせない、が人に伝えるためにはことばで表すのもまた、一つのまた

唯一の方法であるからやむを得ない、そうしてその体験が社会性と

透明性を帯びてくるのだ、と稚拙な理解ではありますが、そういう

ことなんだろうか。以下、ことばに関する部分だけ抜き書きしました。



堀尾 孟(1997)「鈴木大拙における思想」in 『禅と現代社会』上田閑照・堀尾孟編 禅文化研究所 pp274-307

p276  大拙は、盤珪禅師が「不生」の二字をもって彼の禅体験を言い表わしたとき、その「不生禅」は盤珪の「哲学」であったと言っている。しかしまた同時に、「盤珪は不生を概念としたが、それは哲学者の概念ではなかった」とも述べている。これと同質の、しかも自覚的に一層徹底された事態が、大拙の立場に窺える。

p277 彼は、「哲学者と宗教者とをどこで区別するか」と自問して、「両者とも同じ問題を取り扱ふが、一は知に傾き一は体験を重んずる。一は概念的分析を主とせんとするが、一は直感的表現を好む」と各々の特質を見渡し、「宗教家の最も特異な点は、すべてが慈悲を推進力・展開力として居るところである」と結論付けて、「慈悲の本願から唱へ出したのが不生禅である」と述べている。

p278 すなわち、その「概念」はただ真理の立場に於いてではなくて真実の立場に於いて成立しており、ただ生きた概念ではなくて救う働きの概念、絶対知の概念ではなくて魂の概念であるということである。大拙はこのような概念、このような哲学を明らかにしようとした。これが「文字も亦道」と宣揚されたときの他の面である。

 大拙の「禅思想」は悟境の内に張りわたされてある原理を看破しつつ、それを「命題」として普遍的理知の域に開示しようとした点において、不立文字教外別伝の界を破り出て、禅および仏教の伝統とその歴史に新たなページを開くとともに、それがまさに「禅思想」であるという点において、つまり、媒介的に自己を完結する理知の立場が根底から破られ、「言語同断」の界から、「慈悲の本願」として唱えだされた「命題」の解明であるという点において、・・・・新たなページを開くものであったと言える。
 
 この独自性は、「文字も亦道」という「禅思想」の立場が、言語を超えた禅の立場と言語に基づく哲学の立場との中間に位置するというものでないことを明らかにしている。
 それは、棒喝のもとに働いている自覚的原理そのものが自らの構造を明晰に露呈した事、換言すれば、禅体験が体験として有する限りでの主観性の域を脱却して、体験の事の内に張りわたされている構造に透明となった、そういう仕方で成立する体験的事実構造自体の自覚的な思想表現(明晰化)である。大拙は盤珪について、「不生禅は実に彼が成熟しある体験をよくよく反省して、しかる後為人の一句として吐き出されたものである」と述べているが、

 
 斯る体験自体の深化成熟が「為人の一句」に結実し、「慈悲の本願」から「不生」という「概念」が吐き出されてくるということは、体験の事自体が体験者の域を超えて、事が構造的に有しているその普遍的性格が透明にしてくるということである。斯る事を指して大拙は「体験が社会性を帯びて来る」という。

p282

 大拙は「禅宗本来の面目」は不立文字にあると言う。不立文字とは、「言説分別の真妄相交りて分ち難きを捨て」、言詮の道を断って、「人生の実地」に「実地に徹底」した立場の意であり、これが「禅宗の事実」であると言う。しかしなぜに斯く捨て斯く断たねばならぬかと言えば、「智慮分別なるものこそ、人間をして万物の霊長たらしむるもの」とは言え、智慮分別は、「われは畢竟これ何ものぞ、われ果たして何れより来り何れに去らんとするか」という「人生の真趣」についての「千古の疑問」に対しては、全く無力なるが故である。一般に「宗教の本義」はまさに斯る疑問を根本的に解決して、「人間存在の真義を発揮せしむる」ところにある。


2016年2月11日木曜日

関西英語教育学会 卒・修論発表セミナー

恒例の行事ですが、午後からだけ参加してきました。



ちょっと傾向が変わってきたと思ったのは、以前は量的研究がほとんどと

言語学が多かったのが、質的研究がちらほら出てきたなあ、ということです。

談話分析やナラティブ・アプローチ、会話分析もあり、少しバランスが

取れてきつつある印象です。量的研究も、以前指摘されていたからか

効果量を必ず結果に入れるような指導がなされるようになったのを

感じました。


会話分析は相互行為能力の発達に関する研究で、兵庫教育大学の院生だったので、

これはきっと吉田達弘先生の指導だろうと思ってお聞きしてみると、その通りでした。

吉田先生は、バフチンの対話原理について発表した卒論のコメンテーターをされていて、

それだけで講義になるような素晴らしいコメントをされていました。


午前の発表や、午後でも時間が重なって聞けなかった発表が多かったので、

出身校の発表会も聞きにいこうと思っています。


スペシャルトークがユニークで、京都ノートルダム大学女子大学の

沖原勝昭先生が現在の英語教育改革についての実証的な批判を

試みられていました。神戸市外大の玉井健先生のコメントの中で、

英語教育研究は不幸なことに研究の方法として実験心理学の方法を

取り入れてしまった。単純なcause-effectで説明をつけようとすると

教室の中で起こっている有象無象を取りこぼしてしまう。

それを研究する方法はもっといろいろあるはずだ、と言われた

ので、あれっと思いました。時間があれば、皆さん、哲学、科学、科学哲学

も勉強してください、とも言われていました。



玉井先生は、2年前の同じセミナーで私が修論の発表をしたときに

コメンテーターをしてくださったのです。レオンチェフの活動理論と自己流の

談話分析をしたわかりにくい発表に、戸惑っておられた印象があります。

が、その時は、戸惑いながらもハイデガーに言及されておられました。

今日のコメントにはちょっと感動してしまいました。吉田先生とともに

英語教育研究をもっと教育に本質的なものにしようと頑張って

おられるのかなあ、と思いました。


そうそう、あと面白いな、と思ったのは、テーマに、協働学習・コミュニケーション、

とか教師と児童・生徒、とか、メディア・表現活動、とか多様なテーマを

区分けするのに苦労されている痕跡がみえたような気がしました。



普通の学会と違って、このセミナーはほとんどの発表がこれから

英語教師として活躍する学生・院生によるものであること、おそらく

多数はこれが人生ではじめてでこれからはあまり書くことのない論文、

することのない研究であるという唯一無二のものである、ということで

久しぶりに新鮮で学ぶことの多い時間でした。知っている院生も書き終えて

やりおえてほっとした表情でした。みんなこれから素晴らしい先生に

なって子供たちを導いていくんだなあ、と思うとまた感動します。

この子たちを先生にもつ生徒たちは幸せですね。


出身校の発表会も楽しみです。




来年度に向けて諸々

ここで、色々吐き出させていただいて読んでいただいている方々、

いつもありがとうございます。



だんだん、自分の仕事がパブリックなものに近づいてきているので、

どれだけこんなふうにここでお話しできるのかなあ、というのがあまり

心もとない感じです。修士時代の院生仲間はもう一切ブログにも書き込んで

いないみたいですし、SNSは自主規制している様子。



今日も大学の先生をしている友人と飲んでいたのですが、

別に規制はされていないけれど、大人げないかな、と

思っている、ということでした。


まあまあ、ここを読んでくださっている方は個人的な

お友達がメインだと思いますので、終わっても

つながりはきっとありますよね。

2016年2月8日月曜日

協同学習

先日、成績のことを心配しているとここで書いたのですが、今日になって

成績をつけるぎりぎり直前に学生から1週間遅れで課題を送ってきました。


それなら、まだ送ってない友達に連絡して至急送るように言ってあげて、

とメールを返信。  なんだかなあ。


色々質問して点数稼ぐようにとか、心配なら、最後ポートフォリオのファイルを

つくって提出するように、とかコメントシートと振り返りシートにたくさん書いて、

とか、できるだけ救済策を授業で説明したのに、なんかまだピンときていないのか、

どうせ単位をくれる、とたかをくくっているのか。


まあ、一回生がメインのクラスなので、高校生に毛がはえたようなもんだからなあ。

大学は社会の入り口なので、だれも面倒みてくれないので自分でやるしかないのに。


友達同士で情報交換して助けあえばいいのに、それもあまりしない感じ。


プレゼンは確かにみんな頑張りました。最終発表はみんなほとんど満点に

近い。でも普段の参加とか、宿題をちゃんとやってくるとか、スタディスキルが

できてない学生が大勢を占めています。それが惜しくていい成績を

つけてあげたいのに、つけられなくて先生は悔しいです。



今回、失敗して大いに反省しているのはグループ活動です。

阪大でTAをさせてもらっている授業では、先生が、3,4人でグループを

組んでというとみんなそろそろとグループを作って、曲がりなりにも

やってきた宿題を読みにくそうにでも読んで、そこに入ってあげて

英語で突っ込むとなんか会話も成立して、最終的にはどんどん

みんな成長してすごいなあ、と思ったので、非常勤先でもできると

思っていました。


ところがどっこい。まず、宿題をしてこない、知らない人と話ができない、

親しい友達となら盛り上がるけど、グループ活動が成り立たない。

英語も中学生レベル以下なら、社会的スキルも中学生レベル。

中学生でも優秀な子はもっとできるよ。



自分が知らない人と話をするのが好きなので、若い子ってこんなに

社会性がないんだとは思いもよりませんでした。

びっくりです。



これは協同学習を私がゼロから勉強してやらせないといけないと思いました。

4月までに協同学習の文献をがんばって読むことにします。




新米先生は、またまた課題が山積みです。

2016年2月4日木曜日

成績

非常勤の大学授業も終わり、いよいよ成績の締め切りが

あと5日に迫ってきました。単位をとれるのは60点、59点以下は

単位はとれません。


最終日に、単位とれたと思う人、と手を挙げさせたら、みんなとまどって

いました。なんで先生そんなこと聞くん?という雰囲気。じゃあ、

100点とれたと思う人、一人だけ元気に手をあげる。90点、

80点、だれも戸惑いがちで手があがらない。70点、でやっと

おずおずとあがる感じ。



さりながら、先生単位ちょうだいや、と言って去っていく子もあり、

なんとか交渉すれば、機嫌をとればもらえるのか、と思ったり、

している雰囲気。それもこれも、はじめから自分のシラバスと

一日目のオリエンテーションが理解しにくかったのかなあ、

と思い、昨日提出した来期シラバスはかなりきびしく書きました。



成績ってつけたことがないのです。無責任のようですが(実際無責任なのです)

自宅塾では、学校での英語の成績の低い子をはげましてテストだけでは

測れない個性をみとめたり、成績の高い子にはそれだけでなくて

もっと英語で自分を表現するように促したり、学校教育の基準とは

別のところに英語力というのはある、と信じていたので。


ところが、今回、成績をつけなくてはいけないことになり、色々考えます。



本人は一生懸命がんばったつもりだろうけど、単位を落とすということに

なるとショックだろうなあ、と思ったり、早めにそのショックを与えた方が

若い子の人生にはためになる、という意見ももらったり、新米としては

色々、色々考えます。沢山の大人に聞いてまわっています。

どうしたらいいんだろうか、と。