2016年8月25日木曜日

「ハイデガー」木田元(2001) 岩波書店

同じ著書の「反哲学入門」に引き続いて、表題の本を


読んでいます。この二年半ほど、諸々の理由で、


哲学について触れづらかったのが、夏休みと休学届で晴れて自分の


好きなように読める~~!幸せ。




ちょっと読んだぐらいではわからないに決まっていますが、


それでも難しい理屈を一行一行掘り下げるようにして読んでいき、


少しでもピンとくる箇所があると嬉しい。




木田先生は、ハイデガーがナチスに傾倒してしまったのは、「ドイツ大学教授の


政治的未成熟」というフランスのジャーナリストの見方が妥当だろうと言及され、


私もこの点がずっとひっかかるのですが、先生がその問題はひとまずおいといて


ハイデガーの集中した思索をずっと説明してくださるのでついていこうと努めて


います。




この本によれば、フッサールからシェーラー、ハイデガー、メルロ=ポンティに


至る現象学の展開と、広義の生命科学(今世紀前半の心理学、神経生理学、


生物学)は深く相互に影響しあっているので、そのことを理解しなければ


現象学のことは適切にとらえられない、そうです(p60)。






そのうえで第一章『存在と時間』について、第二章「時間と存在」の章をめぐって、


の中で、世界内存在、現存在、世界、有意味性、被投性、企投、根源的時間性、


脱自などの難解な概念について、ハイデガーが何を主張し、打ち立てようとしたのかが


説明されていきます。




例えば、「有意味性」について、金槌や釘を例にあげて、こういう個々の道具は、道具が


先にあるわけではなく、その道具立て、つまり道具の使用、道具の連関がまずあり、


「(板をうちつける)ために」というかたちを相互に指示しあうものとしてあります。


それを存在論的な先行(アプリオリ)、といいます。そしてそれを成り立たせているものは


人間が明日も今日とおなじように無事に生きていようとする「気がかり」なのです。


こういうことのすべて、総体が「有意味性」であり、この「有意味性」が「世界」


だということです(p71)。ですから、「世界」というのは、「現存在(≒人間)」の自己自身に


対するかかわりから発現し、そこに収斂していく意味の網目(p73)なのだといいます。




第三章では、体系的思想家としてのハイデガー、文明批評家としてのハイデガーよりも、


哲学史家としてのハイデガーを高く評価するし魅力があると、述べた上で


著者は哲学史へのハイデガーの新たな展望を書き進めています。








ここでは、ハイデガーが、通常表面的に権力への志向と解釈されてしまう


ニーチェの「力への意志」およびニーチェの哲学への誤解をことごとく


論拠をもって退け、ニーチェの哲学の真意を深く読み取っていることが


述べられています。そして、ニーチェからの学びをもってライプニッツの単子論の


再評価をし、形而上学の克服を試みているそうです。




著者曰く、ハイデガーが解釈するニーチェの「力」の本質とは、「おのれを


超えようと意志する」ところにあり、「力」は本質的に「力への力」なのであって、


「意志する」とは、本質的により強くより大きくなろうと意志することであり、


意志もまた本質的により強い意志たらんとする意志、「意志への意志」です。


そしてこの世界、存在者の全体、つまり自然が「現にあるよりもより強くより


大きく」なろうとする自己超克の構造をそなえた生(レーベン)であり、


生きたものだということなのです(p185)。




すごいですね~。元気が出てきます。




ここから、ハイデガーが、ギリシャ悲劇時代の思想家たちが書いた本の


中の「自然(プュシス)」を、自然科学の研究対象になるような存在者の特定領域


の自然ではない、存在者の全体を意味し同時に存在者のすべてを


存在たらしめている存在、おのれ自身のうちに生成力を有する生きた自然


とらえている話になってきます。






まだ全部読み終えていないのですが、ここで「自然」についての論考が出始めて、


はじめて、冒頭で生命科学と相互に影響しあっている、と言及されたこと


につながってきて、面白い。




1人で読んでいるのがもったいないので、拙いながらご紹介してみました。









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