2016年8月13日土曜日

博士論文まだまだ 構想

ちゃんと準備していなくて申し訳なかったのですが、


お忙しい先生にこれまでやったこと、何をしたいのか、


どのように対話としての言語観から日本の英語授業への実証的な研究に


繋いで博論として完成させるのか、ヒントを頂きました。




一つには私が考えているような、学習者にとって英語で自分の(内言を含めた)


意味のあることばを発することが重要だ、そういう瞬間に学習者が誘導できるような


英語教師の行為としてのことばがとか、対話的な言語観が重要だ、ということは


浅く解釈されて学位論文としては説得力がないということ。






ありがたかったです。博論としての深さを追求するには年数がかかる、


では短く太くするなら博論としての広さで勝負するしかない、と


言っていただきました。




よくわからないのですが、第二言語習得理論なるものに依拠すれば、ことばの


哲学とかバフチンとかに依拠はできないの?理論、ってなんなんでしょう?


先生とお話ししたのは、教室で雑談のときに英語を使う経験をするというだけでは


教師―生徒、情報を与えるもの―情報を受け取るものという大枠のフレームが


生徒が情報を与えるもの、教師が情報を受け取るものというフレームシフトに


なるだけなので大したことではない、母語であれ、第二言語であれ、


同じという感じでしたが、学習者にとって


それまで意味のない無視できる無機質の机上の記号だったものが、


個人的な意味のある生き生きとしたことばになるということは


劇的な変化ではないのでしょうか?






自分が経験上ものすごく重要だと思っていることが、学問上、研究上


たいしたことがない、と扱われることに納得できないのは、


本当に情けないです。まだまだなんだろうと思う。















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