2015年9月27日日曜日

理解という概念

今メモをとりつつ、Derek Edwards(1997)を再度読んでいます。

昨年読んだのに、下線も沢山引いて、メモも書き込んでいるのに

あまり頭に入っていなかったみたい。昨年気になったところと、

今重要だと感じたところがずれている。



第四章Talk as Action でintersubjectivityについて説明している項が

あります。intersubjectivity間主観性はずっと気になっている概念で、

例えば、人が他の人に影響されて、他人の言葉を自分が考えたことだと

思い込んでいたり、同じ職場でずっと一緒にいると同じ話し方になったり、

夫婦が似て来たり、そういうことにも関係してくるのかなあ、と思って

いましたが、どうも学者や理論によって使い方が違い、今ひとつ

自分はこれ、という定義が決められない。


「理解」ということばもそうで、どうも日常的に私は「理解」という事象に

期待し過ぎるけらいがあるような気がします。以下が面白い。

     Again, this is not to say that joint understandings are produced cognitively,
in the sense of individuals possessing the same ideas or beliefs; nor that
intersubjectivity is interactionally straightforward. It is to say that the phenomenon
of mutually intelligible social interaction is a practically accomplished public
production, and not a matter, outseid of that, of people 'actually'(from a God's-eye
point of view) understnading or misunderstanding each other.
(Edwards, 1997:101)

要は、実際に現下の行為をするにあたって、理解しているように見えれば

行為が遂行されれば、それが理解なのだ、神の視点から見るような

真の理解などしているかどうかわからないからそれはカッコにくくって

おいておこう、ということのようです。会話分析は乾いた理論だ、とか冷たい理論

だと言われるそうですが、そうかもしれません。



これも西口(2013)のバフチン理論に共通すると思います。現下の状況で

必要な対話で十分、というわけだから。


そうすると、身につまされる、とか共感する、とかやさしい気持ちになる、

とか、嫌悪感を抱く、とか、怒る、とか、かわいそうになる、とか

可愛い、とか、ほっとする、とか、色んな事象に遭遇するたびに私を揺さぶって

やまない諸々の情動はどうなるんですかね。


まあ、感情的な人ほどまずかっこに入れて考える、ということが必要なの

かもしれないので、こういう論の進め方にもっと慣れないと。



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