論文を読みましたが、難解。先生曰く、この人の英語は癖があるから。
ところが、授業の助けにしようと借りた本がめちゃくちゃ面白く、
ゴフマンにはまる予感がします。「ゴフマン世界の再構成ー共在の技法と秩序」安川一編、世界思想社
以下は久々の抜き書きです。
p10
ゴフマンの論じるフレイムーもしくは「第一次フレイムワーク」ーとは、それ自体は意味をもたないむきだしの出来事の流れを、なんらかの組織だった意味あるシーンとして経験させる、経験の組織化の前提、もしくはその「原理」である
p11
ともあれ経験はフレイミングである。
p12
フレイミング能力
p14
相互行為のフレイミング過程-フッティング
共在の相互行為をめぐる諸論点
第一に、相互行為は相互行為としての秩序を個々に実現しながら構成され続けなければならない。
第二に、相互行為は、単に個々に意味確定されパッケージ化された情報が、いわば後方拘束的に連鎖していくものなのではない。
第三に、相互行為はムーヴがたえずフレイミングされ続けていく過程であるということができる。しかも、特定の秩序世界における個々のむーヴの位置関係を明示するような形でなされるフレイミングである(「フッティング」FT:128f)
FT=Forms of Talk
相互行為内的出来事はたえずフッティングを続ける。行為者、たとえば話し手でさえ、会話という社会的仕掛けのなかでフッティングを変化させ続ける何者かでしかない。話し手は、出来事としては同時に、発話=音響活動に従事する生理的身体としての「発声体」であり、発話の「作者」であり、発話内容にコミットする「本人」である。人はそのような複数的存在として、状況に用意された発話の「作成フォーマット」(FT:144f)の実働過程にかみこまれ、これが実現するフレイムのなかに位置づけられてはじめて、会話内的世界の「登場人物」としてこの世界に「埋め込まれる」(FT:147f)
注25 p30
フッティングとは、つまりところ、相互行為の過程でムーヴが共在内世界に位置を得ていくこと、しかもつぎつぎ変えていくこと、また、そのことを通して共在ない世界が秩序立てられていくことである。たとえば会話において、発話は一つ一つ会話の参加者各々との関係のなかに位置づけられていっている。それは、参加者が発話との関係(「参加地位」)をそれぞれ与えられていくということ、また、参加者相互の関係が発話を焦点とした「参加フレイムワーク」のなかに構造化されて、会話が組織化されてくということである。(FT:137)そしてこのことは、以下に述べる発話の「作成フォーマット」(それは発話と話し手の関係を設定する)とともに、会話の同時/多元的で、しかも、うつろいやすく壊れやすい展開を支えている。
p121
たとえば、埋め込まれるエピソードの外側での「私」という言葉が指示する対象と、エピソードのなかでの「私」が指示する対象とは異なっている。それは、だれか別の人の場合もあれば、「過去の私」の場合もあるだろう。この場合のコンテクストは、始まりと終わりという境界をもち、それはあくまでその間に発せられたり表明されたりするトークの記号の意味をメタ・レヴェルから規定している。このことによって「演劇家が、どんな世界でも舞台の上におくことができるように、私たちはいかなる参加フレイムワークや作成フォーマットでも私たちの会話のなかで演じることができる」(FT:155)
p122
解釈枠組みであるフレイムは社会関係を規定するものでもある。なぜなら自己と他者との関係も解釈枠組みの解釈によって規定されるからである。
(これは博論のテーマにも繋がるのでは。第二言語学習場面における他者とは何か。目の前にいない他者。その他者に気づくためには解釈枠組みの解釈について考える必要があるのかもしれない。)
ベイトソンの遊びのフレイム
行為にラベルを貼って行為の一定の解釈を規定すると同時に関係性も規定
すなわちフレイミングによって〈攻撃する関係〉を否定することによって逆に〈親しい関係〉が確認
「役割距離」を通じてもみることができる
つまり、自分がある状況のなかで自分にはふさわしくないと思っている役割を演じさせられている時、その役割をフレイミングしてしまうことによって、その状況における〈役割関係〉を隠喩的に否定
それは関係性の位相のずらし
p123
なまの講演におけるトークが単なるテクストの伝達以上のもの←著者の舞台裏をのぞくような種々の儀礼的接近、効果をあげるための工夫(テクストにはないエピソード、裏話、テクストに反対の立場やコメント)
関係の虚位を自由に変容させることはそのトークにあたかもそれが一回性で唯一の直接的出会いであるかのような効果
フレッシュ・トークの捏造
p123
人が過去の体験のエピソードを語るときには、それに登場する人物に合わせて語調を変えたりときには軽くまねしたりする。また、旧知の友とビジネスの話をする際、商談をするときと友人として話をするときとでは話し方を変える(たとえば、標準語から方言へといった具合に)ということが観察される。いわゆる「コード・スイッチング」である。友人という関係のコンテクストのなかで話すときとビジネスの相手というコンテクストでは異なるトークの表現が選択される。つまり、話し手は聴き手に対して役割が固定されているわけではなくじつはさまざまなフッティング(立場)をとっているのだ。
p124
聞き手だけではなく、「話し手」の方も聞き手といかなる関係に立つかで分類が可能である。たとえば「登場人物」である場合。とくに、日常のトークにおいては、トークに挿入されたエピソードの登場人物である(このときも、聞き手は、トークをしている相手に話しかけることはできてもエピソードのなかの登場人物に話しかけることはできない)。トークの「作者」として話すこと。トークの「本人」である場合や単に音を伝達するだけの「発声体」にすぎない場合。これらをゴフマンは「フッティング」とよぶ。あまり意識はされていないが自然なトークはいつも多彩で多元的な埋め込みが行われる。それにともなって話し手は「フッティング」をつぎつぎと変えてゆくのである。このようにして話し手は聴き手とさまざまな関係性や距離をとることによって自然な会話の自由さや柔軟性といった(そしてすでにふれたように講演においてそれが単なるテクストの硬直した伝達に終わらないように逆に捏造されるような)フレッシュ・トークの雰囲気が生まれるのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿