2017年12月23日土曜日

『学術書を書く』

審査会の前後で先生方と話し合ったりする間に、

章立てがどうのこうのとか、先生によって言われることが

違うし、パラダイムによっても違うし、だんだんわけがわからなくなって

きたので、図書館のアカデミックスキルコーナーで見つけたこの本を

読んでみました。


鈴木哲也・高瀬桃子(2015) 『学術書を書く』京都大学学術出版会
 
 
著者のお1人鈴木先生は、京都大学学術出版会の編集長なので、
 
学術書の編集者から見た、博士論文や投稿論文と、学術書の
 
違いを具体的に指摘されておられて、狭い学問分野で書く論文
 
というものの癖は分野を超えてあるんだ、ととてもすっきりしました。
 
 
博士論文は、審査をする数名の先生のために書くもの、学術書は
 

その専門分野の「二回り、ないし三回り外」の読者に向けて書くもの、
 
だそうです。自分はこの区別が明確でなかったために、博士論文で
 
紆余曲折しているんだ、ということがわかりました。
 
 
 
最近、博士論文を書き終えた人が論文を本にするために大学出版会と
 
やりとりをされていて、貴女も書き終えたら本にするんですよ、と言われた
 
ことがありました。その時は審査会に出すメドもつかなかったので、
 
なんか雲の上の話だなあ、と思っていたのですが、案外そういう先輩の一言が
 
あったので、この本が目についたのかもしれません
 
 
 
これから人生のステージに立ち研究者としてのキャリアを追求していく
 
若い人とは違って、自分には今まで博士論文を書いて提出する、
 
ということが究極の目標でありました。それがとっても難しく、
 
でも一段上の目標を見据えることでまたがんばれる気がします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2017年12月22日金曜日

諸々

色々と思うのですが、博士課程を目指して読んでくださっている方がいるようなので、

あまり過激なことは控えるようにします。


まだ、書けていない自分が言うのもなんですが、反省をこめて博士論文を書くために

必要なことは、

1.博士課程に進む大学院と指導してもらいたい先生について徹底的にリサーチする

  自分の研究と表面的にマッチしそうに見えても、

  中に入ってみるとずれていることがあると後が大変。

  特にその大学院のメインのパラダイムと自分の研究のパラダイムについてよく考える。

  スタイルはあとから変更もできるが、その大学院の大勢をしめている先生たちとの

  パラダイムがちがっていると、自分の指導教官と自分のパラダイムが一致していても

  自分の主張と大学院との対話が成り立たない。


2.主査と副査の関係

  仲が悪そうな気配が見えたら、すかさずどちらかを変える。

  仲が良さそうでもわからないので用心して周りから情報収集をする。

  一番いいのは主査が温厚、寛大で、副査が主張があって博論に厳密、というパターン。

  2番目は、主査の主張が強くて、副査は最終的に従うというパターン。

  大変なのは、双方ともに主張があって博論に厳密、熱心というパターン。

  そういうパターンであれば則どっちかを変えた方がよいが、はじめはどちらも

  いい感じに見せているので、わかりにくい。 どっちも譲れなければ、

  院生が板挟みになって博論が成立しなくなり泣きをみることになるので、

  紀要に投稿してみて両方の先生の意見を聞いてみるなどして双方の

  力関係や性格のバランスをよく見て判断する。


3.理想は追わない。妥協する。

  私はそこまで割り切れないし、、博論から研究者としてのキャリアを

  ステップアップしていくような年齢でもないので、ある程度理想を追いたい、

  妥協はあまりしたくない。でもこれからの若い人は、キャリアの中で

  理想を追求していくには博論で妥協するしないと何も始まらないのだろう

  と思います。

  ので、他の大学院は違うかもしれないのですが、審査会の後、D生で

  色々話し合うと、結局はここはまずページ数、序論、そして何よりも

  結論がわかりやすいかどうか、箇条書きでもいいからわかりやすい

  結論をかいているかどうかが、明暗を分ける、というのが皆の見解でした。

  先行研究や理論的枠組みをちゃんとやろうとして徹底的にやっても

  そこはあまり見てくれない。他分野の先生に判断されるので、

  問いと答えだけ、そこだけを見る。後の理屈は、そんなに問題とされない。

 
  色々と言いたいことはいっぱいありますが、とりあえず。


  何かのご参考に。

  

  

  


    

2017年12月13日水曜日

副産物 

もうあと、今週の博士論文審査会を控えて既に終わったな~。

という感じ。


せいいっぱいやってはいますが、これまでの自分を

ふり返って何が悪かったんだろう、と思い返すと。

まず、博士課程に入るときにもっと突き詰めて調べたり考えれば

こんなふうにならなかったかもしれない、ということもあります。


が、その時点で自分に手に入る情報や聞ける人には研究の

ことは聞いたつもりだし、談話分析や会話分析のことも何も

知らなかったし、ましてはまわりまわって現象学関係で

博士論文を書くことになろうとは昨年末まで思いもよらなかった。


英語教育や第二言語習得研究で、英語も含めてすべて手に入るオリジナルの

文献を全部読んだかと言われれば、それはしていない。まずもって、

なんでことばや人間や教育のことに、そんなに統計や数式や数字で

すべてを説明しているのか、ということが納得できなかったし。

それでいて批判をしているのでそれは突っ込まれどころが満載。


もっと意味のある深い研究を探しても英語教育分野では見つけられなかったので、

自分でやろうとしていろんな分野をさまよい歩き、紆余曲折して

今週を迎えることになりました。


傲慢と言われればそうかもしれないですが、英語で自分を表現できない人が

なんで英語の先生をしているのか、ということが今でも納得できない。

ことばを教えている人が、ことばを使うのが苦手、ということがまったく

納得できないし、そんな授業を受けさせられている生徒が損せざるを

得ないのにも納得できない。


英語であろうと、何語であろうと教える立場の先生はもっと現実のことばを

大切にすべきだ、という気持ちをこの博論で表現したかったのですが、

それが学術的に表現できないのであれば、ひたすら、まだまだ

勉強を続けるしかないなあ。


救いは、今大学の授業で学生たちが少し英語に対していきいきして

きたような気がすることです。リーディングライティングの授業で

まとめで簡単なプレゼンをグループで前でしてもらって、

その感想を書いてもらったら、私の質問は聞いてわかったけど、

口から答えがでなかった、くやしい、という感想がちらほらあって、

なぜかすごく手応えを感じました。くやしい、という気持ちが

エネルギーの源泉になるような気もするし、そういう気持ちを

忘れてしまった自分を鼓舞してくれる気もします。


そういう副産物もあるし、現象学に同じく興味があるしつけんの

メンバーが教えてくれた「目の見えない人は世界をどう見ているのか」

の著書の伊藤亜紗さんの発表を見つけたので動画で見ていたりすると

文章と実際のその人の話している感じはずいぶんちがうなあ、と

思い、文章のパワーというのも改めて感じます。


もっと丁寧に文章を演出しないといけないんだなあ、と思ったり。

例え結果はだめでも、色々と副産物があった博士後期課程も

もうあと3ヶ月あまりで終わります。
















2017年12月6日水曜日

まじめな人

今自分がいわゆる 「せんせい」になってみると、かつての自分のことが

よくわかる。


一生懸命にせんせいの目を見て話を聞く、面白い、面白いから

一生懸命勉強する、せんせいのことばがびんびんくる、

なのに、自分ほどせんせいの話をわかっていない子の方が

せんせいは可愛がっている。放課後にその子を特別扱いしている。

あの子なんにもわかってないやん。鈍いやん。


なんで?


私のほうがせんせいの言っていることはわかっているのに。

私の方がせんせいの話についていっているのに。せんせいに認められるように

がんばっているのに、なんで何もがんばっていない子の方を

せんせいはかまうんだろう。私の方がせんせいをずっと好きなのに。

あの子なんにもしてないやん。あの子せんせいの言うことなにも

わかってないし、わかろうともしてないやん。


せんせいも、その子よりも私と気が合うはずなのに。

せんせいは、私と話している時、すごく楽しそうに色々教えてくれるやん。

友達のように。



私もあの子のようにせんせいにかまってほしい。だから

これだけがんばっているのに。なんで?なんで?


それは「せんせい」になってみるとわかる。