2017年6月25日日曜日

第47回celes長野大会 二日目

参加したのは、

自由研究発表⑤外国語教育質的研究における調査対象の抽出方法:サンプルサイズが

1の場合に着目して ⑥タスク性の高いコミュニケーション活動の導入による

発話の流暢さの発達 ⑦学び直しとユニバーサルデザインを意識した英語指導

英語教育研究法セミナー2「実証研究および実践研究の科学性」

課題別研究プロジェクト発表③「英語教育における『エビデンス』


不満はまず、2日目に個人的に聞きたいセミナーと討論会などがかぶりすぎる。

聞きたかったのに、聞けなかった発表が色々ありました。


そして、昨日ブログを書いてから気がついたのですが、プログラムにSNSの欄が

あってXとついているものがあったので、ブログに書いてはいけないのか!

とびっくり。幸い私がとりあげたものはXがついていませんでした。あぶないあぶない。


でもSNS Xの意味がよくわからない。今日もセミナーで写真はとってもいいですよ、

と呼びかけられていたのですが、写真を撮ってアップしてはいけないのか、

SNSで感想を書いてはいけないのか、ツイッターしてはいけないのか、

なんかよくわからない。


自由研究発表⑤は質的研究をするものとして必見でした。

サンプリング方法と論文の書き方の良い事例の参考文献はありがたい、

ただ発表者お2人が絶賛されているDe Costaは私も素晴らしいと

聞いて論文を一本読んで社会言語学ゼミでレジュメを作ったのですが、

そんなにしっかりしているかな、と疑問。

私が読んだのはこれです。

De Costa, P. (2016). Constructing the global citizen: An ELF perspective

参考文献ではDe Costa(2010)があがっているので、改めて読んでみます。

これに関連して課題研究プロジェクト発表①「英語教育の質的向上を

目指した実践研究法のデザイン」を聞きたかったのですが、③とかぶって

いて行けませんでした。残念。


英語教育研究法セミナー2では、2人の発表者のうち1人目の草薙さんが

数理的アプローチと構造主義的科学論、構造構成主義、2人目の藤田さんが

学術研究と実践研究について話されていましたが、お2人のそれぞれの

考えの関係性と、量的研究と質的研究との関わりが良く分からなかったので

事後質問してみました。藤田先生によれば、量的研究も質的研究も学術研究

であり、実践研究は質的研究と言うよりも、質的データを利用しているだけ、

と言われていたと理解しました。もう少し認識論的な話になるのかと

期待していましたが、というと僕らのこのセミナーがきっかけになればいいと

思う、ということでした。


課題別研究プロジェクト③「英語教育における『エビデンス』:評価と活用」は内容が

難しく、亘理さんと寺沢さんの話はなんとかがんばってついていったのですが、

草薙さんの話が自称統計マニアとおっしゃっているだけ、統計が苦手な自分には

難解でした。あとの討論もすごく刺激的で、t検定や分散分析はエビデンス階層の

レベル1だからそういう研究は切り捨てるかどうか議論するべきだ、という

寺沢さんの主張もわかりますし、そ、そ、それではt検定を二年間がんばって

教えている先生と学生がかわいそうだ、というフロアの意見もわからなくはない。

そこで、エビデンスの弱い量的研究を捨てられないのは、それに代わるしっかりした

質的研究に依拠できないということもあるのではないか、と思いました。














2017年6月24日土曜日

第47回celes長野大会 一日目

初めて参加しています。

関西とはずいぶん違うなあ、という印象。というのは、理論的でしっかりとした

若手の研究者が実践にもとづいて、遠慮せずのびのびと活躍している感じが

します。もっと早くくればよかった。



参加したのは、英語教育実践セミナー「スピーキングの指導と評価」、

シンポジウム「外国語科における思考力・判断力・表現力をどのように指導するか」

自由研究発表 ①「小学校英語教科化に向けた教授材・学習材の開発」

②「幼少教材・授業づくり支援プロジェクトの実践:教員養成課程における

集団での指導計画・教材づくり」

③「小学校英語学習経の中期的効果:エビデンスベーストアプローチに基づいて」

④「Eye-Closureは音声単語認知及び聴解に好影響を与えるのか」



一日目で一番印象に残ったのは、自由研究発表の②です。静岡大学の

亘理先生が指導された院生と学部生12名とのプロジェクトで、静岡県の僻地の

小学校のために、学生たちがどういうことを学ばせるか、と主体的に

考えて教材を作り、そのままプリントしたり電子黒板でつかえるように

その教材をデータで自治体に送り、また、英語に触れる機会のない子供たちのために、

45冊の英語絵本を選定して各小学校に納入したり、というものでした。

現場に足を運んだのは遠方なので二回だけ、英語専修の学生たちは

小グループで話し合い、全体でフィードバック、それを小グループに持ち帰って

修正、また全体で話し合い、というプロセスを経て教材化したそうです。

しっかりした先生の指導のもとで、現場と連携しながら自由に手ごたえのある

プロジェクトをすることができた学生たちは幸運だったと思います。

また、教育とは本来こういうものだといい意味で緊張させられました。


自由研究発表の③は、いわずとしれた寺沢拓敬さんで、人気があって

部屋はいっぱいでしたし、期待にたがわず理路整然としたお話で

ものすごく勉強になりました。なんとなく英語教育の量的研究のうさんくささ、

を感じてはいるものの、統計はさっぱりわからないので、エビデンスベースト

という考えを学んで、ちゃんとした量的研究とそうでないのとを区別する

ガイドラインを教えてもらった気がします。


2017年6月13日火曜日

シカゴ・スタイル


最近は、非常勤先で学生の英語力はともかく、プレゼンの構成や

文章の構成をまずわかりやすく教えないと話にならないなあ、と

痛感しています。みんな言いたいこと、興味があることをとりあえず

提示してみることはできますが、3分間しゃべるとか、ポスターを

つくる段階になると、それを構造化しなければ何を言いたいか

自分も聞き手もわからなくなってしまう。



それは、私の博士論文も同じ問題を抱えていて、自分ができないのに、

人に指導することもままならないので、最近、阪大の図書館で

見つけたこの本を読んでいます。

吉岡友治 (2015) 『シカゴ・スタイルに学ぶ論理的に考え、書く技術』 草思社

これは学部生向けなので、すごくわかりやすいですが、なぜか

アマゾンでは見つけられませんでした。


論文の組み立てに悩んでいる方はぜひ見つけて読んでみて下さい。

2017年6月11日日曜日

KELES研究大会

久々に二日間どっぷり浸かってきました。

 
たくさん収穫がありました。一日目は、史上初めて外国語教育メディア学会との

共催ということで、阪大の言語教育関連の先生も数人いらっしゃってました。

大学でお会いするのとは、また違う感覚でワークショップで学ぶことが

できて新鮮でした。


ドイツ語の岩居先生は、阪大ではipadカフェでTAの身分でお世話になって

いるのですが、どうしても教授や准教授の先生方のあいだで院生

としてはいつも気後れがしていました。今回は、受講生としてちゃんと

学ぶことができたのでよかったです。



一日目も二日目も修士時代の京都教育大の先生方や先輩、同輩と

再会できてなつかしかったし、その時代の自分と今の自分との

距離や立場の違いを確認できました。


修論発表会から長い期間を経て久々にここで発表したくなりました。

関西で発表するのは全国よりも勇気がいります。。。でも、

そういう試練が自分には必要かもしれないです。



師匠とゆっくりお話ができて、初心に戻れたし、スピノザのエチカは絶対

読もうと思いました。


LETはあまり知らなかったのですが、一日目のシンポジウムの先生方が

若々しくて、海外の大学で博士論文を取られ、国際ジャーナルにも

多数寄稿されているということで、とても論理的ですっきりした

説得力のある展開で面白かったです。でも若いなあ、まだまだ

もっともっと深く教育や言語、哲学を追求していってほしいなあ、と

年寄りぽく思ってしまいました。


圧巻は、高木先生のブランチセッションでした。あんなに高木先生が

熱く実践研究について語っておられたのはすごかったです。

100回ぐらい先生の目を見てうなずいてしまいました。

つられて中部地区の英語教育学会にぜひぜひ参加したくなりました。



修士時代の先輩と電車で帰り一緒でした。中学校の実態を

お聞きすると、快く沢山教えていただきました。アクティブ

ラーニングはどうなんですか、と尋ねると、アクティブ

ラーニングをしているということを文科省にアピールするため、

全教科で机をコの字型にすることに職員会議で

強行に決められたそうです。その先生は反対したんだけど、

と仰っていました。アクティブラーニングを深く理解していなければ、

形だけで入ってもだめだろうと。ほんとうにそう思います。


教育に関してなんでもかんでも上から押しつけて、どうして

現場の話を聞こうとしないんでしょうか?現場の先生が

生徒のこと、教室のこと、何が必要か、教育とは何か、

一番よく知っているはずなのに。


例えば、大工さんに家の建て方を政府がこうしろと

押しつけることができますか?あるいは看護師に

亡くなっていく方の看取りをどうしろと政府が指示することが

できますか?教育もそういうことだと思うのに。


なんでもかんでも政治で決められると思っている。

でもそういう政府を支持せざるを得ない世の中をつくっている

私たちに責任がある。なんとかしないといけないです。

そうでないと、真摯にがんばっておられる現場の先生たちが気の毒です。

2017年6月2日金曜日

本というもの

色々思うところがあるのですが、自分の悪い癖で思ったとおりのことを

いうと沢山の人を傷つけてしまうと思い、またひいてはそれが

自分の不利益になり、自分がしたいことを妨げてしまうので、

ここに書こうと思います。


本について他のメディアに書いたのは

「若い哲学者千葉雅也のお勧めの本を読んでいますが、ビンビンきます。

例えばp227、『本の内容は、本の価値より安定しているわけではなく、

それについて交わされる言葉のやりとりに応じて大きく変化しうるのだ。』

論文も然り。それについて交わされる言葉のやりとりが貧しければ

どれだけ読者の数が多くても価値はないと思いました。」

これに関してはもっともっと言いたいことがあります。


修士、博士課程を経て5年目を過ぎ、研究者や大学の先生の実態が

ほのみえてきました。



先生方それぞれの信念に応じてがんばっていらっしゃいます。


若い先生方は若い先生方なりに、大学の仕事をこなし、

学会発表も数多く、研究会の主催もされて、院生の指導、

大学の授業、心配になるほどです。年配の先生方は年配の先生方で、

ご自分の信念に基づいて、勢力範囲を拡大しようと色々されていらっしゃいます。



でも、私が納得できないのは、私がいろいろな哲学や認識論、存在論に

遡ってそれを議論しようとしても、自分の専門分野の認識論や存在論を

所与とされておられる先生はそういうことを深く考えたことも

ないので、そもそもそういう議論ができない、ということです。

それはめちゃくちゃ不満です。大学院に入ってきたときはそういうこを

議論したくて入ってきたのでした。その時の修士課程の院生の

方が深く考えていました。ところが今の先生方の方がそういうことを

何も語る言葉がない。ただ、ご自分の分野で所与とされている認識や存在論

を語りもせず押し付けるだけです。


そういうソフトな権力に基づいて私のテーマや研究設問にコメントされても、

私が前提としている認識や存在論とは違うので当然納得できません。


その認識論や存在論を所与として出版された本は何もディスカッションもできないし、

対話も深まらない。ただ、印刷され、出版されただけ。いくら

沢山の著書を出版されて、数多くの論文を発表されても

それに対して誰も何も言うことはない。有名な先生になられて、

権力を持ち、浅い興味を数多く引き付けても、何も深まらない。

それはその先生が自分と自分の主張にしか興味がないからです。




そういう先生の主張を権力的に押し通されると、若い院生ならその後の人生が

かかっているので屈服してしまうかもしれませんが、

そもそも自分は博士論文を書いた後の人生でどう自分の権力を

打ち立てるとか稼ぐとかはあまり問題にはなりません。

食べていけるだけのわずかなお金を得れば十分です。

従って、もっと本質的な議論をしたいので、ご自分の研究の

世界観や言語観、研究観、教育観をこれまで深く考えられた

ことのない先生とは話にならないです。それは年齢だけでは

ないありません、わたしより年上でも浅い学問分野に長く浸っておられた

人とは話が合いません。


おそらく、そういう先生方を軽蔑した態度を醸し出してしまうので、

先生方から敬遠されることもあるかもしれません。でもそれでも

かまわないと思っています。