2014年11月29日土曜日

博論のテーマ

ずっと色々考えていて、自分のある一人の生徒のことを

博論に書こうかと思っています。



師匠からは、いい加減に自分の生徒からは離れるように、と

言われたのですが、まず自分が英語教育の専門の勉強をしたい、

と思ったきっかけになったのは、自宅で英語を教え始めて

生徒たちに接するうちに、自分の教え方の拙さになんとかしたいと

葛藤して、児童英語のセミナーに通ったり、専門書を探したり

しても解決できなかったので、教育大に行ったわけですし。



来週、授業で発表するレポートに初めて彼のデータを出すことにしました。


今日、D3の先輩にその話をしたら、それはあなたでしかできない

ことなので、ぜひそれを書いてほしい、その博論を読みたい、と

言われました。ありがたく、その言葉にすがってやってみようと

思います。


彼は、高機能自閉症なので、色々と特徴があるのです。10年近く

つきあっているので、返って自分がみえなくなってしまっている

こともあるかもしれません。


ご両親もよく知っている方々なので、話し合って了解を得られたら

できるかもしれないです。

2014年11月26日水曜日

Goffman - Interaction Ritual

ゴフマンにはまってしまい、来月の担当よろしく、論文何読みたい、と

社会言語学の先生にたずねられて、とりあえず気になっている本は

Interaction Ritual とEncountersなので、そこから役に立つ章を

選んでください、とお任せしたら、Interaction Ritual の始めの

On Face-Work という章を任されました。


くどくどとした英語で書かれていて読みにくいですが、でも面白い。

ゴフマン君はどういう人でなぜここまで細かいinteractionの現象に

こだわったんだろう、よっぽど気が細かくていやみで付き合いにくい

やつに違いない、と思えてしまいます。でも、その彼のカリスマ性

というかその思想に共感して社会学や談話分析が大きく発展

したのが、なんとなくわかるような気がします。


誰もが当たり前として、考えもしなかったことをくどくどと考え込んで

つきつめて理詰めで考えたに違いない。きっとおしゃべりも好きで人間も

好きでいっぱいしゃべった後に一日今日の会話について考え込んでいたのかも。



今日読み終わった最後の段落で、人間の成り立ちについての一節。


the person becomes a kind of construct, built up not from inner psychic

prepensities but from moral rules that are impressed upon him from without.


from withoutというのは、外部から、という意味だそうです。

やっぱり、自分はここにこだわっているんだろうな、と改めて

思います。だから、活動理論に魅かれるんだろう、と。


沢山の人との出会いによって、確信を持っていたはずの自分が

どんどん変わっていったり、逆に自分との出会いによって人が

変わっていくのを目の当たりにして、自分が意志をしっかりもって

働きかけることで周りの環境を変えることができるんだ、と思った時がありました。


それもかなりエネルギーがいることですが、でも、また頑張って

エネルギーを使って発信していくとその反応が何倍にも

なって自分に跳ね返ってくる、ということも経験します。


Encountersも買ってしまいました。



来週のこの章の発表に全力で取り組みたい、いつも発表者と

丁々発止で対話される先生がどんなつっこみをしてくださるのか楽しみ。







2014年11月22日土曜日

不遜

久々に用事で古巣の教育大にお邪魔して、副指導教官の恩師と

お話する機会がありました。


博士課程はどうですか、と聞かれてもろくにお返事できず

申し訳なかったです。色々近況を報告したあと、英語教育にも

ヴィゴツキーやそういうことを取り入れないとと感じる、

とN先生とも話しているんだけど、なかなか難しい、

そこのところを貴女が何かできるのでは、と言って頂いた

だけでありがたかった。


まだまだです。自然に頭が下がり、あとは下がりっぱなし。。

自分に何かできるかもしれない、ふと思ったというだけで

不遜だという気がしてならない。

2014年11月21日金曜日

D1後期も半ば

11月も後半をすぎて、あっというまにもう来月は12月。

毎週のDゼミだけが、博士後期課程らしい時間で、あとはMの授業で

課題をこなしながら、修行しているような日常を送っています。


Dゼミでは毎回一人ずつ、研究の進捗状況を報告するような形を

とっていて、今日は中国の留学生でD3のOさんが博士論文の中間

発表のようなことをしていて、指導教官とのやりとりをメモをとりつつ聞いて

いると、自分とは目的も方法もかけ離れた研究ながら、とても勉強に

なりました。


Oさんの研究は、日本語の試験をどう突破するかそのための

問題点を追及していくため、現代中国語と、古語、日本語との複雑な

対応関係を教えやすくするため整理して教育に生かそうとするもので、

ものすごく精緻で膨大な手間のかかる作業に、論理力、努力、優秀さを

まざまざと見せつけられます。



投稿論文では枚数制限があるから、このデータは見せずとも、博士論文

では省略せずに元のデータも全部見せないともったいない、など注意を受けていて、

基礎的研究とはどういうものか、それと応用との関係、研究についての

考え方、など、聞き入っていました。



が、気になったのは、指導教官が、まさに正統的な研究やな、という感想を

述べたことです。以前から、若い人は、それでよい、が年配のものはもっと

根源的な、原理的なことを追及しないといけない、という言及がありました。



今日も、こういう手間のかかる基礎的な研究と言うのは、非常に大事だけれど、

自分はこういうことはしない、教材やカリキュラムは直観でいってしまう、だから

自分は正統ではないんや、と軽く言われたのが、なんかお告げみたいでした。



4月からの生活を振り返ってみると、英語の文献を読むスピードもあがり、色々な

概念にもなんとなく慣れてきて、世の中の見方もより重層的に複雑になって、

えらい人の考えることも読み解けるようにはなってきたものの、研究という形で

自分に何ができるのかますますわからなくなってくる今日この頃です。







2014年11月16日日曜日

だまし絵II

兵庫県立美術館で開催中の美術展にいってきました。

エッシャーのある絵があれば嬉しいと思って下調べもせず、

行ってきたのですが、おめあてのはなく、でもとても示唆に富む

芸術品ばかりでした。

だまし絵はいくつかにカテゴリー分けされていて、

第一章 トロンブルイユ 第二章 シャドウ、シルエット&ミラーイメージ、

第三章 オプ・イリュージョン 第四章 アナモルフォーズ・メタモルフォーズ

です。

特に印象に残ったのは、第二章 ミケランジェロ・ビストレットの「カメラマン」という

作品です。これは、壁いっぱいの大きな鏡に薄紙に貼ったカメラマンがビデオカメラ

を構えている写真を貼ったもので、その前に行くと、鏡に映った自分が

そのカメラマンに見られている、という見るもの、見られるものを見事に

逆転する世界が体感できます。


あとは、ラリー・ケイガンの「トカゲ」「蚊II]という作品、壁に一見ぐちゃぐちゃの

太い針金が貼り付けてあるだけなので、ある一点から当てた光でみると、

影のトカゲや蚊が浮かび上がってきます。


マルクス・レーツの「SI NO No.3/6」も一つの角度から見るとスペイン語のSI

つまり、イエスなのに、別の角度から見るとNOとなる。


今回は、現実だと信じてみていたものが、まったく別のものだという

そういうテーマは古今東西の芸術家たちが追及したかったのは、

今でもおんなじだな~と感じられた時間でした。


そのあと、立命館大学の文学部心理学の先生が美術館で錯視に関して、

専門的な講演をされていましたが、こっちは疲れていてほぼ爆睡。

http://www.psy.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/hyogo2014.doc

ああ、もったいなかったです。


だまし絵はきっと、授業にも使えますね。

http://www.damashie2.com/hyogo/index.html

2014年11月8日土曜日

フッティング

Erving Goffman の表題の概念について、社会言語学の授業で

論文を読みましたが、難解。先生曰く、この人の英語は癖があるから。

ところが、授業の助けにしようと借りた本がめちゃくちゃ面白く、

ゴフマンにはまる予感がします。「ゴフマン世界の再構成ー共在の技法と秩序」安川一編、世界思想社

以下は久々の抜き書きです。



p10

ゴフマンの論じるフレイムーもしくは「第一次フレイムワーク」ーとは、それ自体は意味をもたないむきだしの出来事の流れを、なんらかの組織だった意味あるシーンとして経験させる、経験の組織化の前提、もしくはその「原理」である

p11

ともあれ経験はフレイミングである。

p12

フレイミング能力



p14

相互行為のフレイミング過程-フッティング

共在の相互行為をめぐる諸論点

第一に、相互行為は相互行為としての秩序を個々に実現しながら構成され続けなければならない。

第二に、相互行為は、単に個々に意味確定されパッケージ化された情報が、いわば後方拘束的に連鎖していくものなのではない。

第三に、相互行為はムーヴがたえずフレイミングされ続けていく過程であるということができる。しかも、特定の秩序世界における個々のむーヴの位置関係を明示するような形でなされるフレイミングである(「フッティング」FT:128f)

FT=Forms of Talk

相互行為内的出来事はたえずフッティングを続ける。行為者、たとえば話し手でさえ、会話という社会的仕掛けのなかでフッティングを変化させ続ける何者かでしかない。話し手は、出来事としては同時に、発話=音響活動に従事する生理的身体としての「発声体」であり、発話の「作者」であり、発話内容にコミットする「本人」である。人はそのような複数的存在として、状況に用意された発話の「作成フォーマット」(FT:144f)の実働過程にかみこまれ、これが実現するフレイムのなかに位置づけられてはじめて、会話内的世界の「登場人物」としてこの世界に「埋め込まれる」(FT:147f)


注25 p30

フッティングとは、つまりところ、相互行為の過程でムーヴが共在内世界に位置を得ていくこと、しかもつぎつぎ変えていくこと、また、そのことを通して共在ない世界が秩序立てられていくことである。たとえば会話において、発話は一つ一つ会話の参加者各々との関係のなかに位置づけられていっている。それは、参加者が発話との関係(「参加地位」)をそれぞれ与えられていくということ、また、参加者相互の関係が発話を焦点とした「参加フレイムワーク」のなかに構造化されて、会話が組織化されてくということである。(FT:137)そしてこのことは、以下に述べる発話の「作成フォーマット」(それは発話と話し手の関係を設定する)とともに、会話の同時/多元的で、しかも、うつろいやすく壊れやすい展開を支えている。

p121

たとえば、埋め込まれるエピソードの外側での「私」という言葉が指示する対象と、エピソードのなかでの「私」が指示する対象とは異なっている。それは、だれか別の人の場合もあれば、「過去の私」の場合もあるだろう。この場合のコンテクストは、始まりと終わりという境界をもち、それはあくまでその間に発せられたり表明されたりするトークの記号の意味をメタ・レヴェルから規定している。このことによって「演劇家が、どんな世界でも舞台の上におくことができるように、私たちはいかなる参加フレイムワークや作成フォーマットでも私たちの会話のなかで演じることができる」(FT:155)

p122

解釈枠組みであるフレイムは社会関係を規定するものでもある。なぜなら自己と他者との関係も解釈枠組みの解釈によって規定されるからである。

(これは博論のテーマにも繋がるのでは。第二言語学習場面における他者とは何か。目の前にいない他者。その他者に気づくためには解釈枠組みの解釈について考える必要があるのかもしれない。)

ベイトソンの遊びのフレイム

行為にラベルを貼って行為の一定の解釈を規定すると同時に関係性も規定

すなわちフレイミングによって〈攻撃する関係〉を否定することによって逆に〈親しい関係〉が確認

「役割距離」を通じてもみることができる

つまり、自分がある状況のなかで自分にはふさわしくないと思っている役割を演じさせられている時、その役割をフレイミングしてしまうことによって、その状況における〈役割関係〉を隠喩的に否定

それは関係性の位相のずらし

p123

なまの講演におけるトークが単なるテクストの伝達以上のもの←著者の舞台裏をのぞくような種々の儀礼的接近、効果をあげるための工夫(テクストにはないエピソード、裏話、テクストに反対の立場やコメント)

関係の虚位を自由に変容させることはそのトークにあたかもそれが一回性で唯一の直接的出会いであるかのような効果
フレッシュ・トークの捏造


p123

人が過去の体験のエピソードを語るときには、それに登場する人物に合わせて語調を変えたりときには軽くまねしたりする。また、旧知の友とビジネスの話をする際、商談をするときと友人として話をするときとでは話し方を変える(たとえば、標準語から方言へといった具合に)ということが観察される。いわゆる「コード・スイッチング」である。友人という関係のコンテクストのなかで話すときとビジネスの相手というコンテクストでは異なるトークの表現が選択される。つまり、話し手は聴き手に対して役割が固定されているわけではなくじつはさまざまなフッティング(立場)をとっているのだ。


p124
 聞き手だけではなく、「話し手」の方も聞き手といかなる関係に立つかで分類が可能である。たとえば「登場人物」である場合。とくに、日常のトークにおいては、トークに挿入されたエピソードの登場人物である(このときも、聞き手は、トークをしている相手に話しかけることはできてもエピソードのなかの登場人物に話しかけることはできない)。トークの「作者」として話すこと。トークの「本人」である場合や単に音を伝達するだけの「発声体」にすぎない場合。これらをゴフマンは「フッティング」とよぶ。あまり意識はされていないが自然なトークはいつも多彩で多元的な埋め込みが行われる。それにともなって話し手は「フッティング」をつぎつぎと変えてゆくのである。このようにして話し手は聴き手とさまざまな関係性や距離をとることによって自然な会話の自由さや柔軟性といった(そしてすでにふれたように講演においてそれが単なるテクストの硬直した伝達に終わらないように逆に捏造されるような)フレッシュ・トークの雰囲気が生まれるのである。