2014年6月22日日曜日

ちょっとだけ フッサール


現代思想の冒険者たちのシリーズを6月中に読んでしまおうと無謀な計画を立てたものの、
 
やはり無謀でした。思想家の巨匠たちごめんなさい。。。
 
 
その第00巻 「」現代思想の源流 マルクス ニーチェ フロイト フッサール」も
読み切れないうちに図書館から返却のお知らせが。
 
とりあえず現象学が気になってしかたがないので、フッサールの項だけ
読書メモ。
 

フッサール―身体と大地のアルケオロジー 野家啓一

1.最後のデカルト主義者
p218
「根本的に新たに出発しようとする哲学者」を自任

デカルトは「方法的懐疑」の遂行による「コギト」の発見という手続きで、「主観の方への方向転換」

同じ作業をフッサールは「現象学的還元」の遂行による「超越論的主観性」の発見という手続きによって実行

その意味で、フッサールは二十世紀ににおける「最後のデカルト主義者」
フッサール1907年の講義『現象学の理念』中で「デカルトの懐疑考察にならって絶対に確実な地盤を獲得すること」と述べる


2.理性の不安

p220
現象学的還元(エポケー)

デカルトの「方法的懐疑」に類比される「現象学的還元」誤解や批判も数多く、全貌を摑み切ることは難しい

高弟オイゲン・フィンク「われわれの最も奥底に根ざしている<身動きのできない状態>に一撃を加えて根源に至らしめる変革の苦痛」(『フッサールの現象学』)

メルロ=ポンティ「還元の最も偉大な教訓とは、完全な還元は不可能だということである」(『知覚の現象学』)

ハイデガー「(存在の意味への)この問いは、超越論的還元でも形相的還元でも、還元においては立てられないだけでなく、還元を通してまさしく失われてしまうのである」(『時間概念の歴史への序説』)

フッサール自身による還元(判断停止)の定式化
「あらかじめ与えられている客観的世界に対するあらゆる態度決定、とりわけ世界の存在に対する態度決定(....)をすべて妥当性の外に置くこと―われわれがよく使う言葉でいえば、客観的世界に対する「現象額的判断停止」あるいは「括弧入れ」―はわれわれを無に直面させるのではない。・・・私が獲得するのは、私自身の純粋な生であり、その生に属するすべての純粋体験と純粋に思念されているもののすべて、言い換えれば現象学的な意味での現象の全体である。・・・私自身の純粋な意識生活を伴う自我として純粋に把捉するためのラディカルな普遍的方法・・・」『デカルト的省察』

現象学的判断停止(エポケー)

われわれが日常的意識(自然的態度)において自明のものと確信して疑わない眼前に広がる客観的世界の実在性をひとまず括弧にいれてその確信をとりあえず停止し、働かない状態にする

現実世界が、主観的活動を離れてそれ自体として客観的に存在するという素朴な信念を克服することが、還元の最も重要な目標

「世界や歴史の意味をその生まれ出ずる状態において」(メルロ=ポンティ)捉える

世界と意識の間に起こる「図」と「地」の反転を自覚的な哲学的方法として遂行しようとするのが、現象学的還元ないしは判断停止の手続き

p223

超越論的主観性


意識は絶えず世界あるいは対象へと向かっている 
<この何ものかに向かう>という意識の根本的なあり方は「志向性」

現象学的還元は、世界が現れる「場」としての純粋意識を主題化、志向性によって結び付けられている世界と意識との根源的な「相関関係」をも明らかにする

意識の作用的側面「ノエシス」 対象的側面「ノエマ」

ノエマは現実世界の中に客観的に実在する対象ではなく、体験に内在する志向的対象、簡単に言えば
対象の「意味」にほかならない


→????????{たとえば、誰かを好きになるということは、客観的なその人ではなく、その人を手掛かりに自分が作りだしたイメージ、それに意味を見出して好きになったりする、というようなこと?}

現象学はこの意味形成体としてのノエマを手がかりに、ノエシスがそれをいかに「構成」するのか
という意味付与のプロセスを分析

↓それゆえ{←この因果関係がわかりにくい}

ノエシス―ノエマの相関関係は、世界の側も意識から離れて独立に存在しているものではない、ということを
意味している

⇔むしろ

意識を「超越」した客観的存在という確信そのものが、意識の志向的働きによって支えられている
{ふつうは、ということではないのか?}

↓このように

対象を意識から「超越」したものとして意味づけ、そのような存在性格を付与する意識の働き「超越論的」

つまり

「超越論的」=超越的対象の意味と存在を構成するような、意識の志向的働きを表すための言葉



高次の主観

この主観性の領野はいっさいの対象が「図」として自らを現わしてくる「地」
対象が現出する根源的な「場」

判断停止によって主題化された意識は経験的意識から区別されて「純粋意識」→「超越論的主観性」と名付けられる
この一連の手続きが「現象学的還元」

「我を忘れて」没入  →  「我に還る」

日常的意識が陥っている独断のまどろみ → 一種の哲学的覚醒


超越論的主観性という確固とした足場から、あらゆる学問や知識の「究極的基礎づけ」へ出発

デカルトにとって「良識」が「理性」の別名
フッサールのとって「超越論的主観性」が「理性」の別名

「理性は可能な偶然的事実を表す名称ではなくて、むしろ超越論的主観性一般の普遍的で本質的な構造形式を表す名称」
(『デカルト的省察』第23節)

理性と分かちがたく結びつく明証的認識
明証性「まとまりなく空虚に、予測的にあるものを思念するのではなく、あるもの自身のもとにあり、そのもの自信を観察し、直観し、認識すること」(同前、第24節)

狂人や子供や動物の意識主観の「超越論的性格」は、あくまでも「類比的に」「志向的変様態」として認められるにすぎない

言語共同体の形作る人類の地平を問題とする限り、彼らは周縁的存在

理性は万人に公平に配分されたものではなく、正常な言語能力として特権化(bevorzugen)されている

つきまとう「デカルト的不安」

やがて「発生的現象学」の構想を通じて理性による「完全な構成」が不可能であることを悟る

「超越論的主観性」の絶対的眼差しのもとに世界を置くことはでき、あらゆる認識の究極の権利源泉であっても、母なる「大地」そのものを作り出すことはできない

3.「乏しき時代」の哲学者
P231
意識と社会の著者S ヒューズによると、

第一次世界大戦は
彼らの戦争ではなかった。彼ら=フロイト、ベルクソン、ウェーバー、フッサール
彼らの息子たちの戦争であった。息子たち=ハイデガー、ウィトゲンシュタイン、ヒトラー

1890年代の著作家たちは理性の可能性に疑問を提出するに留まっていた
1905年の青年たちは公然たる非合理主義者、さらには反合理主義者

フッサールは自然主義と歴史主義の背理性を徹底した形で暴き出す

時代病の克服は、他の何ものの助けを借りることもできず、ひたすら学的哲学によってなされるほかはない。

「人は徹底した無前提性をいかなる場合にも放棄してはならない」

4.身体・地平・大地
p238
志向性の拡大と深化

デカルトに淵源するヨーロッパ近代哲学総体の乗り越えのもくろみ

「静態的現象学」から「発生的現象学」への根本的転回→「志向性」概念の拡大と深化

「志向性」フッサールにとって理性の働きそのものを表すための言葉
=「何ものかについての意識」意識と対象との根源的関係を指し示すための概念
意識と対象は常にすでに「相関関係」の中で契合しあっている、志向性とは両者が出会い、関係し合う「場」そのものの名称にほかならない

主観/客観 内/外 という近代認識論の基本前提を覆す構図がほの見える

サルトル「意識には<内部>」というものはない」
     「結局一切は、われわれ自身まで含めての一切は外部にある」

存在者の「自体能与」対象がじかに自らを与えているような状況

「射映」事物が一定のパースペクティブのもとに、特定のアスペクトからしか与えられないような事態
     視線を向けている本の見えているのは表紙だけ
     おかれている机も見えているのは引き出しのついたこちら側だけ

「現出」そのアスペクトの現われ

「私は考える」から「私はできる」へ
事物が現出する空間、方位性は身体を基準点にしている

身体は常に事物のそばに「居合わせて」いる、事物が「図」として浮かび上がるために「地」の役割

身体は「現出のゼロ点」「不動のゼロ点」ではなく「運動するゼロ点」

目の前の本に手を伸ばし、それを裏返す    立って歩き回り、机の向こう側を目にする

「キネステーゼ」身体を原点とした「私はできる」という運動能力の体系⇔デカルトの「私は考える」

私が身体をもって今ここにこうして居ること、「私は居る」という確信は、一切の認識がその上に描かれるべき「地」すなわち認識の超越論的基盤をなすもの「受動的原信念」

「私が居る」ことは「世界が在る」という受動的原信念と一体 志向性は常に対象へ、世界へと差し向けられている→発生的現象学のもう一つの鍵概念「地平」

大地という世界地平
「内部地平」端的に把握された対象をさらにその部分契機に即して解明していくことによって得られる
      
       本の色や形や重さ、表紙についたコーヒーのシミ、本文にひかれた傍線

「外部地平」当の対象をその周囲の対象との関係や背景に即して解明

        目の前の本はスタンドの手前、電話の右側におかれ、机の上に置かれている
        机は床に、床は建物に据え付けられ、建物は地面に支えられている

対象と地平、能動性と受動性は、回転ドアの表と裏のように相互に絡み合っている

われわれが内部地平と外部地平に即して対象をより詳しく規定していくことができるのも、
地平志向性によってあらかじめ対象を取り囲む意味空間が先取りされているから

この先取りは、習慣、伝統、言語、他者といった沈殿した歴史によって受動的に自己組織化されたもの

p247
大地のアルケオロジー
「大地」という言葉は、地理的広がりをもった生きられた世界の具体性を表示するとともに、
歴史的沈殿の地質学的重層性を示唆する

5・「故郷世界」としてのヨーロッパ

ハイデガーへの絶交状

p253
抵抗概念としてのヨーロッパ

フッサールは典型的な「マージナル・マン」文化的・民族的な帰属意識が薄く、抽象的な普遍性を志向

周縁人としてのフッサールにとっては、ヨーロッパすらも彼の「故郷世界」ではなかった

彼は「ヨーロッパ」という精神的価値を積極的に選び取り、それがもつ倫理的抵抗力に賭ける

「ヨーロッパ」という理念は、非合理主義へと傾斜し始めた時代状況に対する対抗概念あるいは抵抗概念として、改めてフッサールによって選び直された


フッサールの「オリエンタリズム

p258
自文化中心主義から多様な文化の共存へ

現象学的考察は、「いま、ここ、私」という身体のゼロ点から出発せざるをえないし、またしなければならない

文化的差異を超越して、一挙に普遍的視点へと飛び移ることは誰にもできない

この意味での自文化中心主義は、「負わされた条件付け」

現象学的分析は、異文化を「一つの文化」のもとに統合するのではなく、意味理解と意味構成を通じて多様な文化の共存を可能にする


パースペクティヴは固有のものであると同時に固定したものではなく、可変的


異文化とはまずもって理解を拒む「不気味なもの(Unheimlichkeit)」それとの接触を通じてわれわれの経験の自明性は根底から揺さぶられる

「唯一の準拠枠」としての自文化のアイデンティティーが危機に晒される

その不気味なものを理解可能なものとして構成するとき、その過程はどんなにわずかではあれ自己のパースペクティヴの
変容をもたらさずにはおかない。むしろ、この変容の過程をこそ「理解」と呼ぶべきかもしれない

フッサールにおける自文化中心主義の不徹底



故郷世界(Heimwelt) と 異郷世界(Fremdwelt)

フッサールは時代の急迫に促されるようにして、故郷成果と異郷世界を包括する根底的世界を彼の「原故郷(Urheimat)」で
あるヨーロッパと同一視

異文化理解とは、共通の基盤を新たに形作ろうとする絶えざる投企である試行錯誤 「暗闇の中での跳躍」(クリプキ)

フッサールの〈考えないでしまったこと〉」(メルロ=ポンティ)


6.遺産相続人たち

『フッセリアーナ』に収められて刊行されつつあるフッサールの膨大な草稿

「受動的総合」や「間主観性」をめぐる遺稿群の公刊

ハイデガーによる「解釈学的転回」

ガダマー アドルノ ハーバーマス

ガダマー 『真理と方法』(1960)「哲学的解釈学」「影響作用史的意識」「地平の融合」

リクール アーペル によって現象学の「解釈学的転回」は日気付かれる


アドルノ 現象学批判

ハーバーマス 現象学批判


メルロ=ポンティ レヴィナス デリダ

サルトルとメルロ=ポンティによる「実存論的現象学」

メルロ=ポンティ われわれの身体を通じて「生きられた世界(=生活世界)」の現象学的記述

「身体の両義性」「機能する志向性」「受肉した主観」としての身体的実存の現象学

「還元の最も偉大な教訓とは、完全な還元は不可能だということである」「超越論的主観性も、フッサールの言うように、一つの間主観性となり得るであろう」

もはやわれわれはメルロ=ポンティというフィルターなしにフッサールのテクストに接することはできない



フッサール哲学の研究から出発、後に現象学そのものを根本的に否定、独創的な思想を展開するに至った、レヴィナスとデリダが代表する一群の哲学者たち


レヴィナス フッサールとハイデガーに直接ついて学ぶ『フッサール現象学における直観の理論』(1930)

戦時の五年間にわたる捕虜収容所体験

主著『全体性と無限―外部性についての試論』現象学的方法に依拠、現象学の射程をはるかに超える視座


デリダ 『フッサール哲学における発生の問題』『「幾何学の起源」への序説』

「差延(defferance)」に結晶化される独自の問題意識

『声と現象』(1967)フッサール批判

フォネーとロゴスとの共犯関係によるエクリチュール(文字言語)の抑圧

「現前の形而上学」を解体する戦略「脱構築(deconstruction)」←ハイデガーの「現象学的解体(Destruktion)」に由来

「西欧の存在論もしくは形而上学の基礎概念が作り上げた構造ないしは建造物を解体し再構築する」作業



「二十世紀哲学はフッサールから出発した」

実存哲学、解釈学、批判理論、ポスト構造主義、脱構築理論など現代ヨーロッパ哲学の諸潮流に決定的な影響を与えてきたフッサールの現象学

ヤコブソンらプラハ言語学サークルへの影響を通じて、レヴィ=ストロースによる構造主義の成立を促した、フッサールの『論理学研究』

フッサールとフレーゲやウィトゲンシュタインとの関係

「純粋論理文法」の構想が与えたカルナップへの影響、

初期のライルにより現象学研究



エピローグ 新しい時代の知的生産のために

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