2018年6月29日金曜日

大阪大学言語文化学会第53回大会

休学中だったこともあり、その他諸々あってこのブログを休んでおりまして、
時々読んでいただいている方には失礼いたしました。

今日、びっくりしたのは、名前を公開していないのに、
ゼミの後輩の院生さんたちが自分のこのブログを見つけて
読んでくれていたということにうれしいやら恥ずかしいやら。

でもちょっと励まされました。ありがとう。

表題の学内の学会にオーディエンスとして参加して発表者の佐川さんとゼミの皆さん、
そして発表者の寺浦さんにレジュメを読んてメールでお送りした感想、そして他の発表を聴いた感想をアップします。

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佐川祥予「循環する2つの語りと関係性の構築―日本語教育の現場から―」

発表は、ブルーナーをよく読み込まれた佐川さんの理論の構築がとても説得力が
あったと思います。私はすごく勉強になりました。

この発表はもっと時間をかけるべきだというコメントがありましたが、
私も博士論文の骨組みとなるような濃い内容だと思いました。

ただ、今日も思いましたが、言文の教授レベルの先生方に受けるには、
実際の談話データに基づいた新しい知見つまり新規性を押し出すことではないかと思います。
というのは、これまでの博士論文審査会などを聴いた印象では、言文の先生方は
なぜか前半の先行研究のセクションや理論構築のところはいくら
一生懸命に説明してもすっと流されるような気がします。

一つには、これまで長年の研究生活や毎年の修論、博論の発表会で先行研究については
聞き飽きているので読んでいなくても知っている名前を聴くと、なんとなく
知っているような気がして興味を失うのかな、と思います。

また、たぶん(あえて辛口でいうと)お年寄りなので、日本人や留学生にかかわらず
若者の話しことばとか、現代の談話の現場では何が起こっているのか、
ということとそれを若い研究者はどのように解釈しているのか、
ということに興味関心が強いのではないかと思われます。

私の博論審査会の失敗を踏まえると、先行研究のところで現象学の勉強に力を入れすぎて、
データの解釈や考察に緻密さや現象学との一貫性が欠けたので指導教官も
他の先生方に何を結局言いたいかわからない、と言われて談話データの解釈など
先生も専門ではないので、僕も貴女が何を言いたいかわからなかったので、
先生方を説得するようなことは何も言えなかった、
ということが審査を通らなかった理由でした。

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寺浦麻由「『金閣寺』の英語翻訳における「建築」イメージの考察」

発表が聞けなくて残念でしたが、レジュメがわかりやすかったのでほとんど聞いたような気になりました。翻訳についても全く素人なので何もわからないにもかかわらず、翻訳というものの普遍的な問題を含んでいる重要な研究だという感想をもちました。

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趙洋 「構築主義のジェンダー観から英文和訳における女性語の増訳を考察する―The Age of Innocence のMayの言語使用を中心として―」

この発表者の人は、一度何かの授業で(たぶん日野先生)一緒になって、それから院生室で見かけるたびにとても礼儀正しい日本語で話しかけてくれる中国人の留学生で、いつもPCに向かって何を研究しているのかなあ、と思っていましたが、見るからに地道にでもものすごく頑張って勉強している人でした。

タイトルを見て聞きにきたところ、あ、知っている人だと思ってすぐわかりました。内容は英語の小説を日本語の翻訳者が訳すときに現代で使われていない女性的な終助詞「~わ」を使う、ということを指摘しており、日本人は意識しないかもしれないが、日本語非母語話者にはすごく気になる、これは今の日本の社会が進むべき方向から逆行して差別を助長しているのではないか、という内容でした。

中国人の留学生はよくそういう日本文化の女性差別的な現象が気になるようで、ちょっと前にも、洗剤のCMでジャニーズの男性アイドルが白衣を来て研究者のアイデンティティで、それに対する女性の主婦が感心しているという場面をどう思いますか、と日本人と中国人にインタビューしてそれを修士論文にしていました。私もインタビューされて、それは日本はもう変わらない、ともう諦めている、と言いましたが、そういう自分の思いを言語化したのはその時が初めてでした。

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林 桂生「オートエスノグラフィーの可能性」

この方の発表は、いつも気になってよく聴きにいっています。というのは、自宅塾の
生徒で小学校3年生から社会人までずっと英語指導をしている若者が
高機能自閉症で、彼が感じていることは本当は何なのだろうか、
ということを知りたいからです。

林さんは、自分のことを障がい者だと今日も仰っていて、自閉症で研究者で
あるという人にとても関心が強く、でも少しでも違和感があるとそれは
違う、と自分を過不足なく表現するにはどうしたらいいんだろうか、と
いう葛藤が激しい、ということが見受けられます。

私のところに来ている彼は、社会に適応することが正しいことだ、
という、おそらく育った環境からきた信念に基づいて行動しているので
そういう葛藤は危険だと押さえつけて社会に適応しています。
小学校、中学校では特別支援学級で勉強し、彼が高校と言っている
特別支援学校を卒業で、障がい者枠で大手企業でお掃除の仕事をしています。
得意分野は偏ってはいますが、知的レベルが高いので、
長年の英語レッスンの成果で、海外に行ったこともなく、
外国人と話したこともほとんどないのに、
毎週私と英語で話し、自分の思ったことを英語で軽々表現できます。

ただ、適応力が高すぎて上司や大人が何を期待しているのか、
ということを読み取ろうとしたり、自分は自閉症でも
こんな症状はない、と言うのが本当なのかどうなのかよくわからない。

もっと違う教育を受けたら、林さんのように大学に行って大学院に
行って社会に批判的な修士論文や博士論文を書いて英語の書き言葉で別の活躍が
できたのかもしれない、と思ったり。

でもそう私が思うことが既に自閉症の人たちの多様性をわかって
いない、ということかもしれません。


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