授業が始まりました。
指導教官は、日本語教育がご専門なので博士後期課程のゼミは、
半分以上が、中国、韓国、タイなどのアジアの留学生。
博士課程の院生はどんな感じなのか見当もつかなかったのですが、
皆、地道に、でもしっかり研究しているなあ、という印象です。
自分の研究に関係ある学会や活動はどんどん積極的にやりなさい、と勧められていました。
修士課程では、指導教官に押されるがままに動いていたのが、もう、自分で
計画をたてて研究活動を進めていかないと、三年なんてきっとあっというまだ、
ということがよくわかりました。
ゼミのあと、興味のある院生が先生を囲んで、ガラス張りの食堂で、バフチンカフェ。
こちらは言語文化研究科のM2, 文学研究科のD2、助教の先生。
さっそく来週のためにJacoby and Ochs (1995)のCo-Construction:An Introductionという
論文が配られて、先生から課題をもらいます。
その後、院生から先生へさっそくお題が延べられました。
「なぜ、バフチンは、当時のソ連の社会状況下で、発話に注目したんでしょうか?」
まず、1917年のボルシェビキ革命、十月革命からはじまって、本来のマルクスらしい
マルクスの考え方、ほんとうの社会主義革命とはプロレタリアのための革命ではない、
ということが説明されました。
ロシアは帝政から、ブルジョア革命をすっ飛ばして社会主義のソ連となり、色のついた
マルクスレーニン主義(オーソドックスなマルクス主義)が席巻します。それは、
もともとマルクスの目指したものとはちがう、不幸な歴史をたどりました。
マルクスが目指したのは、すべての人がそれぞれの立場で役割を果たしている、
と思える、疎外のない国をつくることでした。資本主義になれば、商品が生産され、
労働が商品になり、資本家が生産活動を支配し、疎外状態が生まれ、
みんなのための労働ではなくなります。経営者も本来は役割であるはずが、
雇われ経営者となり、みんなに喜ばれるようにはなりません。
しかし、マルクスレーニン主義のもとで、社会主義のソ連は根本的なものの見方からすべてを
新しくしようとして、1990年に崩壊し、社会主義のもとでは幸せになれない、という
ことになって、マルクス主義はだめだ、ということになりました。
マルクス主義的○○○というのは心理学から芸術から当時の枕詞になっていたそうです。
すべてのオーソドックスな学問を見直そうという動きがあり、ヴィゴツキーも、教育の
基礎理論から改革するというテーマを持っていました。
しかし、どこの国にもマルクスをきちんと勉強してきた人たちがいて、それが
近年のマルクス・リバイバルにつながっているそうです。
では、「マルクス主義的マルクス」とは何なのか?
実は、ヴィゴツキーもバフチンも本来のマルクスらしさが一番出ている「ドイツ・イデオロギー」
を読んだのか、という問題があるそうです。
そこで、バフチンです。
バフチンは、文学、記号を中心にした文化論をやりたかった、だが、当時のオーソドックスな
見方ではラブレーもドストエフスキーも分析できなかったので、言語哲学を
やった。当時は, 言語活動のうち、言語事項ばかりが研究されていたが、これだけでは、
文学や文化の研究はできない。
現実は、生きるという「実践」すなわち発話である。(実践には書き言葉も含まれます)
しかも、発話は、単独ではない。すべての発話は、コミュニケーションつまり会話の流れの中にある。
発話=気持ちの兆候(sign)であるということが重要。発話は、われわれの気持ちに
かかわってきている。発話には多声性がある。つまり、発話は気持ちと一対一対応では
ない、その時のその人の気持ちに対応している。
一つの外言とともに、無数の内言が発生する。われわれは、われわれが受け取った気持ちに
対して応答している。
実践は動いている。人間は、動物と違って、自分たちの現実、世界を人間の力で改変
していっている。
みんなである種類の現実をやっているからその現実は続く。それぞれの現実は微妙に
ずれているが、ある程度の共通性はある。そのずれゆえにhybridが起こり、新しい技術が
発展する。
practice theory of learningをやっているのがヴィゴツキー。それに相対するのが、統計や
数字で世界を切り取るようなこと。だが、それはそれでいい。
ここで、別の院生から質問。
「それはポスト構造主義ではないのでしょうか?」
構造主義というのは、物事には構造、システムがあるはず、という考え。ソシュールなどもそう。
バフチンは、one culture, one societyはありえない、とみる。そういうものは
前提としない。one culture, one societyと見えるものも、いろんな文化が混ざっている。
one languageというシステムもありえない。バフチンはpracticeしかみない。
「世界はどうなんだ」というのが認識論、closed なone cultureがポンポンと世界のあちこちに
あるのか、そんなことはない、borderはあっても混ざっている。バフチンのは言語観、
というよりも世界観。
それでは、バフチンの「世界はどうなんだ」ですべての現象を説明できるのか?
大体これで時間切れ。
あと、研究者のテーマの選び方について。この研究が教育にどう応用できるか、というような
ことは書かないほうがいい。できない提言は書かない、と言われていました。