次回のしつけんまで一週間あまり。
やっと大学の図書館のペナルティ期間(延滞した日数だけ借りられない)
が終わったので、ハンス=ゲオルグ・ガダマーの「真理と方法」3巻を
借りてきて、超特急で読んでいます。
前回、せっかくディルタイがお題だったのに忙しさにかまけて、
紀伊国屋で売ってるし、薄いしすぐ読めるだろう、という理由で
安易に岩波文庫の「世界観の研究」を買ったのを反省。
メンバーが濃いのでディスカッションはもちろんすごく充実して
ディルタイのこともある程度わかったような気にはなりましたが、
今思い返すとあまり残っていない。
やはり、一人の哲学者を一ヶ月で勉強するには、主著を
読まなくちゃだめだ、と猛省し、数日間ブルドーザーのように
飛ばし飛ばし読んで、抜き書きは今のところ12ページくらいです。
一応これも博士論文に入れるつもりで。。。。
ガダマーは、ウィキペディアによると1900年から2002年とごく最近まで
生きていた人のようで、えっ!そんな長生きした人なんか!
と思って確認するとやはりそうでした。
ハイデガーに師事し、解釈学を独自の考えで推し進めた人の
ようです。しつけんのメンバーは日本語教育の人たちで、私と同じく
現象学的方法論を使って研究しようとしている人もいるので、
現象学的看護研究の参考書にあげられている解釈学のディルタイや
ガダマーを勉強したい、ということになり、今回選ばれています。
この本も難解なのですが、西口光一先生がご自分のバフチン研究を
どちらかといえば解釈学なのだ、と3年前におっしゃっていらい、
解釈学、解釈学って何???とずっとクエスチョンマークが
頭の中に残っていたので、なるほどなるほど、と読み進められて
少し快感です。それに、文献学や、歴史、聖書、芸術とあらゆるものの
理解と解釈の研究と学問についてのいきさつが説明されていて、
始めは関係ないから読み飛ばそうと思ったのですが、
だんだん英語授業の談話という他者のことばを解釈する自分の研究を
さらに深く裏付けるものでもあるということがわかってきて、
読み飛ばせなくなってきました。
先月、バチカン美術館でイタリア語も宗教的なことも絵画のことも何も
わからないまま、何時間も芸術作品の中を歩き回っていて
それでもなにかしら身内に入ったような気分がしたのも関係があるかも
しれません。
来週から、非常勤先の大学の授業が始まります。
前年度の反省は直後にしたっきり、スキルのブラッシュアップもろくに
できていないけれど、新しい職場、新しい学生たちに向き合うために、
この冬から春にかけて、考えたこと、勉強したこと、経験したことが
どれだけどういうふうに授業実践に反映するのか、怖いことこの上ない。
さあ、またがんばろう。
あ、博士論文も。。。
2017年4月7日金曜日
2017年4月2日日曜日
質的コンソーシアム その他
この3か月はほんとうにバタバタでした。
ブログを読み返してつらつら思い出してみると、
それでもやらないといけないことは全部なんとかやりとげたなあ、
と自分をほめてあげたいです(内容はともかくも)。
子どもが大学院を修了していよいよ独立するので、
最後の家族旅行の目的地で彼女の希望が二転三転。
結局、二人とも行ったことがない土地ということでイタリアに
決まって、いい思い出作りになりました。
ところが、出発ぎりぎりになって(ありがたく)非常勤の仕事が二校も入ってきて
そのための研究業績書、履歴書、シラバス、文科省に出す書類など
を数日で提出するようにと言われ、のばしのばしにしていた
査読付きのproceedingsの論文とか、確定申告とか、もう何が何だか
わからないまま、出国の東京と乗り継ぎのロンドンの空港でも狂ったようにやっていました
(先生方がよくそういうことを言われていますが、まさか自分もそういうはめに
なるとは)。
色々学会や研究会の予定を入れていたのですが、なかなか参加できず、
帰国してからやっと「英語教育における質的研究コンソーシアム」
に行けました。こちらです。
http://eltqualitativeresearchjapan.blogspot.jp/
なんかもう、阪大に入ってから色々と振り回されていましたが、
これが自分の本来のフィールドで研究分野なんだとほっとしました。
日本語教育ではないし。
会話分析でもないし。
社会言語学でもないし。
自分が研究したいのは、
日本の公教育での中学校や高校での授業における
英語教育(私学ではなく)であって、
英語を一生懸命に中学校と高校で勉強した子が
高校を卒業した時に、外国語を使えると実感するような
公教育はどういうものなのか、ということです。
自分はたまたま、NHKの基礎英語をまじめに3年間ラジオで聞いて、
たまたまAFSと出会って一年間アメリカへ留学できたので、
英語が使えるようになったけれど、本来は公教育で
ある程度使えるようにしなければいけないのではないか。
そう思っています。
そういう志を体現するような博士論文を書かなければ
貯金と時間をたくさん使って大学院に来ている意味がない。
もうふりまわされずに、自分の志を貫いて納得できる博士論文を
書きましょう。がんばろう。
ブログを読み返してつらつら思い出してみると、
それでもやらないといけないことは全部なんとかやりとげたなあ、
と自分をほめてあげたいです(内容はともかくも)。
子どもが大学院を修了していよいよ独立するので、
最後の家族旅行の目的地で彼女の希望が二転三転。
結局、二人とも行ったことがない土地ということでイタリアに
決まって、いい思い出作りになりました。
ところが、出発ぎりぎりになって(ありがたく)非常勤の仕事が二校も入ってきて
そのための研究業績書、履歴書、シラバス、文科省に出す書類など
を数日で提出するようにと言われ、のばしのばしにしていた
査読付きのproceedingsの論文とか、確定申告とか、もう何が何だか
わからないまま、出国の東京と乗り継ぎのロンドンの空港でも狂ったようにやっていました
(先生方がよくそういうことを言われていますが、まさか自分もそういうはめに
なるとは)。
色々学会や研究会の予定を入れていたのですが、なかなか参加できず、
帰国してからやっと「英語教育における質的研究コンソーシアム」
に行けました。こちらです。
http://eltqualitativeresearchjapan.blogspot.jp/
なんかもう、阪大に入ってから色々と振り回されていましたが、
これが自分の本来のフィールドで研究分野なんだとほっとしました。
日本語教育ではないし。
会話分析でもないし。
社会言語学でもないし。
自分が研究したいのは、
日本の公教育での中学校や高校での授業における
英語教育(私学ではなく)であって、
英語を一生懸命に中学校と高校で勉強した子が
高校を卒業した時に、外国語を使えると実感するような
公教育はどういうものなのか、ということです。
自分はたまたま、NHKの基礎英語をまじめに3年間ラジオで聞いて、
たまたまAFSと出会って一年間アメリカへ留学できたので、
英語が使えるようになったけれど、本来は公教育で
ある程度使えるようにしなければいけないのではないか。
そう思っています。
そういう志を体現するような博士論文を書かなければ
貯金と時間をたくさん使って大学院に来ている意味がない。
もうふりまわされずに、自分の志を貫いて納得できる博士論文を
書きましょう。がんばろう。
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